善とは何か、偽善とは何か。
善の解釈、偽善の解釈は人類が問い続けてきた謎の一つである。
特に、ストレス社会の現代や、コロナ禍の今では、善が持つ意味合いはより一層大きなものとなっているだろう。
善の持つ意味は個人によって分かれる所があり、一概にはこれといったものは定義できない。こういうものに関しては、辞書的な定義によって決定するのは難しい。
結局のところ、私ごときが善の定義など出来ようはずもない。私にできるのであれば、過去の偉人がっとっくのとうにしているだろう。
だから、ここでは私個人の解釈を述べることにする。
善とはなにか。
先日、実に馬鹿馬鹿しい話を聞いた。思わず笑ってしまうほどで、怪訝な顔をされたのを覚えている。
善とは、真に他者の為を思って行うことで、少しでも自己の満足があれば、それは偽善だというのである。
実に馬鹿馬鹿しい。私の考えから言わせてもらうと、そもそもから間違っている。
自己の為の行為が善にならないなどという説は善・偽善の話ではない。
もしこれがまかり通るなら、民事裁判のおおよそ全ては偽善であるということになる。そんなわけがない。
この説は、他者救済の自己満足に陶酔する自分を嫌悪する自意識の一部が自らの行いを批判することでその嫌悪を和らげようとする反応を善・偽善と混同しているに過ぎない。
つまり、これは自己満足の領域である。
善・偽善とは、権利主張のことである。そこに責任が伴うか否かが善と偽善の違いである。
どういうことか。
例えば、ある者がSNS上に投稿をし、それを削除されてしまったとする。
その者はそれを不服に思い、表現の自由を訴えた。
ここが『権利主張』にあたる行為である。その者は『表現の自由』という権利を主張している。
そして、削除された投稿にはプライバシー保護や、誹謗中傷などの観点からみて、問題がなかったとする。
これが『責任が伴っている』ということである。筋が通っている、といってもいい。
この場合が『善』という行為である。
逆に、その者の訴えに正当性がなければ、それは偽善なのである。
他者救済の時にも、このことはいえる。
責任を果たしてなお、権利が得られなかった者への助力は善、責任を果たしていない者への助力は偽善である。
これこそが善・偽善の私の解釈であり、これの善にあたる行為こそ、個人が、企業が、マスコミが、政府が行うべきことなのである。
ここからは完全に蛇足ですが、E社とA社の企業戦争に関して、この考えにあてはめると、E社の行いは完全に偽善であり、企業として行うべきではない、ということになります。
E社はあたかも当然の権利かのようにA社を批判していますが、E社の行いには筋が通っていないということがわかります。一度、手数料の徴収に合意したにもかかわらず、それを違反すれば、削除は当然の措置でしょう。A社の手数料の高さを理由にし、正当化させようとしていますが、手数料が高いことと、規約を違反することは全くの別問題であり、論点のすり替えです。手数料に異議があるのなら、このような方法ではなく、しっかりと両社で協議する道を模索するべきでしたし、それが無理なら、新プラットフォーム開拓・開発などの道を使うべきでした。
いわばそれが今回の主張の責任であり、E社は実際それを果たしていません。
E社の主張はお門違いと言わざるを得ないでしょう。