インテリ眼鏡、襲来
「あの、マスター」
「おう」
早朝の喫茶店で開店準備をしていると、引き立てのコーヒー豆の香りが鼻腔をくすぐってくる。
昨日色々あったせいか頭痛がしていたけど、この香りを胸いっぱいに吸い込むと気分が和らいだ。
今日のスペシャルブレンドは、どんな味なんだろう。
そんなことを思いながら、わたしはマスターである大狼 久雄を見上げた。
「どうした」
マスターも何かあると思ったのか、豆をひいていた手を止めて、こちらを振り向いた。
正面から見ると、威圧感がすごくて、壁みたいな人だなと思う。
「今日の朝陽さんのモーニング、代金はわたしが出しますので」
「……理由を聞いてもいいか?」
「昨日、ユキちゃんの彼氏さんの件で、お世話になりまして」
ちなみに、ユキちゃんとは今朝の出勤途中にばったり会って、少し話した。
なんでも近隣の人が救急車を呼んでくれたらしく、気がついたら病院のベッドで横になっていたそうだ。
夜勤のお医者さんに診てもらったらしいが、一晩様子を見て帰されたと話していた。
今のところ問題なさそうだが、希望すれば、後日検査をすると言われたらしい。
連絡先を知らないし、あの後どうなったのか心配だったけど一応、無事で良かった。
ちなみに、彼氏さんの方は、衰弱しているので数日入院して、様子を見るのだと言っていた。
「色々と迷惑をかけちゃったと思うので、お礼に朝食くらいはご馳走したいなと」
「そうか。わかった」
マスターの怖い顔が、さらに険しくなったけど、その理由はわからなかった。
「……あまりよくないですかね。こういうの」
「いや、そうじゃない。朝陽はなあ。気の良いやつだが、色々とあってな。ま、付き合うならほどほどにしとけ」
言うだけ言って、マスターは厨房へ向かった。
ほどほどの付き合い、というのがどの程度かはわからなかったけど、昨日のことも含めて考えているうちに、時間が過ぎていたらしい。
──カラン、という鈴の音とともにお客さんが来店した。
「いらっしゃいませ!」
朝陽さんかなと思って、顔を上げると、そこにいたのは初めて見るお客さんだった。
くせ毛なのか、パーマをかけているのか、少し毛先のはねた黒髪をきれいにスタイリングしている。
かっちりとしたスーツを着て、重たげな黒ぶち眼鏡を身に着けており、ぱっと見は通勤途中のサラリーマンにみえた。
「あなたはこちらのお店の従業員ですか?」
切れ長の、神経質そうな目で見つめられて、わたしはごくりと唾をのんだ。
こ、これは……教えてあげたほうがいいのだろうか……。
わたしは男性の体の一部の異常を見つけて、困惑した。
「はい。そうですけど、経営者に御用ですか?」
保健所の人かな。それともこのビルの管理関係の人だろうか。
とりあえず、厨房にいるマスターを呼びに行くべき?
色々と疑問に思いながら見上げていると、スーツの男性は「いいえ」と首を振った。
「国津 朝陽をご存じですか? 毎朝こちらへ朝食を食べに来ると聞いて、訪ねてみたのですが」
黒ぶち眼鏡がきらりと光った。
眼鏡越しに見つめてくる目は真剣そのもので、嘘をつくのはためらわれる。
「朝陽さんのお友達ですか?」
「いいえ。同業者です」
「はあ」
朝陽さんの知り合いだったら、教えてあげたほうがいいかな。
「ふむ、……今朝はこちらへ来ていないようですね」
どうするべきか悩んでいるうちに、男性は踵を返した。
「お時間をいただきありがとうございました。また来ます」
「あのッ! ちょっと待ってください!!」
「……なにか?」
慌てて呼び止めると、男性がこちらを振り返る。
眉根を寄せ、指先で眼鏡のブリッジを持ち上げる姿は、いかにも不機嫌そうだ。
「あのー。非常に言いにくいのですが……」
わたしがもじもじしていると、男性はいら立ちをこらえるようにため息を吐く。
「私は急いでいるのです。では、これで」
颯爽と去ろうとするスーツの男性の腕を掴み、わたしは大きく息を吸った。
ええい! ままよ!!
意を決し、勢いに任せて叫ぶ。
「あなたのッ──こ、股間のチャックが! 開いているんです!!」
「な、なんですとッ!?」
「ですから、開いているんです!! 股間のチャックが!!」
それどころか、下にお召しのものも、ちょっと見えてます!
……とまでは、流石に言えなかった。
「に、二度も言わなくて結構! 私としたことが何たることだ!!」
真っ赤な顔であわあわとズボンのチャックを上げた後、男性は羞恥をこらえるように唇をかんだ。
「お、お見苦しいところをお見せしました。ご指摘感謝します」
「い、いえ。むしろ伝えるのが遅くなってすみません」
「私は阿部 礼司と申します」
「はあ。ご丁寧にどうも。わたしは佐江葉 ミコトです」
初対面の挨拶が終わった後、阿部さんはコーヒーを一杯飲んで帰った。
見た目はクールなインテリ風だったが、蓋を開けてみれば、意外や意外。
注いだばかりのコーヒーをこぼして火傷しそうになったりと、何かとおっちょこちょいで愉快なお客さんだった。
「ずいぶんと賑やかな客だったな」
作業がひと段落ついたのか、厨房からマスターがひょっこり顔を出した。
「はい。朝陽さんのお知り合いだそうで」
朝陽さんとご同業らしいが、二人の見た目や雰囲気が違いすぎて、どんな職業がピンと来ない。
色んな意味で衝撃的なお客さんだったせいか、朝から感じていた頭痛は、いつの間にかどこかに行っていた。
阿部さんに感謝しつつ、わたしはマスターへ労いのコーヒーを渡す。
「あいつの知り合いが訪ねてくるとは、穏やかじゃねぇな。──朝陽は?」
「まだ来てません」
マスターはコーヒーを一口飲むと、小さなため息を吐いた。
「面倒なことにならなきゃいいが……」
低く呟いた声がこれから起こる出来事を象徴するようで、とても印象的だった。
少し遅い時間まで開けて待ってみたものの、結局その日、朝陽さんが喫茶店へ来ることはなかった。