捕食
──”それ”は、黒かった。
暗い部屋の中でも黒とわかるほど、闇色の塊。
”それ”は床につくほど伸びた黒い髪を、ずるずると引きずりながら、ゆっくりと顔を上げる。
顔があるはずの部分には二つの大きな眼窩と、幼児が書いたへたくそな絵のように、いびつで大きな口があった。
「ユキちゃん!」
見えていないのか、まっすぐ”それ”に突っ込んでいったユキちゃんは、突然バタリと倒れた。
顔面から床に突っ込んだから、激痛に悶えていてもおかしくないのに、ユキちゃんはうつぶせに倒れたまま、ピクリとも動かない。
『……ヒヒ……ヒッ……ウフ……』
三日月形に大きく開いた口から、笑い声のような音を発しながら”それ”はユキちゃんを踏み越え、こちらへ向かってくる。
「こ、……こな、こないで!」
違う! 逃げないと!!
わたしは必至で走った。
どこをどう走ったかなんて覚えていないけど、まだ明るい時間だし、人のいる場所に出れば安心だ。
そういう気持ちがどこかにあったのかもしれない。
手足が重だるくて、思うように動かなかったけど、必死で走り続ける。
「……ッ……はあ、……はあ──ここまでくれば、」
駅の近く。
行きかう人が多い通りで膝をつくと、周りの人々が怪訝な表情を向けてきた。
いつもなら恥ずかしいと思う視線も、安心感に変わる。
こんなに人がいるのだから、もう大丈夫なはずだとほっとした。
『……ヒヒ……ヒッ……ウフ……』
けれど──耳元で、聞こえた音に、凍り付く。
「え?」
反射的に耳を抑えて、音のした方向を振り向くと……そこには、あの三日月形の大きな口があった……。
手は冗談みたいにブルブル震えているし、ひどい吐き気と頭痛がした。
鼻から滴る生臭い液体は拭っても拭っても、しつこく流れ出してくる。
どうして、誰も助けてくれないの?
あれだけいた通行人はどこへ行ったのだろう?
「あ、あ、あ……」
言葉にならない声と、歯の根が、カチカチカチ、と忙しなくなる音がどこか遠くで聞こえた。
目の前で、三日月形の大きなそれが、縦に大きく開いていく。
人の口を伸ばして叩いて、無理やり広げたような、巨大な口にはたくさんの小さな歯が生えていた。
吐き気をもよおす生温い息が全身を包み、ぬめった口内から伸びてきた肉厚の舌は、味を確かめるように、わたしの顔をベロリ舐めあげた。
「ひぃ……」
涙がボロボロと流れて、喉がひっくひっくとしゃくり上げる。
逃げなければ、と頭では分かっていても、ガクガク震えるばかりで、わたしの足は何の役にも立たない。
寒気と、吐き気、ひどい目眩で混濁した思考の中、分かったのは一つだけ。
わたし、食べられちゃうんだ。
このまま、バリバリと、頭から。
「──こんにちは、エサバちゃん。真昼間から、こんなところで、なんしようと?」
恐怖に耐えきれず、ぎゅっと目を閉じたわたしに、散歩途中の挨拶のような気軽さで、話しかけてきた男の人。
その人は、今朝会った時と同じ、青いウォッシャブルジーンズをはいていた。視界の端では、見覚えのある、カーキ色のロングカーディガンの裾が揺れている。
「おー。これはまた、一段と凄いのを連れとるね」
彼の『挨拶』で、わたしを食べようとしていた口の一部が──ぞぶり、と消えた。
ぞぶり、ぞぶりと、歪にうごめく彼の影が、わたしを襲った怪物を……。
食べて、いるように見える。
「朝陽さん、ですよね?」
「そうだよ」
「なにを、してるんですか?」
「エサバちゃんを助けてるっちゃけどー……ああ、ダメだよ。俺の影をそんなに見ないで。見なくていいものまで見えるようになるかもしれんけん」
行きかう通行人の間をずるずると這って逃げ回る、口の怪物を、朝陽さんの影が引きずり回して捕食している。
通行人たちにはそれが見えていないようで、私と朝陽さんをいぶかしげな表情で見ては、通り過ぎてゆく。
「ほーら! そこまでにしとって。エサバちゃんに何かあったら、俺も困るし」
背後から手で目隠しをされたから、口の怪物がどうなったのかは見えない。
暗闇はまだ少し怖かったけど、瞼に触れる手の温かさと、ほのかに香る、柔軟剤の香りに何だかほっとした。
目隠しが取れたら、怪物は消えていたし、朝陽さんの影も普通に戻っていた。
けれど、朝陽さんと目が合った瞬間、悪寒がして、背筋が震えた。
止まったはずの鼻血もぽたぽたと流れ始めて、こみ上げる吐き気に、くらくらとめまいがした。
「きぶんがわるい」
「見ちゃいけないものを、見つめとったからね。ゆっくり休んどったら、治ると思うよ」
ふわりと体が浮く感覚に焦って、近くにある何かにしがみつくと、それは朝陽さんだった。
「家、近くって言っとったでしょ。送っちゃるから、ちょっとだけ我慢して」
ああ、前にそう言う話をしたっけ。
わたしは小柄なほうではあるけど、横抱きにするなんて朝陽さんは意外と筋力があるんだなあ。
そんなことを思いながら自宅の大まかな位置を伝えた後、気になることを聞いてみた。
「……朝陽さん。わたしは、何に襲われて、何に助けられたんですか?」
”あれ”は思い出したくもないくらい、怖いものだったけれど、知らないままでいるのはもっと怖い。……わからないまま、不安を抱えて過ごすよりも、なんであるかを理解することで、今日の出来事は解決済みなんだって。もう二度と起こらないことなんだと思いたかった。
「知らなくていいと思うけど、まあ、いっか。──エサバちゃんのいう”あれ”も俺の影も、同じ怪物だよ。つまり、エサバちゃんは、怪物に襲われて、怪物に助けられたってこと」
「どっちも、怪物……? 意味が、分かりません」
わたしは自分を助けたのが、怪物であることを認めたくなかったのかもしれない。
「俺の怪物の主食は、エサバちゃんを襲ったような怪物でね」
先ほどの捕食光景を思い出して、わたしは鳥肌が立った。
「主食、ですか。怪物が怪物を食べるんですか?」
「そう」
人間を食べる人間だっているでしょ? と、朝陽さんは笑いながら、とても怖い例えを使った。
──怪物を食べる怪物なら、人間だって食べるかもしれない。
気がついて、わたしは息を詰める。
「影の怪物と俺は共生関係にあるから、ある程度いうことも聞くし。今のところエサバちゃんを襲うこともないから、安心して良いよ」
”今のところ”というのが不穏な響きではあったが、それよりも気になる言葉があった。
「共生関係ってなんですか?」
「俺と影、どちらかが欠けると存在できないってこと。こうなった原因はわかってるんだけど、解決方法がわからないんよね。味覚も共有なんだけど、そこは趣味があうとよ」
「影に味覚なんてあるんですか?」
味覚があろうとなかろうと、わたしには関係のないことだったけど、妙に気になった。
「俺も”影の”も甘いものが大好物なんよ。だから、喫茶店は絶好の餌場だったっちゃけどねー」
エサバちゃんに嫌われて、オオカミさんに出禁にされたら困るなあ、なんてうそぶく朝陽さん。
というか。
「絶好の、エサバって……」
「そう。エサバちゃん、毎日何かしらに取り憑かれとるし。良くも悪くも人外に好かれる、人外ホイホイみたいなもんやろ? エサバちゃんに取り憑いているのを影に食べさせれば、お互い助かるってことで。俺の朝食のついでに、”影の”の食欲も満たせるから便利なエサバだったんよねえ」
「えぇー」
エサバって……餌場のこと!?
わたしが、餌場!?
「怪物って元々の味はそんなに美味しくないっちゃけど、エサバちゃんにとりついた奴は、大体お菓子や果物みたいな味がするから本当に助かってて」
けだるくて頭痛がしていたのは、私が何かに取り憑かれてたからで。
朝陽さんに会うとよくなっていたのは、わたしに取り憑いていた何かを、朝陽さんの影が捕食していたからってこと!?
思い当たることが多すぎて、わたしは頭を抱えた。
「エサバちゃん? 大丈夫?」
「……エサバ、エサバって……わたしの苗字は佐江葉です! 助けてもらっておいてなんですが、人を餌場扱いだなんて、控えめに言っても最低だと思います!」
怪物の味覚とか、わたしが取り憑かれやすい体質だとか。
情報が多すぎて混乱してきたけど、かろうじて、そこだけは訂正を入れた。
「うんうん、最低だよねー。ごめんねー。それでさ、朝食っていうのは、その日を左右するといっても過言ではないくらい重要な──」
朝陽さんは、喫茶店の朝食に未練たらたららしい。
わたしの抗議もなんのその。
彼にとって朝食というものが、いかに大事であるかを延々と語っていた。
「──というわけで。それじゃあ、エサバちゃん。また、があると嬉しいな」
甘く整った美貌の持ち主にやさしく微笑みかけられると、勘違いをしそうになるが、この人はアレだ。
食い意地が張っているだけだ。
「マスターは朝陽さんを出禁になんてしないと思いますよ」
ため息交じりに「大丈夫だと思います」と告げる。すると、朝陽さんは降参とでもいうように、両手を前に突き出してヒラヒラとふった。
「いやいや、オオカミさんって、バリ過保護だから! エサバちゃんが俺に酷いことをされたー! って泣き付けば、一発で出禁っちゃないと?」
「助けてもらったのに、そんなことしませんよ。それよりも、です! 何度でも主張しますけど、影のエサバだから、エサバちゃんって、酷過ぎる!!」
ネーミングセンスが最悪だ。
悪意しか感じない。
「あー。あはは、俺も言わなくていいこと言っちゃったなあ。まあでも、わかりやすいやろ」
本人が全く悪びれていないのが、余計に腹立たしい。
アパートの手前でわたしを降ろし、部屋の前まで送ってくれた朝陽さんを振り返り、鼻息も荒く宣言する。
「わかりやすいとか、そういう問題じゃありません! 何度でもいいますが、わたしの苗字は佐江葉です! こうなったら朝陽さんが覚えるまで、言い続けますからね!」
「はいはい。それじゃあ──おやすみ、佐江葉ちゃん」
理不尽なのは向こうの方なのに、仕方がないなあ、なんて表情をされてイラついたせいだろう。
「だーかーらー! って、え……っ?」
条件反射で噛みつくような言葉を投げようとして、虚を突かれた。
「お友達の様子も見てきてあげるから、今日は家でゆっくり休んでなさい」
優しく背中を押されて、部屋に入った後、わたしは玄関にへたりこんだ。
なんだそれ。……ずるい!
助けて、怖がらせて、怒らせて。
元気になった後に、優しくするだなんて──ずる過ぎる!!
おかげさまで、恐怖と不安を涙で流してしまった後、お風呂で温まって、ぐっすりと眠ることができた。
明日、お礼を言わないと。
なんなら明日のモーニングはわたしのおごりでもいい。
しかし、翌日、朝陽さんが喫茶店に来ることはない。
意気揚々と出勤したわたしがそのことを知るのは、もう少し後のことだった──。