喫茶店 フルムーン
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丸太のように太い腕に相応しい、大きな手と骨太の指が、丁寧に豆を挽く。
香ばしい豆の香りに誘われて、深呼吸をすると、幸せの香りが肺腑を満たした。
「いーい、香り〜!」
うっとりと、目を閉じて、香りを堪能しているとサイフォンコーヒーの湯が沸き立つ音が聞こえてくる。
このお店のマスターの手先は、見た目に反してとても器用だ。入れるコーヒーは香り高く、雑味の少ない、クリアーな味がする。
飲み慣れたコーヒーの味を想像し、ごくりと喉を鳴らすと、コトリと控えめな音がした。
「これを飲んだら、モーニングの準備だ」
重低音に目を開くと、目の前には苺柄の可愛いティーセットが置いてあった。
白地に苺の花と実が愛くるしく描かれたティーカップの中に揺れる、黒い液体。口当たりの良いカップの縁に口をつけ、一口含むと、華やかな香りが一気に広がる。
雑味が少なく、飲みやすいけれど、特有の酸味と、僅かな苦味がアクセントになって、食欲を刺激される味だった。
控え目に添えられた、ミルク味のクッキーをかじると、口の中でほろほろと崩れていく。
コーヒーとクッキーの相性は最高だった。交互に飲み食いするとまさに至福!
「はー! とっても美味しかったです!」
「おう」
短く返事をしたマスターの声は満更でもなさそうだった。
──喫茶店フルムーンは地方都市の大きな駅の近く、少し寂れたビルの一階にある小さな喫茶店である。
そのお店の経営者兼マスターが、今わたしにコーヒーを入れてくれた大狼 久雄さん。
名は体を示すと言う言葉があるとおり、筋肉の鎧を纏っているかのような厚みのある体と2メートルはありそうな身長で、立っているだけで威圧感を感じさせる。太くて濃い眉の下には、こちらを威嚇しているかのように強い目が光っており、モジャモジャとした顎髭をたくわえていることもあって、大変な強面であった。
2XLサイズの前掛けも子供のおもちゃに見えるくらい体格がいいので、目に前に立ち、無言で見つめられると訳もなく謝りたくなってしまう。
「……クッキーだけじゃあ、足りなかったか?」
「いえ、大満足です! ご馳走様でした!」
見た目に反して、と言うのも失礼かもしれないけれど、マスターは理不尽に怒る人ではない。朝ごはんを取り損ねた従業員にこうしてコーヒーを振る舞ってくれる人なので、 優しい人なんだと思う。
良い人だけど、多弁な人ではないので、開店前のこの時間は、二人とも無言で準備を進める。
店主の人柄にぴったりな、しっかりとした作りの重たいテーブルや椅子を拭いて回ったり、パンを切ってサンドイッチの準備をする時間が、わたしは結構好きだった。
──カラン、と来客を告げる鈴が鳴る。
黙々と準備をしていたら、あっという間に開店時間になっていたらしい。
「エサバちゃん、おはよー」
今日1番の客さんは、さらっとした金茶色の髪が印象的な好青年だった。
黒色のVネックシャツに、ウォッシャブルシーンズといった出で立ちで、カーキ色のゆるっとしたロングカーディガンを羽織っているのが、実に秋らしい。
「おはようございます、朝陽さん。わたしの苗字はエサバじゃなくて、左江原です! 苗字が呼びにくいなら、名前のほうでいいので、ミコトと呼んでください」
「あはは。エサバちゃんは朝から元気だね」
朝陽さんの身長はすらりと高く、猫みたいなぱっちりとした目をしている。
アシンメトリーにカットされた前髪を斜めに流して、反対側の耳にピアスをしているので、ちょっとチャラい印象もあるが、男性にしては可愛らしい顔立ちによく似合っていた。
「オオカミさんも、おはよー」
「おう。……いつもので良いか?」
上機嫌で頷く朝陽さんは、マスターのことを「オオカミさん」と呼ぶ。
五十近いマスターと二十代の朝陽さん。二人は朝陽さんが学生の頃からの付き合いらしいので、その頃からのあだ名なのかもしれない。
厨房ではマスターがメレンゲを泡だてて、ふわふわパンケーキを作りはじめた。
マスターの作る、ふわふわパンケーキは弱火でじっくり焼くので、手間と時間がかかる。
パンケーキはマスターに任せて、わたしはサイフォンコーヒーを入れることにした。
「ミコトちゃん」
「はい! お皿ですね!」
パンケーキ用の、少し深くて大きなお皿を出すとマスターは、良くできましたと頷いてくれた。
四十分ほどの時間をかけて、丁寧に焼いたパンケーキは、お皿に移すとふるりとゆれる。
空気を入れてホイップ状にしたバターを乗せ、金茶色のメープルシロップを上からゆっくりと流しかければ、口に入れたと同時に、溶けてなくなる究極のふわふわパンケーキの完成!
「あー! 溶けたバターの香りと、メープルシロップの甘い香りがたまらない……バターの塩気と、メープルシロップの甘さがあうんだよねえ……」
パンケーキの香りをかぎながら身悶えるわたしに、マスターはコーヒーとトレーを持たせる。
「後で作ってやる」
「ごめんなさい! すぐに持っていってきます」
艶々とした焦げ茶色のトレーに、出来立てのパンケーキとサイフォンコーヒーを乗せ、席まで持っていくと、朝陽さんは待ってましたとばかりにナイフとフォークを掴んだ。
「エサバちゃん、ありがとー。ここのパンケーキ、本当に美味しいよねえ。やっぱ、朝ごはんはこれじゃないと」
「左江原です! 左江原 ミコト! 毎朝顔を合わせているのに! 覚える気がないですよね……!」
「はいはい。怒らないで。可愛い顔が台無しだよー。あー、パンケーキがヤバい。美味しすぎるー!!」
わたしの抗議も意に介さず、朝陽さんはパンケーキを美味しそうに食べている。
……朝陽さんは、不思議な人だった。
お仕事をしている風ではないけれど、お金はあるらしく、毎朝決まった時間に、この喫茶店に朝ごはんを食べに来る。
第一印象は、掴み所のない、ふざけた人だった。態度が柔らかいせいか、どこか憎めなくて、話していると落ち着く気がする。その空気感のせいかは分からないけど、体が重だるくて体調が悪い日や頭痛がする日でも、朝陽さんと会ってお話をするとスッキリと良くなった。
──苗字を勝手に変えられるのは困るけど、それ以外は良い人っぽいしなあ。
そんな事を考えていると、お店のベルが、次の来客を告げた。