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マンハッタン島

作者: 安江俊明

 眼を覚ますと、旅客機は次第に高度を下げていた。雲の切れ目から地上の風景が見え隠れし始めた。一直線のハイウェイを車が数台疾走している。ハイウェイの網目はどんどん広がり、走る車の台数も加速度的に増えている。機体はさらに高度を下げ、着陸のため大きく旋回を始めていた。眼前に忽然と現れた黒光りする巨大な超高層ビルの林立する島。  

マンハッタン島である。

日本からアメリカ先住民取材のためやって来たハルコ。ルポライターでマンハッタン島島民のケンジ。

上空からの陽光がインテリジェントビル群に鋭く反射するせいだろうか、二人とも黒っぽい輝きに覆われている巨大都市の圧倒的な存在に密かな興奮を覚えていた。

滑走路に無事タッチダウンした瞬間、機内で喚声が湧き起こった。

二人は空港前からタクシーに乗り、マンハッタン島に向かった。

ハルコはケンジの親友・瀬川大作が東京で経営する撮影プロダクションの社員カメラマンだ。今回はハルコ本人の強い希望もあり、瀬川がケンジに頼み込んでアメリカ先住民の取材にハルコを同行させたのだ。

二人は先住民スー族の取材を終え、サウス・ダコタ州からマンハッタン島に戻って来たところである。

二週間の取材旅行でケンジは明るい反面、ハルコが時折見せる憂いを含んだ表情に惹かれていた。

そのハルコの心には、スー族の居留地での出来事がもたらした傷が微かにうずいていた。

それはスー族の居留地に着き、機材を担いで近くにあったスーパーに足を踏み入れた時のことだった。

先に店内に入って行ったケンジの後を追いかけていたハルコの前に、明らかに酒に酔っている数人のスーの男が現われ、取り囲まれてしまった。

 リーダー格と思われる男が笑みを浮かべながら唾を吐き、口を開いた。

「おい、女。煙草代を寄こせ」

 ハルコが拒否すると、別の男が前に出て来た。皮膚の色が隠れてしまうほど両腕に派手なタトゥーを彫り入れている。蛇が何匹も絡まりながらうごめいている図柄で、どの蛇の口からも真っ赤な舌が飛び出ている。 

男は両腕を回してハルコに殴りかかる恰好をし、叫んだ。

「寄こさないのなら、お前なんかに用はない。さっさと国に帰ってしまえ!」

 ハルコが来ないので様子を見に戻ったケンジが男らを追い払ってくれて良かったが、スーの取材を前に、ハルコは心が挫けそうになった。

「『お金くれないなら国に帰れ』なんて初めて会った人間にふつう言いますかね?」

 怒気を含んだハルコの言葉を察してケンジがなだめた。

「この居留地はアメリカでも一番貧しいところや。仕事も少ないから酒を飲んで気を紛らせる。人に金を恵んでもらうしかない。俺も前来た時、おばさんにたかられたことがあった。大事な羊を手放さなくちゃならないくらいお金に困っているからタバコ代くれってな。さあ、気分直して美味しいランチでも買おうや」

 ハルコはケンジの貧しい人々に対するルポライターの横顔を感じ、ハルコに対する気遣いが有難かった。

 いつの間にかマンハッタン島の都心に入っていた。大通りの両側にレストランやブティックが軒をつらね、カラフルな衣服に身を包んだニューヨーカーが歩道を闊歩している。 

鮮やかなストライプのネクタイ。抜けるように白いワンピース。羽飾りが躍る帽子。文字が踊るTシャツとビンテージのジーンズ。

ラテン系のミュージシャンが、民族衣装を纏い演奏に興じている。

車窓の流れゆく景色の中で、帽子も服も黒でまとめ、髭をたくわえたグループがハルコの目にとまった。

「あの人たち誰でしたっけ?」ハルコの問いに、うとうとしていたケンジが車窓に目をやった。

「ユダヤ人 (Jew) や。ニューヨークにたくさん住んでる。ニューヨーク(New York )はジューヨーク( Jew York )とも言うんや」

 タクシーはいつの間にかケンジの住むソーホー地区に入り、ギャラリーがひしめき合う通りで停まった。運転手がトランクから機材を降ろし、にっこりチップを受け取って去って行った。

都心の喧騒とは違う、落ち着いた芸術的な雰囲気が漂っている。

「いいところにお住まいですね」

ハルコは何だかマンハッタンが好きになりそうな予感がした。

 歩きながらケンジがその地域とマンハッタン島を説明してくれた。

ソーホー(SOHO)はハウストン・ストリートの南に広がる地区で、ハウストンの南(SOUTH OF HOUSTON)の頭二文字ずつを合わせた名前である。北側の地区はノーホー(NOHO)という。

 オランダ人が住み始めた頃のマンハッタン島は、今世界の金融・経済の中心になっているウォール・ストリートが人の住む北限で、北限を示す文字通りのウォールがあった。その後、オランダ商人がマンハッタン島の西を流れるハドソン川の水運を利用して北上し、先住民がもたらす毛皮を島の南にあるフルトン港に運び、本国に送った。 

交易が盛んになると人口も増え、白人の居住地域もウォールを越えて、島の北へと広がって行った。ソーホーも居住地域の北上に伴い、開けたところである。

「ソーホー地区の住民は時代につれて変わっていったんや。最初は貿易商や入植者の白人が中心やったけど、奴隷制で『新大陸』に連れてこられた黒人の末裔が住むようになると、白人はさらに北へ移動したんや。さらに時代が下ると、今度は黒人も北へ移動し、ハーレムのもとが築かれた。代わりにソーホーに住み着いたのは、アートを志向する若者ちゅう訳や。今や俺みたいなのも住んでるけどね」

 ケンジは太い眉のあたりをヒクヒクさせて少し神経質そうに笑う。その表情を見ているうちに、ハルコはケンジに惹かれていく自身を感じていた。

ニューヨークと呼ばれるのは、広くはニューヨーク州、狭くはマンハッタン区など五つの区から成るニューヨーク市、市の中心はオランダ毛皮商人の基地となったマンハッタン島である。

ケンジがマンハッタン島に住み始めた頃、島民の友人が「島の歴史は大切だから」とケンジに何度も繰り返し吹き込んでくれたので、歴史的なことは脳裏に焼き付いてしまっていた。  

ケンジは島の空気を吸い込んでは記憶の糸を少しずつ手繰り出してみた。

マンハッタン島の出発点は島の名前に部族名を残した先住民・マナハッタ族である。

彼らは突然船で現れたオランダ人に対し、わずか二十四ドル相当の装飾品と引き換えに島を売ってしまう。土地を所有するという概念が希薄であったのであろう。島を売却したという意識も薄かったのかもしれない。それだけでオランダは島を独占する立場になる。  

それは「オランダの新しいアムステルダム」すなわちニューヨークと呼ばれる前のマンハッタン島の呼び名・ニューアムステルダムの起源である。

オランダはこの新しい拠点で毛皮貿易による富を得ていく。

「オランダからマンハッタン島を奪ったのは確かイギリスですよね」

 ハルコが尋ねる。

「そうや。国王の弟ヨーク公の名前をとってイギリスはこの島をニューヨークと改名したんや」

「それにしてもニューヨークで思い出すのは同時テロのことですよね」

「マンハッタンが世界に誇った大摩天楼の一角が一瞬のうちに破壊されてしもたからなあ。摩天楼ちゅうたら、建設が始まった昔のことやけど、ゾッとするほど高い工事現場で大活躍した先住民がいるんや。彼等モホーク族は険しいアパラチア山脈の森林で暮らした天才的なよじ登りの実力が工事に役立ったんやて」

「へえ! 餅屋は餅屋ですね」

「その言葉聞くの、エライ久しぶりやなあ!」


ケンジはハルコのためにニューヨーク観光の定番であるタイムズ・スクウェアーを歩いた。

巨大な街頭スクリーンが、ハンバーガーのコマーシャルを映し出し、観光客が街の風景をカメラで撮りまくっている。

「お上りさんが終わったら、九番街に行って見よか」

ミュージカルの劇場が並ぶブロードウェイを越え、四十六丁目あたりを九番街に出た。

背の低いビルが軒を連ね、摩天楼がそびえる六番街あたりとは雰囲気がまるで違う。エスニック料理の店が立ち並んでいる。イタリア、ベトナム、ビルマ、台湾、ブラジル、スペイン、キューバ・・・。

『ヘルズ・キッチン・デリ』という看板が出ている店に入り、コーヒーを注文した。店のスタッフは揃いのTシャツを着ている。胸にHell’s Kitchenという文字がプリントされていた。

「『地獄の台所』って、どういう意味ですか」

 ケンジはそばにいたスタッフの胸を指して尋ねた。

「これかい? 色んな説があるんだ。元々はドイツ料理のレストランの名前だったとか、昔このあたりはスラム街で犯罪だらけの地獄みたいなところだったからだとかね。レストランに客が押し寄せて、調理場がまるで目が回る地獄のように活気があったからという説もある。それがこの地区に巣食ったアイリッシュ・マフィアのせいで、本物の地獄になり、客足が遠のいてしまったのさ」

「アイルランドからの移民にもマフィアがいたんですか」

「ああ。残忍この上ない連中さ。シシリーからやって来たイタリアン・マフィアと抗争したこともあるくらいだ。金貸し業で、期日にバカ高い金利と借金を返さない奴は容赦無く殺され、コンクリート詰めにされて海に放り込まれちまった。それにしても、あんたら、わざわざヘルズ・キッチンを訪ねて来たのか。ご苦労さんだなぁ。ここは毎年五月に、国際フード・フェスティバルという催しが開かれて賑わうんだよ」

 スタッフはそう言って、胸のプリント文字を引っ張った。

「今度マンハッタン南部に新しい先住民の博物館が出来るのをご存知ですか」

 ケンジが尋ねた。

「ああ。あのグスタフ・ハイとかいう銀行家の石油成金が集めた先住民のコレクションだろう? 前はここからブロードウェイを百十丁ほど上がり、マンハッタン区の北にあるブロンクス区にあったんだ。ニューヨーク市の五つの区の中でアメリカ大陸にくっついているのはブロンクスだけだ。だからマンハッタンをはじめ、あと四つの区は島なのさ」

「ここヘルズ・キッチンには色んな民族が住んでいるんですね」

「ああ。ここはマンハッタン島に載っかった小さな地球さ。世界中の民族がひとつところにいる。少なくとも摩天楼のビル街に比べれば活気があるし、人情も枯れずにあるのさ。様々な文化を背負った民族が、膝と膝をつき合わせて一緒に暮らしている。それが活気を生み出すんだ」

「アイリッシュもそのひとつですね。もっともマフィアは困りますけど」

「アイルランド系の職業はコップすなわち警官が多い。それだけの人材を提供しているんだからニューヨーク市警はアイルランドに感謝状でも送らないとね。彼らは毎年三月半ばに、アイルランドの聖人セント・パトリックを祝う大パレードをする。五番街はアイルランドのシンボル・カラーの緑一色になる。壮観だぞ」

 ケンジらはコーヒーを飲み、店を出た。

さらに西へと歩き、十二番街でハドソン川にぶち当たった。昔オランダの商人が先住民と交易するのに利用した川だ。ちょうど運搬船が川上に向かっており、マンハッタン島の岸辺に余波が迫って来ていた。


今度はイタリアン・レストランが軒を連ねる街を歩いた。リトル・イタリーである。通りにテーブルが出て、大勢のイタリア人がサンドウィッチやパスタを食べながら、話し込んでいる。楽隊が演奏しながら近づいて来た。トランペットの音色が青空に吸い込まれてゆく。

店の中を覗き込むと、奥の壁に木彫りのカジキマグロが掛かっている。イタリアの有名な俳優の写真がこちらを見て微笑んでいる。

 いつの間にかケンジはハルコの背中に腕を回すようになっていた。ハルコの腕も軽くケンジの背中に触れていた。

 それに伴い、二人の言葉数は少なくなっていた。

リトル・イタリーからチャイナ・タウンに出た。アーケード街に立ち並ぶ店の軒先に豚の頭や足が幾つもぶら下がっている。ハルコは気味悪がって、ケンジに抱きついて来た。

耳を澄ませば、大きな肉切包丁を持った職人が豚肉をさばく音。食材を売る店からは、買い物客のざわめきが聞こえて来る。漂う蒸し饅頭の匂い。早口で飛び交う耳慣れない言葉。その響き。銀行の前の長い列。行き交う車のクラクション。新聞売りの声。

 ケンジらは民族の匂いを嗅ぎながら、車を預けた駐車場に向かった。

 人気のない駐車場で、ケンジはハルコを抱きしめ、初めて唇を合わせた。


ハーレムの中心・百二十五丁目には黒人の街が広がっている。

アポロ劇場の前に人だかりがあった。マルコムXのドキュメンタリー映画の上映会が開かれようとしていた。いつか写真集で見たマルコムの眼鏡を通して輝きを放つ鋭い眼や、アジ演説で白人をこきおろす大きな口が思い浮かんでいた。

隣の教会の前では、黒人女性のグループがゴスペルの練習をしていた。褐色の肌に真っ白な衣裳をまとった女性の肉体から発散する息と汗が、魂の叫びとなって辺りに飛び散っているような気がした。

「アフリカン・アメリカンの生命力が溢れていますね」

 ハルコはゴスペルの調べに耳を傾けていた。

 歩き出そうとすると、若い黒人女性が声を掛けて来た。

「お二人さん、マルコムXの映画を見ない? わたし急用ができて見られなくなっちゃったの。ティケットが無駄になるからあなた方にあげようと思って。一枚で二人入れるの。ゴスペルを興味深そうに聞いていたでしょ? だから黒人問題に関心があるのではと思ったから」

「ありがとう。折角だから見せてもらおうか」

「そうですね。そうしましょう」

 ティケットを受け取り、劇場の中に入った。

客は圧倒的に黒人が多かった。試写が始まると会場は一瞬静まり返ったが、映画の中でマルコムが白人を打ち負かすと、拍手喝采の大騒ぎになった。

ブラック・ムスリムの組織の内紛で追い詰められたマルコムが、危険を感じて家族を安全な場所にかくまうシーン。鳴り響く脅迫電話を不安な顔で見つめるマルコム。演説会場で襲われ、何発もの銃弾を浴びて絶命するシーン。エンディング・テーマが高らかに流れ始めた。観客は総立ちになり、万雷の拍手を送った。


ハルコが帰国する前の日、マンハッタン島に開館したばかりの国立アメリカン・インディアン博物館に二人で足を運んだ。 

ヘルズ・キッチンで噂をしていた新しい博物館だ。

展示品の中に、スー族のパイプ・コレクションがあった。

「英雄シッティング・ブルのパイプもあるのかしら」ハルコは説明メモを読みながら、見て回った。

 博物館の喫茶コーナーでコーヒーを飲みながら、二人は最終日をそれぞれの気持ちで迎えていた。

「また会いたいよね」

 ケンジが太い眉を動かしながらハルコを見つめた。

「ええ、今度の取材では色々勉強をさせてもらいました。楽しい体験も一杯あったし、やはり思い切って来て良かったです。ケンジさんにもお会いできたし」

 ハルコは長い髪を掻き上げて笑顔をケンジに返した。

「明日は午後の便やな。今夜は一応のお別れディナーをしよう」

 ハルコは黙って頷いた。

「ところで、ハルコ。君の名前はどういう漢字を書くの? いや、アメリカでは全く必要ないから気にしなかったけど、しばらく会えないと思うと知りたくなってしまって」

 ハルコはちょっぴり恥じらいながらケンジを見つめて言った。

「スプリングの春です。わたし四月生まれですから」

「春子さんか。ええ名前やな」

 そう言いながらケンジはテーブルの上で「春子」という字を指でなぞってみた。

「ケンジさんはどんな字ですか」今度は春子が尋ねた。

「かねるという字の『兼』と、つかさの『司』や」

「兼司さん、出身は関西ですよね」

「大阪や。ニューヨーク、特にマンハッタンはホンネの島で大阪によう似とるから住みやすい。人と人が建前やなくって本音で付き合えるちゅう意味でな」

「ホンネの島って面白い表現ですね」

 

マンハッタン島の夜の帳が降り、春子は兼司に連れられてヘルズ・キッチンに出かけた。 

春子にもう一度行きたいとせがまれたからだ。

ツンシンという台湾料理店で魚の大皿料理を食べ、チンタオビールを飲んだ。

もう一軒立ち寄り、カクテルを楽しんだ後で、春子は兼司を投宿しているホテルに誘い、同じベッドで朝まで寝た。

島のホテルの窓から朝陽が差し込んだ時、兼司と春子は裸のまま目覚め、抱擁をしてキスを繰り返した。

帰国準備で荷物をまとめた春子は、チェックアウトし、タクシーでJFK空港に向かった。

 マンハッタン島からJFK空港があるクイーンズまで、春子は今回のニューヨークの見納めとばかり、イェローキャブの後部座席で兼司の胸に甘えながら車窓を流れゆく景色に見入っていた。

 搭乗口の手前で二人は抱擁し、キスをした。

「サヨナラ、今度はいつ会えるかしらね」

「出来るだけ早くな。待ってるで」

そう言って、二人は再び抱き合った。


春子が去り、兼司はソーホーの自宅でスー族のルポのまとめに入った。春子と一緒にセレクトしておいた居留地の写真を見ながら、原稿をまとめる作業に入る。

一八九○年十二月二十九日、ウンデッド・ニーの大虐殺のあと大雪が降った。大地に流された子どもや女性を含むスーの夥しい血はすっかり白い雪に覆われてしまった。

それから一世紀余りの星霜が流れて、現地の丘の上には犠牲者の墓地がフェンスに囲まれている。

 墓碑銘には騎兵隊のホッチキス銃で穴だらけになって殺されたスーの犠牲者の名前が記されていた。

 族長だった長老のBig Foot(ビッグ・フット)以下、読めるだけで四十三名の名前があった。兼司は墓碑銘の傍らに腰を据えて、名前を書けるだけ写し取った。

殺害されたスー族はわずか数分の間に二百九十人にのぼり、騎兵隊の兵士も味方の無差別銃撃で三十三人が亡くなったという。

スーの少年らが墓のそばにある、崩れた建物の礎に腰をかけていた。観光客目当ての売り子の手伝いに飽きて、丘を登ってきたのかもしれない。

そこへ、茶色のテンガロンハットを被った白人のおじさんがふうふう息を吐きながら丘を登って来た。黒縁の眼鏡をかけ、大きな文字の入った朱色のスタジアムジャンパーを着ている。

 おじさんは少年らを見つけると、真っ直ぐに近付いて来た。

「君らはここがどんな場所か知っているだろ?」

 おじさんはテンガロンハットを脱いで、少年らに英語で尋ねた。白髪が風に揺れていた。

 少年らは突然現れたおじさんが話しかけて来たのでびっくりした様子だった。

「ここは君らの大先輩が大勢殺されたところだ。アメリカの騎兵隊にね。この丘の下には、君らスー族のテント村が広がっていた。今は草むらになっているがね。平和に暮らしていた君らの先輩を、騎兵隊の奴らがマシンガンのようなもので皆殺しにしてしまった。その時亡くなった人々の墓がここにある」

 おじさんは墓地に入り、刻まれた墓石銘を節くれだった大きな手でなぞりながら、少年らの方を振り返った。

「君らはこの人々のことをしっかりと心に刻んでおけよ。そして、これからは二度とこんなことが起こらないように、心に刻んだことを後の世代に伝えていくのだ。わかったかね」

 おじさんが微笑んだので、少年らはほっとした様子で頷いた。

 おじさんはウンデッド・ニーの近くに住むドイツ人だった。白人移民がゴールド・ラッシュで西部にやって来た頃、おじさんのご先祖もこの近くに移り住んだという。その辺りには白人でも特にドイツ人入植者が多かった。

イギリスやオランダ、フランス、スペインのように、新大陸に国家ぐるみで進出して来たヨーロッパ勢力とは違うパターンで、辺境の地に住みついたのが彼らだった。

「『心に刻む』っていい表現ですね」

 兼司はおじさんに声をかけた。

「わたしの大好きな言葉です!」

 とても張りのある、元気な声が返って来た。

墓地の方からかすかに声がして来るような気がして、兼司は思わず振り返った。 

その声は次第に大きくなって、はっきり聞こえ始めた。あるいは、そう感じたのかも知れない。

「同胞の息子たちよ。われわれの声をしっかりと受け止めてくれたか。心に刻み付けてくれたか。われわれのことを、お前の弟に、将来の妻に、そして子どもや孫に伝えて行っておくれ」

その声が止み、兼司と春子は周りの景色を見渡した。賭博場の大きな白いテントが荒野の風景の中にぽつんと見える。草むらに朽ち果てたジープが一台、静かに時の流れを受け入れていた。


春子が再びニューヨークを訪れたのは、その年のクリスマスのことだった。

マンハッタン島の中心に恒例の巨大なクリスマスツリーが出現し、年末商戦で大通りは大変な人出で賑わっていた。

兼司は春子とウィンドウショッピングに繰り出し、ロックフェラーセンターのカフェでお茶を飲んだ。

「読みました。スー族のルポ。よくまとまっていましたね」

「君の写真のお陰や。ところで今回のマンハッタンは全くのフリー訪問やろ?」 

「ええ。取材の時のような緊張感はないのがいいのか悪いのかといった感じです」

「マンハッタンは常に緊張感を強いる島や。油断は禁物やで」

「兼司さんの大阪弁、マンハッタンと不思議なコラボしますよね」

「それ、どういう意味や」

「緊張の中の弛緩というか、魔物のようにうごめく大都会を載っけた島に柔らかいアクセントを添えるというか」

「関東の人間に言われても、褒められてるのか、けなされてるのか、ようわからんわ」

兼司の口元がゆるんだ。

「わたし、出身は金沢なんですよ」

「あっそう。てっきり東京のつんと澄ましたお嬢さんや思てたわ」

 兼司が笑った。

「つんと澄ましてなんかいませんよ!」

「冗談やがな。さあ、ツリーの点灯式見に行こか」

「また来年見ます」

 そう言って、春子は下を向いてしまった。

「どないしたんや」

 春子はしばらく黙って下を向いたまま動かなかったが、ようやく重い口を開いた。

「気付かれてしまったんです。私たちの関係」

「えっ、誰に?」

「うちの社長にです」

 兼司は初め意味がわからず、困惑した表情を見せていた。

「瀬川がどうだって? あっ、君は瀬川の女ってこと?」

「ええ」

 親友の顔が浮かんだ。知らないまま、俺は親友を裏切ってしまっていたのだ。

「君は知ってて俺と寝たわけか」

 春子は口元を少し尖がらせて頷いた。

「それでどうなったん?」

「どうって?」

「君らの関係おかしくなったんやろ?」

「わたしが悪かったんです。すみません」

 春子はうな垂れ、少し間を置いてから顔を上げ、兼司を見つめた。

「会社も辞めました。居づらかったし」

 兼司は驚いて春子を見た。

「そこまでせんでもええのちゃうの?」

「けじめだと思いました」

「これからどうするつもりや?」

「マンハッタンで働きます」

「当てはあるんか?」

「いいえ。これから探してみます」

「それやったら俺のところに来るか? 大したことは出来んけど」

「お気持ちありがとうございます。でも、先ずは自分でやってみます」

「そうか。俺もうっかりしていたなあ」

「社長も密かに心配していたらしいです。たとえ仕事とはいえ、男と女が泊りがけで二週間も一緒にいればって」

「そらそうやなあ。けど俺が相手やから滅多なことはないやろと高を括っていたってことか」

「もう済んだことですからこれからのことを考えるようにします。すみません。兼司さんにも嫌な思いをさせてしまって」

 兼司は瀬川にどう接するのがいいのかわからなかった。だが、瀬川からは何の連絡も未だにない。俺に対して言いたいことがあるはずなのに。

「兼司さん、話をちょっと変えますが、マンハッタンが島という意識はふだんない訳でしょ? お暇な折にわたしに付き合って、マンハッタンがなるほど島だと意識できるところに連れてって下さい」

 兼司も頭を切り替えようと努めた。

「何か所か回ってみないと、一度に島と認識するのは難しいやろね。要するに島の周りはふつう海やろけど、この島の場合は川と湾に囲まれとる。東はイースト川とハーレム川、西はハドソン川。ほら、ヘルズ・キッチンに行った時、一番西の十二番街でぶつかった川や。それと北はスパイテン・ダイヴィル川、南はアッパー・ニューヨーク湾ちゅうことなんや」

「なるほど。確かに島ですね」

 話を変えてもやはり無理やり感は拭えない。

二人の想いはすぐ男女がしでかしてしまった話に戻る。

「俺は親友から恋人だけじゃなく、社員スタッフも奪ったことになるなあ。ホント、身振りでも君と瀬川のことを伝えてくれていたらこんなことにはならなかったのに」

「申し訳ありません」

「いや、俺だって瀬川を無視したまま終わる訳にはいかないからなあ」

 春子はまた下を向いてしまった。

「まあ、それは俺が解決すべきことや。とにかくそれよりも、君の居場所をつくらないとな。とりあえずうちに来いよ。島の高級ホテルは何処も高いからな」

「ありがとうございます」

春子は深く頭を垂れた。


その夜二人は兼司の自宅で激しく燃え上がった。春子には心置きなく兼司への愛を深められるという安心感がハートに火を点けていたのかも知れない。

兼司からすれば、瀬川との決着はもう少し先に置いておいて、とにかく魅惑的なときめきを感じさせる春子を抱いた。

春子は兼司に身を任せたまま、島の朝を迎えた。

 兼司の事務所兼自宅でデリから買って来た朝食を二人でつまんでいる最中も、耳を澄ませば色んな音が聞こえて来る。地下鉄の轟音。パトカーのサイレン。町ゆく人びとの活気。そのひとつずつが春子には新鮮だ。

「俺の知り合いのところを当たってみよう」

 そう言って兼司は春子を連れて関係先を回ってくれた。

 春子には履歴書を持参するように言ってあった。

「こちらはとにかく自己PRが肝心や。嘘を書くのは良くないけど、これまでに仕上げた作品は少々大げさにPRして構わない。それも出来る限り多く、詳しく」

 春子は自作の画像をUSBにまとめていた。

 面接がOKになったところに持参し、PCで作品を直接審査する人間に見てもらった。

 その中でカメラマンを急募しているオフィスがあり、作品を見せたところ採用が決まった。

「あそこは、ギャラは普通レベルやけど、ええ仕事が出来るところや」

「ありがとうございます。働かせてもらいます」

翌日から二人はそれぞれの仕事に携わるため、朝はほぼ毎日一緒に兼司の自宅を出た。

夜は兼司が常連になっているレストランで一緒に食事をした後で、クラブにも出かけた。

 そのひとつクラブ・サンダは、国連ビルにほど近い二番街四十九丁目を東に入ったところにある。

 この行きつけのクラブで兼司と春子はスー族の居留地でわずかな出会いをした少年と再会することになった。

クラブには余りにもミスマッチな少年客について興味をそそられ、兼司は少年本人やクラブ関係者らから取材し、その状況を再現してみた。

 インヨン少年はアートの勉強をするため、母と故郷のサウス・ダコタからニューヨークにはるばるやって来て、母の妹宅に身を寄せていた。母は二人分の旅客機代など全ての費用を事前に妹から借り受け、着の身着のままで逃げるように息子と居留地を後にした。

 妹からの借金に加え、息子の学校の費用も母に重くのしかかっており、マンハッタンに着いた途端から飛び込みで幾つかのレストランで皿洗いの仕事を得た。 

マンハッタンでインヨンはマリアという女性と知り合い、淡い恋心を感じるようになる。

若い二人はしだいに愛し合うようになり、インヨンは連日帰りが遅い。心配した母がインヨンの後をつけて、マリアと出くわす。

母は息子を誘惑する泥棒猫と決め付け、マリアを追い払った。

これに反発したインヨンは伯母宅を出て、暗夜の街をさ迷ううちにクラブ・サンダの明かりに足を止める。体の芯に疲労が纏わりついていたので、思い切ってベルを押すと黒い蝶ネクタイをしたボーイがドアを開けた。

「入ってもいいでしょうか」と気後れしながら尋ねると、ボーイはインヨンの頭のてっぺんから足の先まで眺めながら言った。

「子どもの来るところじゃない。お帰り」

 ボーイが重そうなドアを閉め始めたら「ちょいとお待ち」と背後から声がした。声の主はミャンマー人のママ、サンダだった。

マンハッタン・ナイトライフのPRパンフレットの表紙に登場しても、和服に身を包んで微笑むほど着物が好きな彼女は、その夜白地に濃紺の大胆な波文様に、紅葉した楓があしらわれている出立ちで店に出ていた。アジア系の顔立ちだが、丸顔でつぶらな瞳が魅力的で、とにかく化粧が濃い。

「騎兵隊との戦場に赴く戦士の色塗りの顔をしたおばさん」というのがインヨンのママに対する第一印象だった。

クラブ経営者ともなれば、確かに仕事場は戦場かも知れない。特にマンハッタン島では、出身や人種・民族など背景の異なる客を多国籍のホステスを上手く操りながら、店の売り上げを伸ばしてゆく才覚が要る。そういう意味では、ママは戦士であり、インヨンの表現は、たとえその意図は違っていたとしても、的を射ているのかも知れない。

「こんな時間に少年がたった独りでこんな所を歩いているなんて、きっと理由わけありね。さあお入り」

 ママはインヨンを招き入れた。夜と言ってもまだ早い時間帯なので客の姿は無く、ソファに目の覚めるようなドレスを着たホステスが数人固まって座っていた。インヨンはその女性らの真ん中に案内された。

「一体何が飲めるのかしらね?」

 ホステスのひとりがインヨンを見つめた。

「未成年だからお酒はダメよ。ジンジャー・エイルでも出してあげて」ママが言った。 

ホステスは皆出身国が違う。顔の彫りが深く、肌の浅黒い女性がインヨンに尋ねた。

「何処から来たの?」

「サウス・ダコタ」

「まあ、そんなに遠くから。わたしはモロッコの出身よ。お名前は?」

「インヨン」

「インヨン? 何か意味があるのかしら」

「岩という意味です。ボクが生まれた所は、ゴツゴツした岩が転がっていたらしい」

「それで岩なんて名前をつけるなんてね」

ホステスが笑った。

「先住民は、赤ん坊が最初に出会った自然風景や出来事で幼い頃の名前を付けるんです」

「あなた、先住民なの! ネイティブ・アメリカンって言うのよね」

「よくご存じで」

 インヨンは先住民の存在を知ってくれていることに安堵した。

 ボーイがジンジャー・エイルを持って来た。ママがインヨンの向かいに座った。

「サウス・ダコタなんて行ったことないわ。殺されたジョン・レノンが住んでいたセントラル・パークウェストのマンションは『ダコタ・ハウス』なんて言ったけど、あなたの住んでいるダコタはいい所なの?」

 ママが大きな瞳を見開いてインヨンの答えを待った。 

「スーの聖地があります。ブラック・ヒルズという」

「スーって?」

「サウス・ダコタの先住民の名前です」

「アメリカン・インディアンのこと?」ママが尋ねる。

「ママ、インディアンという言葉は使っちゃダメ。あのコロンブス野郎が間違えたのよ。今はネイティブ・アメリカンと言うのよ」

 鮮やかなグリーンのドレスを着たヒスパニック系らしいホステスが話に加わった。

「へえ、そうなの。ジョディ、何処で勉強したの?」

「アート・スクールよ。アラスカのエスキモーもこの頃はイヌイットって言うのよ。本にも皆そう書いてあるわ」

 インヨンは、存在を認められたことがとても嬉しかった。

「ボクの彼女もアート・スクールに通っているんです。ジャマイカ出身です」

「わたしの親友にもジャマイカ出身の彼女がいるわ。マリア・ゴメスっていうの」

「マリア・ゴメス? まさか・・・・・・」

「え? あなた、マリアを知っているの? その人、何処のアート・スクールなの?」

「アルバート・アート・スクールだったかな。リトル・イタリーの入り口にあるって言ってました」

「それ、わたしが通っているスクールよ。じゃ、あなたがマリアの恋人プリティ・ロックなの? 驚いた! 名前が違うから全然わからなかった」

「プリティ・ロックはボクの英語名です。マリアはボクのことを君に話してたんだ」

 共通の話題で話せる人に出会って、インヨンはジョディに親しみさえ感じた。

「プリティは一目ぼれした男の子だってマリアが言ってたよ」

ジョディの言葉に、ママはほほ笑んだ

「あなたも角に置けないわね。少しくらいならお酒もいっか。フォアローゼスの水割りを一杯、薄いのを作ってあげて」ボーイが頷いた。

 店の壁には豪華な板金製の象のレリーフが飾られている。

「あれすてきですね」インヨンはお世辞じゃなく、そう言った。

「わたしの国ミャンマーで作られたものよ。親戚が直ぐ近くにある国連代表部に勤めていて、わたしも最初その親戚を頼ってマンハッタン島に来てこのお店を開いたのよ。その時から壁に掛けているの」

 店のベルが鳴り、兼司と春子が入店した。

「あら、ケンジさん。お久しぶりね。お嬢さんもさあどうぞ」

 ママが席を立ってわたしらを向かいのソファに案内した。ホステスも次々に席を離れ、兼司らの席に移って来た。

 兼司はちょいと一杯ひっかけてから、マイクを握った。ピアノのイントロが流れ、白髪頭で鼻の下にチョビ髭をはやした専属ピアニストの演奏に合わせて、兼司は頭にネクタイを巻いて歌い始めた。間奏で周りから喚声と拍手が飛んだ。

「あの人はいつもあんな風にして歌うんですか?」

 インヨンが頭に巻かれたネクタイに眼をやって、傍らのホステスらに尋ねた。

「いつもあんな恰好で歌ったり、踊ったりするのよ、あの人」

「あれはニホンのエンカというの。彼の大好きな歌よ」

 曲が終わり、兼司が席に戻った。歌いながらも向かいの席のソファに座っている少年が気がかりだった。一体何故子どもがこんな場所に? ママに尋ねたら、スー族の少年という。ますます不可解になり、兼司は席を立って少年のところに行った。

「君はスーやそうやね」

「はい」

「俺はケンジ。君は?」

「インヨンといいます」

「こないだサウス・ダコタのウンデッド・ニーに行って、虐殺された君の同胞の墓参りをして来たばかりなんや。その時君によく似たスーの少年に会ったけど、確か君にニューヨーク・タイムズをあげたよね」

 インヨンはウンデッド・ニーで出会った日本人を思い出した。

「ええ、スーについての新聞記事をいただきました。南北戦争の南軍の兵士に扮して先住民と交流する映画で大ヒットを飛ばしたケビン・コスナーが、何とカジノを建設し、その敷地の一部がスーの聖地ブラック・ヒルズを削ることになるという記事でした。ああ、あの時のおじさんですか。驚いたなあ」

「いや、こっちこそビックリした。マンハッタンの、しかもこんなところで君と出会うなんて奇跡や」

「おじさんがネクタイを頭に巻いて歌い踊る姿を見ていると、頭飾りをつけたスーのダンスを思い出しました」

 兼司は頭を掻きながら、照れ臭そうに笑った。春子は身体を揺すりながら笑っていた。

「よくここに来て、エンカを歌うそうですね。言葉はわからないけど、メロディはどこか懐かしい感じがします」

 インヨンが歌の印象を述べた。

「スーも俺も、もとをたどれば北東アジア出身のモンゴロイドや。歌も似ていて当然や」

「なるほど」

「インヨン、また連絡するから君のメールアドレスを教えてえな。俺のはこれや」

 兼司は携帯電話の画面に自分のメールアドレスを表示して、インヨンに見せた。

 再会したインヨンと一緒に英語の歌を歌い、インヨンはスー族のダンスの真似事をして場を沸かせた。

「ああ、暑い!」

 インヨンは上着を脱いだ。兼司はインヨンの身体にあちこちあざがあるのを見て取った。

「その痣どうしたんや」

 インヨンは思わず上着で肌を隠した。

「父さんが殴った。酒をたくさん飲んで」

「お父さんが?」

「赤い舌を出す蛇のタトゥーした腕で思い切り殴るんだ」

 春子は居留地で金をせびって来た男の腕を思い出した。

「ひょっとして腕中赤い舌を出した蛇がうごめいているタトゥー?」

「ええ、よく知っていますね」

 春子は兼司と顔を見合わせて頷いた。

 春子がその時の事情を説明した。

「そうですか。父がご迷惑をおかけしました」

 インヨンは神妙に頭を下げた。

「謝らんでもええ。何も君が悪いのちゃうし。インヨン、会えて嬉しい。きっとまた何処かで会おう」

 握手を求めた兼司の手を、インヨンはしっかりと握り締め、ほほ笑んだ。

 兼司はその夜、前からずっと気になっていた親友・瀬川宛にメールを送った。

『春子さんのことは知らなかったとはいえ、結果的に親愛なる貴君から恋人を奪うことになり、申し訳ありませんでした。彼女は今マンハッタンの中堅スタジオの写真制作班の一員として活躍しています。いずれにせよ、これまでの信頼関係が崩れた責任はひとえにボクにあります。許してもらおうなんて思っていませんが、貴君の会社がますます発展しますように遠くマンハッタン島から祈っています』

 しかし、返信はいつまでも来ることはなかった。

 クラブで再会してからまる二か月が経った頃、インヨンからメールが届いた。

『おじさん、クラブでは御馳走さまでした。多分お分かりかとは思いますが、ボクと母さんは酷い暴力を振るう父親を捨ててニューヨークの伯母のところへ逃げて来ました。もう二度と居留地には帰らないつもりで。先日珍しく嬉しいことがありました。マリアと母さんが和解してくれたんです。マリアが母さんと会い、身の上話をしていたら、マリアも同じように父親の暴力から逃れてお母さんと二人で逃げたのですが、途中お母さんが病に倒れて亡くなってしまったそうです。そんな事情を知った母さんがマリアを抱きしめてくれました。これからは三人で支え合いながら生きて行こうと思います。またぜひおじさんとハルコさんに会いたいです』

 兼司はこれに返信を送った。

『それはよかったなあ。人生は決して捨てたものやない。逆風も吹くけど、いいこともあるで。何か困ったことがあったら、おじさんに話してくれ。力になるで。また会える日を今から楽しみにしている』。

 

可能な限り休みを同じ日に取って、兼司は春子と『マンハッタンは島である』をテーマにマンハッタン島を囲む湾と川を巡り、風景をカメラに収める小旅行に出かけている。

                   完


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