死と誕生。あるいは黒い霧
兄貴が言っていた予定。それは私のお墓参りだった。すっかり日が暮れてしまった墓地。墓石に花を供えてくれた。
「…………」
兄貴は何も語らない。ただじっと手を合わせていた。呪文も唱えないし、月をじっと見たりしない。目を閉じて一心に何かを想っている。
私は小さい頃、兄貴が好きだった。次第に大人になるにつれて、その気持ちが薄れていった。死んでしまって、初めて気づく。本当に私のことを心配してくれて、気にかけてくれたのは兄貴だけだって。
お父さんもお母さんも好きだけど、一番好きな家族は兄貴だった。
だから私はこのまま見守るつもりだ。
兄貴が殺人鬼に成り果てても。
大事な家族として、ずっと傍に居る。
たとえ誰に否定されても――
兄貴は家に帰る前に帰宅途中のサラリーマンとOLを一人ずつ殺した。物の数秒もかからなかった。殺すことが目的なんだろう。ためらいがまるでなかった。
翌日。殺人鬼の報道を映しているテレビを消して、兄貴は普段通りに学校に向かって授業を受けた。休み時間は一人で過ごしている。昼休みも一人でご飯を食べた。前とは違って一品しか頼まない。食欲が無くなっているのだろう。
放課後。兄貴が家に帰ろうとして下駄箱を開けると、そこには封筒が置いてあった。
兄貴は誰にも見られないようにこっそりと見た。
私も兄貴の肩越しに見た。
中には手紙と写真があった。
『殺人鬼へ 秘密をばらされたくなかったら港東通りの廃墟ビル『クレッシェンド』まで来なさい』
そして同封されていた写真には兄貴が裏路地から出てくるところが何枚も写っていた。
「…………」
兄貴は黙ったまま、手紙と写真を鞄の中に入れて早足で歩き出した。
多分罠だと思うけど、行くしかなかった。それ以外選択肢はない。
港東通りの廃墟ビル、『クレッシェンド』は今にも崩れそうなコンクリの建物だった。肝試しでも入らないような不気味な場所。兄貴は躊躇なく中に入った。
辺りは真っ暗で何も見えない。窓が何かで塞がれているようだ。兄貴は鞄から懐中電灯を取り出そうとして――
「よく来たね。日野くん」
声が聞こえた。女性の声だった。
「春川か?」
「よく分かったね」
兄貴は予想していたらしくさほど驚いていない。
「どこに居るんだ?」
「あはは。言えるわけないじゃない。言ったら君に殺されてしまう」
「そんな物騒なことはしない」
既に金づちを持っている兄貴は嘘を吐いた。こんなに嘘が得意な人間じゃなかったのに。
「このまま話させてもらうよ。君は一体どうして殺人鬼になってしまったのかな?」
「意味が分からないことを言うな。俺は殺人鬼なんかじゃない」
「そう言うと思ったよ。だけど君が実際に人を殺していた証拠はあるんだ」
兄貴は「嘘を吐くな」と短く答えた。
「それなら警察に行けばいいだけの話だ」
「もちろん行くさ。でもその前にどうしても君に訊かないといけないことがあるんだ」
春川先輩はそこで声が震えた。
悲しみではなく、緊張でもなく、怒りでだった。
「どうして――桜井友香子を殺した?」
兄貴は平然と嘘を吐いた。
「殺していない」
「……私は知っている。桜井友香子が君に呼び出されて森林公園に行ったことを」
兄貴は「どうして知っている?」と厳しく追及した。
「桜井友香子は私の従姉妹だ。知らなかったのか?」
私は知っていた。その縁で新聞部に入ったのだから。でも兄貴には言っていない。言う必要もなかったし、話題にすることでもなかったからだ。
「知らなかった。そうか、従姉妹のために復讐するつもりか」
「そうだよ。私は友香子を妹のように可愛がっていた。好きだった。だからこそ、君のことが許せなかった」
「嫉妬か。見苦しい――」
「黙れ!」
兄貴の顔を何かが掠めた。がちゃんという音から、おそらくガラスだと思われる。
「私は友香子のためならなんでもする! そう決めているんだ!」
「そうか。気持ちは分かる。俺も同じ気持ちだ」
兄貴はその場から動かずに鞄からこっそり懐中電灯を取り出した。
「俺も妹のためならなんでもする」
「はあ? じゃあ今殺人鬼になったのは、妹のためなの?」
「違うな。それは違う」
兄貴は自分の心中を初めて語った。
「人を殺さないといけない。そう思うようになった。それは罪深いことだ。許されないことだ。でも殺さないといけない。頭で考えるのではなく、魂に刻まれているような感覚だ」
「……君は、狂ってしまったのか?」
「そうじゃない――いや、そうかもしれない」
兄貴は声のするほうに懐中電灯を向けた。
「俺は変わってしまった。どうして変わったのか。それは――」
兄貴は懐中電灯のスイッチを入れた。照らされる室内。その光の先に春川先輩が居た。眩しそうに目を瞑っている。
兄貴は金づちを投げた。縦回転しながら金づちの金属部分が春川先輩の額に当たる。
首ががくんと仰け反って、そのまま倒れてしまう春川先輩。
「やっぱり足元に罠があるか」
光で足元を照らすと、画鋲やネズミ捕り機などが置かれていた。
兄貴は足で払いながら春川先輩のほうに近づいた。
呼吸が荒く出血も激しい春川先輩。今、病院に行けば間に合うかもしれない。
「悪いけど殺させてもらう。まだまだ殺さないといけないんだ」
「……なんで、殺すんだ」
「なんでだろうな? 俺にも分からないよ」
兄貴は近くに転がった金づちを手に取って、春川先輩に叩きつけようと――
「動かないでください!」
その声にぴたっと動きを止める兄貴。振り向くと扉が大きく開かれていて、頭に包帯を巻いた須藤刑事が銃を構えていた。
「あのとき殺すべきだったな……」
「動かないで! 金づちを捨てなさい!」
兄貴は金づちを捨てて両手を挙げた。須藤刑事はゆっくりと近づいて、兄貴の両手を取って手錠を掛けた。
「あなた、大丈夫?」
「うう、うううう……」
須藤刑事は春川先輩の傍に銃を置いて、様子を見た。その隙に兄貴は置いた金づちを持って、その場から逃げ出した。
「待ちなさい!」
「追ってたらその子は死ぬぜ! どうする警察官!」
私は兄貴に着いていく。須藤刑事は懐からスマホを取り出して救急車を呼ぶ。
兄貴は手錠のまま、外に通じる扉を開けて、裏路地を走る。周りは木材などの資材が立てかけてある一本道だ。
このまま行けば逃げられる――
「逃がさないわ……」
ぱあんという音。兄貴はその場に倒れる。脚に銃弾が命中した。
「あなたはここで逮捕する……!」
須藤刑事は春川先輩を置いて追ってきた。
「くそ! やっぱり殺すべきだった!」
悔しそうな兄貴の顔。
須藤刑事は一歩ずつ近づいていく。
「やめろ! 来るな!」
「見苦しいわよ!」
須藤刑事は銃を構える。
「このまま、私の手で殺したいところだけど……」
「やめてくれ! 頼む! 殺さないでくれ!」
脚を引きずりながら逃げようとする兄貴。だけど遅い。
「猪俣さんの仇。絶対に死刑台に送ってあげるわ!」
「これ以上近づかないでくれ!」
須藤刑事との距離がかなり近くまで来て――
「これ以上近づいたら、死んでしまうよ?」
兄貴は金づちで資材を叩いた。資材は資材を倒し巻き込み、やがて全体的に崩れて――
「きゃあああああああああああああ!」
須藤刑事の真上に多くの資材が倒れこんだ。
しばらくして、兄貴は起き上がった。
「はあ、はあ、はあ……」
呼吸が荒い。かなり出血してしまったからだ。
「救急車を呼んでたな。急いで逃げないと……」
兄貴は脚にタオルを巻き、出血を弱めて、そのまま歩いて逃げた。
どこに向かうのだろう。私は兄貴に着いていった。
兄貴は家ではなく、裏路地の小さなビルに隠れていた。
ここで休むつもりらしい。
辺りはすっかり暗くなった。月明かりだけが割れた窓から兄貴を照らす。
「さて。これからどうするか……」
ぶつぶつと呟きながら、兄貴は横になった。そして連日の殺人行為で疲れたのか、眠りかけている。
私はそんな兄貴に寄り添っていた。可哀想だったから。きっと兄貴は黒い霧のせいで頭がおかしくなったから、こんなことをしているのだろう。
大丈夫。兄貴のことは私が見守ってあげる。
兄貴が死ぬまで一緒に居てあげるから。
「早苗……」
私の名前を呼んでくれた。嬉しかった。
だけど、それが最期の言葉になった。
ぱあんぱあんぱあんと複数の銃声がして、兄貴の頭がぐらりと揺れて、崩れ落ちた。
「はあ、はあ。見つけたわ。血の跡で丸分かりよ……」
春川先輩が須藤刑事の銃を持っていた。
「ふふふ。これで仇を討ったわよ。友香子……」
兄貴? ねえ、どうして、死んだの?
私は触れもしない兄貴の身体を揺すろうとして、揺すれなかった。
やだ。やだよ。兄貴――お兄ちゃん。
死なないでよ。死んだらいやだよ。
「あははははは! 殺人鬼が死んだ! これで街に平和が戻ったわ!」
許せない。許せない許せない許せない!
私のお兄ちゃんを! よくも!
身体中が黒くなっていくのを感じる。それとともに兄貴の身体から黒い霧が産まれる。
私は黒い霧の中に入った。もっと黒くなりたかったから。
私という存在が無くなっていく。同時に黒い霧を理解していく。
黒い霧なんかじゃない。
私は、街に蠢く病だ。
人々を狂気に陥らせる、病魔だ。
私は、いや私たちは狂喜している春川先輩を覆った。異常を知った春川先輩は呆然としたけど、遅かった。
こうして殺人鬼は死んで。
新しい殺人鬼が産まれる。
街の惨劇は終わらない。