穢れてしまった心と身体
次に兄貴が目覚めたのは病院だった。真っ白い壁と天井。他に誰も居ない個室でゆっくり起き上がると、傍にずっと居たお母さんは泣き出してしまった。
「どうして! そんな無茶したのよ!」
お母さんが叱る声を聞きながら兄貴は何があったのかを思い出して、一言だけ「ごめん」と呟いた。
その後遅れてやってきたお父さんに数発殴られたけど、あまり反応がなかった。何かを考えているような、何かを思っているような、そんな様子の兄貴だった。
「すみませんねえ。ちょっとよろしいでしょうか?」
しばらくして二人組がやってきた。物腰の柔らかいおじさんとやや緊張している若い女の人だった。医者や看護師ではなかった。服装がスーツだったから分かる。
「あの、どなたですか?」
お母さんの不安そうな顔。安心させるようにおじさんのほうが「刑事の猪俣といいます」と警察手帳を見せた。女の人もそれに倣って「須藤です」と手帳を掲げた。
「刑事さんが何の用ですか?」
まだ怒っているお父さんが問うと「日野和俊さんに事情を聞きたいと思いまして」とにこやかに猪俣さんは言う。
「殺人鬼の死について。詳しく教えてもらえませんか?」
「まだ和俊は起きたばかりです。日を改めて――」
お父さんが断ろうとしたけど兄貴は「今でいいよ」と静かに答えた。
「後で話すのは互いに面倒だからな」
そう言って刑事さんの質問に答える兄貴。殺人鬼に襲われたこと。そして追ったこと。屋上での出来事。そして手すりから落ちたこと。それらを細部に渡って答えた。
だけど黒い霧のことは話さなかった。
「そうですか。こちらで調べたとおりですね」
猪俣さんは手帳に何やら書き込みながら言う。
「また分からないことがあったら聞きに来るかもしれませんが、よろしいでしょうか?」
「構いませんよ」
答えたのはお父さんではなくて兄貴だった。二人の刑事は去っていく。兄貴はずっとその姿を見ていた。閉じられた扉も穴が空くかのように見つめていた。
五日間ほど入院していて、兄貴は徐々におかしくなっていった。誰も居ないとき、兄貴はぶつぶつと小さな声で呟いていた。耳をすませてみるとお経か呪文か分からない、意味があるのかないのか判断できない短文を繰り返し唱えていた。『くとぅ』とか『ふぐるむ』とか。夜になると窓の外を見ていた。外、というよりは夜空を見ていた。何かを待っている。そう思わざるを得ない様子だった。そのときには呟いたりしなかった。ただ見つめて――いや見張っているようだった。
六日後、兄貴は退院した。お母さんに連れられて家に帰る。お母さんはようやく私の死に折り合いを付けられたのか、家事ができるようになっていた。それが分かるのは汚かった家が綺麗に掃除されていたからだ。
兄貴は自分の部屋に戻るとスマホで通話し始めた。相手は誰だろう? そう思って近づく。すぐにつながったらしく、開口一番に「桜井さんか?」と兄貴は言った。
『先輩。退院したんですね。すみません、お見舞いに行けなくて』
「いや、いいんだ。それより会えないか?」
『えっと。今親に外出禁止にされてて……学校にも行けてないんです。でも流石に月曜日からは行けますよ』
兄貴は部屋に掛けてあるカレンダーを見た。今日は土曜日だった。
「分かった。じゃあ月曜日の放課後に会おう。俺はしばらく学校を休むから放課後にしか会えない。五時くらいに会いたい」
『分かりましたけど、何の話ですか?』
「直接会って話したい。電話だとな。場所は南風通りの――」
兄貴が指定した場所は毎日通っていたカフェではない、別のところだった。近くにカップルがよく来る森林公園があった。
桜井が了承したのを受けて兄貴は「じゃあまた後で」と通話を切った。
それから兄貴は病院に居たときと同じくぶつぶつ呟く。
お母さんが晩ご飯だと呼びに来るまで、ずっと。
日曜日。兄貴は近くのホームセンターに行った。私も気になったので着いていった。兄貴は工具売り場で金づちを吟味していた。日曜大工でもするんだろうか?
兄貴が買ったのはあまり大きくない金づちだった。小ぶりで使いやすそうだったけど、もっと大きいほうがいいんじゃないかなと思った。
金づちだけ買った兄貴を不審そうな目で見る店員さん。その視線を無視してホームセンターを出ていく。
それから兄貴は別の店で綺麗な小さな箱を買った。開けにくそうなプレゼント用の箱。桜井に何かあげるのだろうか。もしかして、恋が芽生えるのかも。そう思うと嬉しくなる。兄貴と桜井は身長が高いから似合いのカップルになるかもしれない。
そして、月曜日。
兄貴は三十分前にカフェに着いた。多分桜井は来ていないだろうと思ったのか、近くの席に座ろうとすると「先輩、こっちですよ!」と呼ばれた。
制服姿の桜井。着替えずに急いできたのだろう。
「先輩、早いですね」
「桜井さんこそ早かったな」
「聞いてくださいよ。ここの店長さん、目も耳も悪いんですよ。他の客も居ないし」
「まあ老人がやっているから。そうだな、場所を変えよう」
「どうでもいいですけど、先輩の私服って個性的ですよね。全身黒いし、帽子も目深に被っているし」
「黒しか似合わないんだよ」
かなりの老人の店長さんに兄貴が桜井の分を支払って出て行った。そして兄貴と桜井は益体もない話をしながら森林公園の中に入っていく。
徐々に誰もいないところに向かう兄貴。森林公園はカップルのデート場だけど、月曜日だったからあまり居ない。まあ居たとしても二人だけの世界に入っているので、兄貴たちのことは気にかけない。
「先輩……どこに行くつもりですか……?」
森の奥深くまで来て、不安が勝ったのか、桜井は訊ねた。
「桜井さん。君にプレゼントがあるんだ」
兄貴は笑顔になりながら手提げ鞄から小さな箱を取り出した。日曜日に買った箱だ。
「えっ? プレゼント?」
「俺の気持ちが入っている。開けて確かめてほしい」
桜井は顔を真っ赤にしながら箱を開け始めた。やっぱり開けにくそうだった。
あれ? おかしいな。
兄貴、中に何か入れたっけ?
そう思っていると兄貴は鞄から日曜日に買った金づちを取り出して――躊躇なく桜井の頭を思いっきり殴った。
倒れる桜井。気絶したのか、それとも一撃で死んだのか、判断できない。兄貴もそうらしい。馬乗りになって何度も殴った。
何度も。何度も。何度も。
殴って殴って殴った。
兄貴は桜井が死んだことを確信すると持っていた鞄からタオルを取り出して、自分の身体にかかった血を拭き、上着は脱いで、小箱を回収して、そのまま立ち去ってしまった。
初めから殺すことが目的だったらしい。
私はそれを見ていた。止めることはできなかった。もし生きていたら止めたけど、死んでいるから止められなかった。
こうして桜井は死んで。
兄貴は殺人鬼となった。
理由は分からなかった。




