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曇り空ですっきりしない日

 私は平凡な少女だった。とりわけ秀でるところも劣るところもない、極々普通な女子高生だった。それなのに――


 私の人生が終わってしまった日について話そう。六月で珍しく雨が降らなかった日だ。とは言っても曇り空で太陽なんか見えなかった。


早苗さなえ。早くしないと学校に遅れるわよ」

「うん。分かってるよお母さん」


 テレビを見ながら残りのトーストを口に入れる。バターの味が口一杯に広がる。そして少し冷めてしまった紅茶を飲み干して、私は立ち上がった。洗面台に行き歯を磨いて、ショートヘアを整えて、そして玄関の脇に置いてあった鞄を持つ。


「兄貴は?」

和俊かずとしなら朝練で行っちゃったわよ。七月に引退試合でしょう? がらにもなく気合入っているのよ」


 お母さんはにこにこ笑いながら言う。ふうん。不良みたいな見た目のくせに、そういうところは真面目なんだね。


「そう。じゃあ行ってきます」

「今日はお父さんが早めに帰ってくるから、遅くならないでね」


 手を振りながら見送られた。私はゆっくりと玄関の扉を閉めた。

 これがお母さんとの最後の会話だった。

 お父さんとの会話は覚えていない。


 学校に着いて教室の中に入る。すると友人の桜井さくらい友香子ゆかこが話しかけてきた。


「おー、日野ひのちゃん。悪いんだけど数学の宿題写させて!」

「またなの? もう。文系だからって数学も真面目にやりなよ」


 文句を言いつつ私は数学のノートを手渡した。


「サンキュー。いやあ、やろうとしたんだけどね。最近物騒じゃない?」

「それとこれとは話は別だよ」

「だって殺人鬼が居るんだよ? この街に」


 ノートを手早く写しながら桜井は語りだす。


「もう三人も殺されてるんだ。女の子、OL、おじいさん。今日のテレビでも報道されてたよ」

「うん。私も見てた」

「日野ちゃんは新聞部じゃん。取材とかしないの?」

「まさか。そんなことはしないよ」


 部内でも話題になるけど、実際にやろうだなんて言う酔狂な部員はいない。実際は遅くなると危ないから部活動を控えようって話が出ているくらいだ。


「まあ気をつけなよ? 日野ちゃんみたいな小柄な女の子は狙われやすいんだから」

「クラスで一番の長身だからって偉そうに言わないでよね」


 凸凹コンビと揶揄されている私たちだった。

 しばらくして担任の平松先生がやってきてホームルームを始めた。

 事件のことは触れずに早めに下校するようにと言われた。


 昼休み。食堂で桜井とご飯を食べていると「早苗、隣いいか?」と後ろから声をかけられた。私は振り返ることなく「いいけど」と応じた。


「ありがとう。席が空いていなくてな。うん? ああ、確か桜井さんだったか?」

「ええ。お久しぶりです日野先輩」


 兄貴は私の隣にカツ丼とラーメンとカレーライスを載せたお盆を置く。こんなに食べているのに横ではなく縦に伸びるのは理不尽としか言いようがない。


「兄貴、相変わらずよく食べるね」

「まあな。午後も部活があるから」

「お父さんが早めに帰ってくるって」

「そうか。でも今大事な時期なんだよな」


 私と兄貴は一個違いだ。今年三年生の兄貴は部活や受験で大いに忙しいに違いない。できることなら妹として支えてあげたいと内心思っている。

 兄貴は私に似ていない。浅黒くて黒の短髪で背が百八十もあって筋肉質で。ほんの少しだけ身長をもらえたら良かったのにと思っている。


「日野先輩、私応援してます」

「おお。確か吹奏楽部だったな」

「覚えてくださってたんですね!」


 桜井は嬉しそうに言う。こいつは兄貴に惚れているのだ。ちょっと複雑な気持ちがする。


 兄貴と桜井との昼食を終えて教室に戻ると男子たちが殺人鬼について話していた。いや殺人鬼ではなく不審者の話だ。何でも黒尽くめでピエロの仮面を被っていたらしい。どうやらそいつが殺人鬼だと主張している一人の生徒――赤山あかやまがみんなにそれはないとつっこまれていた。まあ赤山はマニアックな人間だから仕方ない。


 午後の授業を終えて、私は新聞部へと向かう。途中まで桜井と一緒だった。彼女はバレーボール部で体育館方向に新聞部の部室があるのだ。


「それじゃ、また明日」

「うん。今度は宿題やってきなよ」


 新聞部の部室に入る。今月の新聞作りをしている部員に挨拶してから、私も作業に入る。記事を書いて、部長と先生にチェックをもらって、パソコンに打ち込む。それを新聞のようにして印刷して、クラスごとの掲示板に貼るのだ。

 記事は部活動の成績とか生徒へのインタビューとか、あまり面白みのないものだ。


「今日の部活はここまでにしましょう。最近物騒だからね」


 新聞部の女部長、春川はるかわ先輩の一言で少々早く終わった。私は帰り支度をして足早に去ろうとしたけど、春川先輩に呼び止められた。


「日野さん。この間の件、考えてくれた?」

「みんなが賛成してくれればいいですよ」


 実は引退する三年の後を引き継いで部長になってくれないかと打診されていたのだ。


「あなたの意思が知りたいのよ。みんなが賛成という気持ちは分かるけど、あなたがやりたいと思わないと」

「私はそれほどやりたいとは思ってないです。どうして私なんですか?」

「あなたが一番センスがあるからよ」


 そうは言われても自分ではセンスがあるのかどうか分からない。


「まあ、考えておいてね」


 三十分くらい話し込んでしまった。他の部員はとっくに帰ってしまった。

 少し天気が崩れてきたと思いながら私は家に急いで帰る。高校は家から二十分ほど歩いたところにある。

 街に人はあまり居なかった。きっと殺人鬼のせいだと思った。普段はもっと人が居るのに。

 横断歩道で信号を待っていると足元に猫がやってきた。黒猫だった。私の靴を嗅いでいる。猫好きな私は猫を抱きかかえようと両手で脇を持ち上げようとして、気づいた。


 ぬめっとする。水ではない何かに濡れている。恐る恐る手のひらを見る。

 赤黒く染まっていた。

 思わず悲鳴を上げて、猫から手を放す。猫はそのまま裏路地のほうに走り出す。何回かこっちを振り向く。まるで着いてこいと言っているようだった。


「もしかして……いや、そんなことは……」


 私は気づいていた。猫を追えば血の主に会えると。

 もちろん無視すれば良かった。でももし生きていたら? 殺人鬼と関係なく大怪我をした人間が助けを求めていたら?

 そう考えたら行かざるを得なかった。

 まるで魅入られたように猫の後を追う。

 確か区画整理が失敗したので複雑に入り組んでしまったとお父さんが言っていた。その路地を慎重に歩く。

 私は角を曲がろうとして――気づく。

 足元に血が流れていた。


 曲がってしまえば、何かがある。

 心臓が破裂しそうなくらいどきどきしている。

 できれば見たくない。

 でも、そうしないと――

 勇気を振り絞って、角を曲がった。


 そこには小学生の男の子の死体があった。


 目が見開いて、腸が飛び出ていて、辺りは血だらけで、だらんと口が開いていて。

 もう助からないことは明白だった。


「け、警察、警察に電話しないと……」


 悲鳴を上げなかったのは冷静だからじゃなかった。驚き過ぎてそういう風にしか反応できなかったからだ。

 急いで鞄からスマホを取り出そうとする。

 私は愚かだった。

 一刻も早く、この場から立ち去るべきだったのだ。

 だから――


「…………?」


 何をされたのか気づかなかった。

 左手で口を塞がれて。

 右手のナイフで心臓を刺された。


 呆気にとられたのは一瞬で、知覚したのも一瞬だった。

 心臓からナイフを引き抜かれて初めて激痛を感じた。


「あ、あああ、ああああああ……」


 左手を放されてもそれしか声が出ない。

 痛いというより、熱い

 熱いというより、冷たい。

 矛盾するような痛み。


 その場にどさっと倒れて、流れる血が男の子の流したものと合わさる。

 身体から血が抜けていく。

 意識が無くなっていく。

 最後に思ったのは。

 このまま死ぬのは嫌だな。

 それだけだった。


 こうして私、日野早苗は死んだ。

 殺人鬼に殺されてしまったのだ。

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