02
次の朝、目覚めるともちろんネクタイはなかった。夢でないことを確かめて、俺は妻と娘が座るダイニングテーブルについた。ご飯に味噌汁。焼鮭に納豆。ネクタイはなかったが平和な家庭がそこにあった。妻が尋ねてきた。
「ねえ。あなた。昨日、騒いでいたネクタイってなに」
横にいる娘が気まずそうな顔をして、昨日、言ったことを詫びた。
「昨日はごめんなさい。変なこと言って」
俺は二人の心配そうな顔をみた。
「いや。なんでもない。気にしないでくれ。さあ食べよう」
テーブルの上を見回すと「はし」がなかった。
「はしをくれないか」
妻と娘が顔を見合わせて言った。
「はしってなに」
今度は「はし」か。
「いや。なんでもない」
俺はそう答えて、妻と娘の様子を見ることにした。二人はフォークとスプーンを器用に使って茶碗に盛られたご飯とお椀に入った味噌汁を食べていた。小さな容器に入った納豆をこぼさないようにホークでかき混ぜる姿を見た時は、うまいものだと感心すらした。丸底の器にナイフとフォークがこんなに使いにくいものとは知らなかった。俺ははしの代わりになるものを探しまた。竹串は細すぎるし、ストローでは弱すぎる。なかなか手ごろな木の棒を見つけられずにいたが、サイドボードの中にガラスのマドラーを二本みつけた。俺はそれをとってきて、妻と娘に言った。
「外国では木の棒を二本つかって食事をとるそうだ」
俺はマドラーをはし代わりにして朝食を食べ始めた。妻と娘は魔法でも見ているかのように驚いていた。
「ねえ、パパ。凄い。どうなっているの」
娘はポケットからスマートフォンを取り出して、動画撮影をはじめた。俺は調子に乗ってマドラーのはしを使って、皿の上の焼鮭の身から皮と骨を分けて見せた。
俺はその日の昼食に部下とそば屋に行った。家から持ち出したマドラーを使ってそばを食べる姿を見せて部下たちを驚かせた。食べ終わるころには、俺のまわりに他の客たちが集まって人垣ができていた。
次の朝目覚めると、今日はどんなものがなかったことになっているのかとあたりを見回した。朝の身支度も食事も特に問題なかった。今日はなにもおきないのかと思って安心した直後だった。トイレットペーパーがない。幸いシャワートイレだったので、それほど汚れていなかったがその日一日、落ち着かなかった。一度、なかったものになったものは二度ともとにはもどらなかった。文化的にも、歴史的にもなかったことになるようだ。
ネクタイ、はし、トイレットペーパーに始まって財布、傘、タバコ、マニキュア、ペットボトル、網戸、電気掃除機、レトルトカレー、靴下、コンタクトレンズ、歯ブラシと毎日一つずつ、何かがなかったことになった。あることが当たり前の俺にとっては不便であるものも多かったが、妻も娘も会社の仲間も普通に暮らしていた。俺は、世の中になくても暮らせるものが案外、多いものだと思うようになっていった。