01
俺は東京近郊のベッドタウンに、妻と高校2年生の娘と家族3人で暮らしていた。毎朝、満員電車に揺られて通勤している。俺は文房具メーカーでボールペンを販売する部の営業課長をしていた。まあ、仕事は嫌いではなかったが、しょせん生活のために働くごくありふれたサラリーマンだった。そんな平凡な暮らしを続ける俺のまわりで、おかしなことがおこりはじめた。毎朝、目が覚めると何かが一つずつ消えていくのだ。なくなるとかそういうことではなくて、最初からなかったことになるのだ。
はじめに気がついたのは「ネクタイ」だった。いつものように目覚めて、いつものように家族と朝食を食べ、スーツに着替えている時のことだった。ネクタイを選ぼうとクローゼットに手を伸ばすと、ネクタイ掛けごと消えてなくなっていた。一応、営業課長をしている手前、身だしなみには気を付けている。部下への示しもある。俺は妻に向かって少し声を荒げた。
「おい。ネクタイはどこにやった」
妻は不思議そうな顔を向けた。
「どうしたの。ネクタイってなに」
俺は妻のもとまで歩み寄った。
「なにをバカなこと。ネクタイはネクタイだ」
「あなた。落ち着いて。なにを言っているかわからないわ。ネクタイってなに」
ちょうどその時、テレビの朝の情報番組が若年性痴ほう症について語っていた。妻がボケたのかとドキッとした。
「首に回すひものようなやつだよ」
妻は娘に向かって尋ねた。
「ねえ、真由。ネクタイってなに。首に回すひもって言っているけど」
「知らないわよ。犬の首輪じゃない。パパは会社の犬だから」
俺は頭に血がのぼるのを押さえて、
「もういい。今日はこのまま出かける」
と告げるとマンションを出た。
駅前のコンビニでネクタイを探したが見つからず、店員に尋ねると彼も妻と同じようにキョトンとして尋ねてくる。
「どんなものですか」
俺は怒りを抑えながら妻に話したのと同じ答えを返した。
「ネクタイだよ。首に巻くひもみたいなやつだよ」
店員は考え込んでから言った。
「何の目的で首にまくのですか」
俺は説明に困った。ネクタイの意味なんて考えたこともない。これ以上、店員とやり取りしている時間もなかったので、急いで電車にかけのった。電車にすしづめになりながらも、あたりを見回した。スーツ姿の男たちは、誰一人としてネクタイをしていなかった。クールビスにはまだ早い。若手社員ふうの男はもとより、それなりの役職がありそうな紳士まで、ネクタイをしていなかった。どういうことだ。俺は狼狽しながらも、スマートフォンで「ネクタイ」を検索した。該当数0件。
俺は、その日の日中を奇妙な気分で過ごした。夕方になって帰宅する頃には気持ちを切り替えた。どおってことない。世の中からネクタイが消えた、いやなかったことになっただけだ。そもそもネクタイなんてなんの意味があるかわからない。邪魔なだけだ。手間が一つ省けたのだからむしろ良かったじゃないか。ここでネクタイに固執したら、逆に俺がおかしな人間に思われる。こうして、俺は俺自身の記憶からもネクタイをなかったことにした。