あなたのいない部屋で
元々一人暮らし用に借りた部屋が、今ではやたら空虚に感じる。この空間からは大切な何かが確実に切り取られ、彼方へと消え去ってしまっていた。窓から西日が差し込む。嘗ては恋に焦がれる乙女のほっぺの如き色に思えた夕日が、儚く色褪せて見える。床を朱く染めるそれが赤土をぶち撒けたようで。まるで私の心を表しているようで、堪らずさっとカーテンを引く。残されたのは光彩を無くした部屋と半身を失った透明な私だけであった。
ぼうっと無色の空気に浸っていると、ポケットから最近流行りの曲が場違いに流れてきた。携帯電話の着信メロディだ。緩慢な手つきで、相手の番号も見ずに通話ボタンを押す。
「はい、もしもし」
『あんた近頃連絡くれないからこっちから掛けちゃったわよ』
「なんだ。母さんか」
連絡はなんとなくしていなかっただけだ。というか忘れていた。この前まで親への報告を忘れるくらい楽しい日々が続いていたのだから。
『なんだとは酷い言い草ね。せっかく電話したのに。そっちはどう? 一人暮らし慣れた?』
「慣れ……たよ……」
込み上げてくる涙を堪えて、なんとか嘘の返事をする。私は逃げるように母との会話を打ち切った。すっかり慣れたはずだったのに彼女が私の中に入り込んできたから、一人暮らしの感覚なんて忘却の海に沈んでしまった。そのまま深い海の底に落ちていかないように一人、自身を掻き抱く。自分は確かにここに存在しているのに、自分ではない感覚。それは彼女が私の半身と成り得ていたから。そして、その半身は失われてしまったからだ。
これでいいんだ。これでいい。これで。あなたはもういないのだから。
そう暗示を掛けるように自分に言い聞かせる。それだけで随分と気分が落ち着いた気がした。余裕が出てくると、耳朶に染み込んでくるのは外世界のノイズだった。臭いガスを吹き出しながら走る車。断末魔のような轟音を立てて、ドップラー効果を引き起こしつつ通り過ぎるバイク。何が楽しいのか、きゃいきゃい狂ったように叫ぶ童子達。近所迷惑も憚らず大音量で流されるヘヴィメタル。彼女がいなくなったことで寂しく静かになったものだな、と思っていたが、ここはこんなにも五月蠅い。この五月蝿さは決して私の寂寥感を跳ね除けるものではないだろう。彼女の声が、五月蝿さが恋しい。
寂しいよ。どうしてちゃんとお別れも言わせてもらえなかったの? 私たちの関係ってそんなもの?
ソファには彼女がそこにいた証である皺が確かに刻まれていた。皺一本一本から彼女の靭やかな曲線を思い描くことができる。宝物に触れるように皺を崩さないよう、優しく指をソファに落とす。もう彼女のぬくもりは部屋の空気に溶け込んでしまったが、彼女と一晩中抱きあった暖かさは記憶から消えていない。それが無性に嬉しかった。
そうなんだ。この部屋にはまだ彼女が残っている。淀んだ空気は彼女の吐いた息を多分に含んでいることだろう。鼻を動かすと、香ってくるのは彼女の匂い。私は彼女に包まれ、抱かれている。絶対換気なんてしてやるものか。携帯電話の中には彼女の愛の囁きが記録されている。目を通すだけで体の芯から湧き上がってくるものがあった。指の腹で腹部を撫でると、そこにも彼女はいた。彼女の唾を嚥下して私の胃液と交じり合った体液。彼女の遺伝子か私の中にある。彼女を体内に留めておくためならば尿意も我慢しよう。私は一人じゃない。
何度も何度も暗示を掛けるけれども、なかなか自分は騙されてくれない。もっと単純な思考をしていれば楽に生きられたのにと思う。少し時間が経つと、また寂しさが津波のように胸の奥から襲ってくるのだ。
「会いたいよ……声が聞きたいよ、みいちゃん……」
嗚咽混じりの汚い声は暗闇に散っていく。
その時、不意に玄関のドアが開け放たれた。鍵を掛けたはずなのにとかそんなことはどうでもよかった。私は目の前の現実を受け入れられずにいた。
「真っ暗じゃん。いたんなら電気くらい点けなよね。てかなんで泣いてんの?」
「あ、あぁ……みいちゃ、ぁ、ん、ぁぁああああ! みいちゃあああああああ!」
視界が涙でぼやける。愛しいみいちゃんの姿が見えない。その代わりに思い切り抱きついて、みいちゃんを私の中に取り戻す。
「おー、よしよし。悪い夢でも見ちゃったのかな?」
「うん。悪夢だったよ。起きてる間ずっと悪夢だった。みいちゃんが何処か行っちゃうんだもん」
「何処かって……仙台にちょっくら出張だって言ったじゃない。向こうが大雪で飛行機飛べないから、延期になった。そんで帰って来たよ」
「また会えて嬉しいよぉ。この前できなかったお別れ会しないとね! クラッカー買ってこなくちゃ。ケーキも!」
ぺちんと頭を叩かれた。痛気持ちいい。
「いちいち大げさなんだよ、おまえは。たった二日三日の出張くらいで」
「しょうがないじゃない。だって……」
大好きなんだもん。
愛が重い!
悲恋は書けないイカ墨です