靴の相方
俺はある日、道端に突然落とされた。いきなり風が俺の中に舞い込んできたことから、持ち主から不本意にも逃げてしまったのだろう。
俺の本来いるべき場所は、不安定な人力の車に乗せられ、遠くへと消えていく。俺の居場所は後に、車を動かしている女性に叱られるのだろう。だが、そんなことは関係ない。俺は自由だ。
俺は無い目で空を見上げた。“夕方”と言う時間に、風を遮られ、踏まれながら“家”と言う場所へと帰る。では今はその途中なので“夕方より少し後”の時間なのだろうか。この時間に空を見上げたことがないので分からない。
俺の脇をすり抜ける人々は、一直線に前を見つめている。
「おう。お前、捨てられたのか」
たくさんの仲間が嘲笑しながら横を通り過ぎていく。
「いや、落とされたのさ」
言い終わる前に、仲間は去って行ってしまう。急いでいるのではない。急がされているのだ。
自分の姿を客観的に見る、いいチャンスだ。俺は周りを目の動く範囲でしきりに観察した。
みんな重そうだ。でも実際は重くはない。例えば人間は生まれたときから、何かしら動いている。それと同じで、俺らは生まれたときから何かしら乗せている。それが生きていると言うことであり、俺らの大事な特徴なのだ。
さて、観察もいいところにして、俺は晴れて自由の身になったわけだ。何かしなくてはもったいないではないか。
しかし俺は、自分のことに関して以外は無知に等しい。今までは十分それでやって来れたが、今日からは何もかも、自分でどうにかしなければならない。
俺は何かを忘れていた。それが必要なものなら思い出したいが、特に必要でないものなら、ぜひその記憶の部分に新しい知識を入れてしまいたい。しかし、俺はそれが必要なのかそうでないかさえ、分からない。
「くそっ……」
自由になった自分への喜びに腹を立てた。俺は嬉しいはずなのに、どうも寂しい気持ちがしてならない。世界とは難しいものだ。
さて、何をしようか。もう一度本題に戻す。しかし、俺の試みもむなしく、彼女は現れた。
「あら、どうなさったの?」
ヒールの音を止め、彼女は女性の電話のために立ち止まった。
「落ちてしまったのさ」
「ふうん。あなたずいぶん小さいのね」
「まだ子供だからさ」
「子供はすぐに使えなくなって、捨てられるわ」
彼女は高い位置から見下してくる。
「まあな。だが、はれて自由の身だ」
「そうかしら?」
彼女は俺の言葉を軽く切り替えした。
「あなた、これから一足でどうするの?」
女性は電話をやめ、歩き出した。彼女はそれに寄り添うように着いていく。振り向きもしない。彼女に俺は、吃音さえ返せずに、その姿を見送った。
その通りだ。俺はこれからどうするのだ。自由になった? いや、違う。これは地獄への近道だ。
俺は次第に恐怖を感じ始めた。このままでは俺の一生が、ただの哀史になってしまう。
寒さを感じた。温まっていた空気は全て逃げてしまったのだ。俺は空っぽだ。寒さを遮るものを失ってしまった。
もしかしたら、どうにかなる方法があるのかもしれない。俺は俺の生き方しか無いとは限らない。
俺は暗闇の混ざった空を見上げた。もうすぐ“夜”と言う時間だ。
とにかく歩こう。俺は一歩踏み出した。この道をどのように行けばどこへ行くのか、ちっとも分からないが、行くだけ行ってみよう。
ところが俺の足は一歩で止まってしまった。なぜだ。しかし、空っぽの胸では感じている。何かが足りない。しかしそれは何なのだろうか。
俺はもう一度進もうとした。しかし俺の体は進んではくれない。ひもはほどけていない。擦り切れてもいない。ではなぜなんだ。俺は何を忘れている?
助けるように周囲を見渡した。先ほどのように声をかけてくれるやつは、いなくなってしまった。みんなますます急ぎ足になり、声をかける暇もない。だが、俺はこのままでは進めない。
もう一度観察を始めることにした。みんなは歩いている。俺との違いを探してみた。
そして俺は自分の記憶を掴んだ。相方がいないのだ。俺が右足を出しても、左足を出してくれる奴がいない。
街頭の明かりがつき始めた。どれが星なのか分からなくなっていく。
俺は街に埋もれ始めていた。俺はどこへも行けない。自由の身になっても、自由になる行動力がなければ意味がない。俺は一人で、ここで埋もれていくしかない。相方はここへは来てくれない。
誰かに助けを借りて、相方の所へと返してもらおう。俺は声を張り上げた。
「誰かー! 誰かー。誰か……」
俺は自分の行動の馬鹿らしさに気づいた。俺の声が人間に聞こえるはずがない。振り向くのは仲間ばかりだ。その仲間さえも次第に振り向かなくなっていく。みんな振り向く暇もなく急がされているのだ。
俺は霧消と化して行く。そんな気がした。それが一番いいのかもしれない。簡単に自由を手に入れた、自分への罰だ。
街灯に馴染んで星が輝く。俺は凍えながら、ただ世界を見つめている。
なぜ、このようなことに。問いつめながらも、答えを追求しようとは思わなかった。
人々の足は次第に早くなる。時間が過ぎれば過ぎるほど。
俺はタイムマシーンに乗っているようだ。仲間を見送り、出迎える。みんなを見つめながら哀歓を味わう。
星に照らされ、目は次第に薄れていく。
これは愛顧だ、などと、誰かを恨んだりはしない。
ああ、寒い。俺は氷に襲われたのか。それさえも分からないほど目は薄れる。
光が朦朧と流れる中、突然俺の何かが切れた。
これでいいんだ。霧消に。
目は真っ暗と、時の果てを静かに語った。
完