-3-
「ふう。少し早いが、今日はこのくらいにしておこうか」
サザナミさんが、息を吐きながらそう告げる。
船長がいない場合、年長のサザナミさんが指示を出すことになっているのだ。
時刻はまだ夕方と言えるかどうか、というくらい。
日が傾きかけてきた程度だったけど、もうみんなヘトヘトだった。
人手が足りない分、もう少し運んでおいたほうがいいかもしれない、という思いもあったのだけど、これ以上はさすがに厳しそうだ。
無理して腰を痛めたりしても困る。そんなわけで、今日のところは早々に切り上げようということになった。
「お疲れ様でした。冷たい飲み物を用意しましたので、よろしければどうぞ。果物のジュースにしてみたのですが」
「おお、ありがたい。では遠慮なく」
一気にのどに流し込むサザナミさん。
僕たちもそれに続いて、テーブルに置かれたコップを手に取った。
ふう……。
のどを伝って流れる冷たさが、汗をいっぱいかいて水分の減った体全体に染み渡っていくようだ。
「おかわりもありますから、遠慮せずにどうぞ。ここに置いておきますね」
そう言って、ジュースがたくさん入った容器をテーブルの上に置いた陽光さんは、そのまま僕の横に座った。
「あの、ミサキさん」
遠慮がちに声をかけてくる陽光さん。
「もしよかったら、これからお時間いただけませんか? 一緒に来て欲しい場所があるんです。あ……でも、少し歩くことになるし、疲れているでしょうから無理はしなくていいのですけれど」
「あっ、はい。疲れは大丈夫ですけど、でも……」
ちらっ、と、サザナミさんやミヤコさんのほうに目を向ける。
今日の荷物運びはとりあえず終わりだけど、運んだ荷物の状態確認や残っている荷物量の確認など、仕事はまだ残っている。
僕だけがこの場を離れるというわけにもいかないかな、と考えたのだけど。
「行ってきなさいな。せっかくのレディの誘いを断るなんて、野暮なことしちゃダメよ!」
ミヤコさんがウィンクしながらそう言った。サザナミさんも無言で頷いている。
「それじゃあ、ちょっと行ってきます」
「すみません」
サザナミさんたちに軽く頭を下げて歩き出す陽光さんの背中を追うように、僕もそのあとに続いた。
☆☆☆☆☆
傾いてきているとはいっても、日差しはまだ肌に突き刺さってくるように感じられた。
歩いているだけでも、汗がにじんでくる。
僕の隣を歩く陽光さんも、帽子はかぶっているものの、やはりその額には汗の粒が浮かんでいた。
陽光さんの透き通るように白い肌には、余計にその日差しが痛々しく思えた。
「大丈夫ですか? 日陰で休憩しながらでもいいと思いますよ」
「お気遣い、ありがとう。……でも、大丈夫です。みなさんの、お仕事に、比べたら……、このくらいで、音を上げるわけには、いきません」
そう言いながらも、息が上がっているのは一目瞭然だった。
かなりおっとりした性格のようだし、気のいい深空さんに大切に育てられた感のある陽光さん。
肌の白さから察するに、長時間太陽のもとで肌をさらしている、なんていうことも今までにはほとんどなかったに違いない。
体を鍛えたりしているとはとうてい思えないから、体力的にも僕なんかよりずっと劣っているだろう。
それなのに、たまに足がもつれてふらつきかけたりしながらも、足を止めることなく歩き続けていた。
案外、強情な面も持っているらしい。
僕はそんな陽光さんが倒れたりしないように注意して見守りつつ、黙ってそのあとについて歩いていくしかなかった。
微妙に上り坂になっていて、まともな道もない林の中を、陽光さんは迷うことなく歩き続ける。
照りつけていた日差しも角度を下げ、徐々に朱みを帯び始めた頃、息を切らしながら陽光さんが口を開いた。
「もう少しで、着きますよ」
やがて、視界が開けた。
そこはなだらかな丘の頂上。林を抜けたその丘の頂上からは、一面のパノラマが広がっていた。
遠く広がる山々を背景に、眼下には綺麗な煉瓦造りを基調とした町並みが広がっている。
そのすべてが、すでに山の稜線にまでかかり始めている夕陽に照らされて、真っ赤に染め上げられていた。
「うわぁ……」
思わず感嘆の声がこぼれてしまうほどの、圧倒的な自然の景観だった。
「綺麗でしょ? ここから眺める景色、私は大好きなんです。事務所からの帰りに、よくお父さんと見ていくんですよ。夜景も朝焼けも綺麗ですが……私はこの夕焼けの時間が一番好きなんです」
そうか、陽光さんは僕にこの時間の景色を見せたかったから、夕焼けに間に合うように休まず歩いてきてくれたんだ。
全身を包み込むような温かなそよ風が、丘を優しく撫でながら吹き抜ける。
僕は声を出すことすら忘れ、一面の朱い世界に惹き込まれていた。
「私、生まれてからずっとあの町に住んでいるんです。仕事で事務所に寝泊りすることも多くなってはいても、やっぱり家に帰ると落ち着くんです。近所の人たちも、みんな優しくしてくれるんですよ」
笑顔で話してくれる陽光さんの声も、優しさに満ちた温かさをたたえているように、僕には思えた。
そういった周りの環境のおかげで、陽光さんはこんなにも穏やかな女性になったのかもしれない。
「へぇ~、そうなんですか。陽光さんは、ここで幸せに暮らしてるんですね」
「ええ。決して裕福ではないけれど、お父さんとふたりで頑張って仕事をしながら生きていくのが、私の幸せなんです」
「ふたりで……?」
疑問を声にしてから、僕はちょっと後悔した。
訊いてはいけないことだったかもしれない、そう思ったからだ。
だけど陽光さんは、一瞬目を伏せる仕草を見せたものの、すぐに顔を上げて答えてくれた。
「お母さんは、私が小さい頃に死んでしまったんです。それからは、ずっとお父さんとふたりだった……。といっても、お父さんも近所のみなさんも、いろいろと気にかけてくれたから、寂しくはなかったのだけれど。それでもやっぱり、たまにお母さんのことを思い出してしまって……。そんなときに、そっと肩を抱きしめてくれるお父さんの温もりで、私はここまで頑張ることができたんだと思うの」
「陽光さん……」
「あ……ごめんなさい、湿っぽくなってしまいましたね。気にしないで、もう全然気にしていないんですから」
そう言ってうつむく陽光さんの横顔も、夕陽に照らされて朱く染まっていた。
「……どうして、僕をここに連れて来てくれたんですか?」
夕陽に映える陽光さんの横顔があまりに美しく思えて戸惑っていた僕は、さっきからずっと考えていたことが、つい口をついて出してしまった。
その問いに、陽光さんはさらに低くうつむいて、遠慮がちにささやくような声を紡ぎ出す。
「……どうしてでしょうね。なんとなく、見せたいなって思ったんです。……迷惑、だったかしら……」
「そんなことないですよ! すごく綺麗な景色を見られて、陽光さんにとって大切なこの場所に連れてきてもらえて、僕は本当に嬉しいです!」
「ありがとう。そう言ってもらえると、私も嬉しい……」
ぱーっと明るい笑顔を向けてくれる陽光さん。
名前の示すとおり、すべてを明るく照らす太陽の光のような笑顔だった。
「……やっぱり、お父さんに似てる……」
最後に陽光さんは、小さくそうつぶやいた。