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その翌日、僕と陽和の仕事は休みだった。
バイト扱いの陽和は、結構多めに休みが取れるのだという。僕も同じくバイト扱いということで、同様に休みとなった。
とはいっても自由に休みにできるわけではなく、理星さんが仕事量を考えて人手が必要なさそうなときには休みになるという感じのようで、前日になって突然、「明日は休んでいいから」と言われたのだけど。
朝、明灯さんが出勤したあと、陽和と軽く話をしながら昼過ぎまでのんびりと時間を過ごしていた。
こういうゆったりとした時間も必要だよね。そう思って安らいでいると、陽和が話しかけてきた。
「ミサキ。今日は、ちょっと一緒に来て欲しいところがあるんだ」
淹れてもらったお茶を飲みながら僕は、「うん、わかった」と即答した。
とくに予定があるわけでもなかったし。
「そうだ、今日はまだハムちゃんにオヤツあげてないから、あげてみる?」
「あっ、うん」
僕は陽和に誘われて彼女の部屋へ。
ハムちゃんは、今日も元気にケージの中をちょこまかと動き回っていた。
「ケージの横に袋が置いてあるから、適当に取って食べさせてあげていいよ。あっ、でも、ひとつかふたつくらいまでにしといてね」
そう言いながら陽和は部屋の奥のクローゼットを開けると、並んだ洋服たちとにらめっこを始める。
僕は袋の中からヒマワリの種をひと粒取り出して、ハムちゃんに手渡してみた。
ガジガジガジガジ。
小っちゃな指でしっかり種を抱えて、前歯を上手く使ってちょっとずつかじっていく。
うぁ~、可愛い!
種を食べ終えたハムちゃんは、小さな前足としっかりとした後ろ足を巧みに使って、ケージをよじ上り始めた。
天井にまで上ると、片方の前足をケージの外にまで出して、つぶらな瞳で僕のほうを見つめる。
「もう一個ちょうだい、ちょうだい!」と言っているかのようだった。
その姿があまりにも可愛いくて、ヒマワリの種をもうひと粒取り出してハムちゃんにあげようとした、ちょうどそのとき。
不意にハムちゃんがバランスを崩して落下した。
わっ!
僕は慌てて、つい手を出してしまう。
ケージの中だから受け止められるはずもないし、床にはタオルが敷いてあるから怪我をすることもないというのに。
そのせいで、持っていた袋の中身を盛大にこぼしてしまった僕は、飛び散った種をせっせと拾い集めて袋に戻す羽目になってしまった。
最後に残っていたひと粒の種をつかんだ瞬間、ハムちゃんと目が合う。
ハムちゃんは、床に落下したはずなのにケロっとした表情で、前足を必死に伸ばして催促してきているようだった。
最初からあげるつもりだった僕は、素直に種をハムちゃんに渡した。
ガジガジガジガジ。
う~ん、やっぱりこれは癒されるなぁ……。
陽和もいつもこんなふうにハムちゃんを見ているんだろうな。
「可愛いわよね。食べ終わったとこかな?」
「うん、もっとあげたいくらいだけどね」
「ふふ、そう思うよね。でもダメよ。……さてと、それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
僕は陽和に続いて家を出た。
適度に会話を交わしながら歩いていく。どうやら町から出るつもりのようだ。
陽和はそのまま町の裏手に広がる林の中へと入っていく。
舗装されてはいないものの、しっかりと道にはなっている細い林道を、僕たちふたりは歩いた。
どこに向かっているのか。それは、なんとなくわかっていた。
林は小高い丘へと続き、軽い上り坂になっている中を進み、やがて木々が途切れて視界が開けると、そこには一面の展望が現れた。
陽光さんと一緒に見たのと同じ光景――。
そう、そこは、あの思い出の丘だった。
「よく、お婆ちゃんに連れられてここに来ていたの。ミサキも来たことがあるんだよね? お婆ちゃん、嬉しそうに話してた」
「うん。すごく綺麗だよね」
丘の片隅にふたり並んで座りながら景色を眺める。
町並みが一望できるこの場所。たくさんの人々が生活している町のすべてが今、自分の視界の中に入っていることになる。
なんだか、神様とかそんな感じの、特別な存在になったような気さえする。それほどまでに、壮麗で幻想的な景色なのだ。
「……ミサキ、最近ちょっと元気ないみたいだったから」
そよ風になびく髪をもてあそびながら、そうつぶやく陽和。
そうか。気を遣って、僕を元気づけようとしてくれたんだ。
「ん、ちょっと……みんな、どうしてるのかな、とか考えててね」
優陽さんのことについて考えていた、それは言ってはいけない気がして、とっさに嘘をついた。
まぁ、ミヤコさんが来たり、ナギさんが隠れて様子を探っているみたいな感じだったり、まったくの嘘とも言えないわけだけど。
「そう……よね」
陽和もなにか思いつめているような、そんな様子だった。
「あっ、ミサキ」
陽和が不意に身を寄せてくる。
「えっ? な……」
「ん、動かないで」
陽和の髪が、風で僕の鼻をくすぐる。そんな至近距離に、ちょっとドキドキしていた。
僕の服の胸ポケットに、陽和の白くて細い指が滑り込んでいく。
「ほら、これ」
すぐに身を起こし、陽和はなにかを僕の目の前に差し出した。
それは、ヒマワリの種だった。
「ポケットの中に入ってたよ? 袋からこぼしたときに入り込んだのかな」
そう言って陽和は微笑みを浮かべる。
ハムちゃんにオヤツをあげたときにこぼしたうちのひと粒が入っていたのだろう。
そのことに気づいて、ポケットから取り出してくれたのだ。
「ん~。自然の物だし、ま、いいよね。えいっ!」
ピンッ!
陽和はその種を、指ではじいた。
白い指先から放たれたヒマワリの種は、綺麗な放物線を描き、丘の草むらの中へと飛んでいった。
「あっ、そうだ。陽和は、夕方にこの丘へ来たことってある?」
「え……? ううん、ないわ」
「そっか。それじゃあ、それまでここで待とう」
僕はそう提案した。
あの日、あのとき、陽光さんと見た景色。あれと同じ風景を、陽和にも見せたいと思った。
陽光さんから最初に見せてもらったあの光景が、一番深く心に残っていたからだ。
丘を吹き抜ける爽やかなそよ風の中、ほのかに言葉を交わしながら、僕と陽和は時が経つのを待った。
「わぁ、綺麗……」
夕焼けに染め上げられた景色は、あの日、陽光さんと一緒に見たのとまったく同じだった。
当然ながら、町並みは微妙に変わっているはずだけど。
それでも、圧倒的に映り込んでくる朱は、今もあのときと同じように僕の心に染み入ってくるかのようだった。
陽和は声を出すことすら忘れ、幻想的な風景に見入っている。
気がつけば、いつの間にか周囲は薄暗くなっていた。
時間を忘れてしまうほどの美しさの中、僕たちふたりはただ黙って目の前に広がる情景を眺め続けていた。
「この光景を、ミサキはお婆ちゃんと一緒に見てたのよね」
つぶやく陽和。
「なんか、不思議だよね」
そう言いながら向けられた笑顔は、夕焼けの色に温かく包み込まれているように感じられた。
「うん、確かにそうだね」
今、僕の目の前には、その人の孫娘がいる。
本当に不思議な感じだ。
そう思って見つめていると、陽和は視線を戻して、夕陽に美しく映える町並みを眺め直した。
「この景色は、お婆さんから陽和への時間を越えたプレゼントだよ」
「うん……」
僕たちは、そのまま夕陽が沈みきるまで、奇跡のような景観の中に身を委ね続けた。