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「こら、待ちなさい!」
突然部屋の中に女性の大声が響いた。
澄んだ声質ではあるものの、その表情からにじみ出る怒りの震えをも含んだ、聞く者を圧倒するかのような声。
すらっとしたその体つきからは想像もできない。
はぁ……。ミヤコさん、またやってるよ。
僕はため息をついていた。
「待てと言われて待つわけないですわ。さすがに年増だけあって、動きが鈍いですわね」
「んだと、このチビ!」
ミヤコさんの前を飛び回っているのはチビ……じゃなくて……。
身長三十センチほどだろうか、背中に生えた羽根を羽ばたかせ、追っ手を翻弄するかのようにその身をひるがえし、くるりくるりと舞い踊っている妖精だった。
フェアリー。トンボや蝶など、昆虫のような羽根を持つ、小さな体の妖精。
一般的には魔法の能力に長けていると言われる種族だ。
目の前にいるフェアリーの彼女は、トンボのような透明の羽根で部屋の中を縦横無尽に飛び回っていた。
「イズミ! 待ちやがれ!」
「待たないと言っておりますのに。とにかく、これはいただきます。はむっ」
イズミは、自分の顔よりも大きな大福にかぶりついた。
それを見たミヤコさんが目を見開いて、さらなる大声を上げる。
「あ~~~~~っ! こいつ、ほんとに食いやがった! 私が大事に残しておいた最後の一個を!」
「うん、美味しいですわ。ミヤコさんは少々お肉がついておりますから、私が食べて差し上げたのです。『だいえっと』のお手伝いですわ。感謝してくださいませんこと?」
飛び回るイズミを捕まえようと手をブンブンと振り回すも空気しかつかめず、ミヤコさんは頭に血を上らせている。
そんなミヤコさんの手だけでなく言葉までもさらりとかわしつつ、小さな口で大福を残らずたいらげたイズミは、その口の横にべっとりとアンコをつけたままだった。
「だ~、もう喋り方も鬱陶しい! というか返せ! 吐き出せ!」
「は……吐き出せ!? 吐き出したからといって、それをお食べになるというんですの!? まぁ、なんて野蛮なのでしょう!」
「人の食べ物を横取りするのは、野蛮じゃないってのか!?」
「ダイエットのお手伝いだと言ったでしょう? 鳥頭ですか?」
「ふざけるな!」
「大真面目ですよ、私は」
「うき~~~~~~っ!!」
もう、なんというか、手のつけられないほどに真っ赤に血をたぎらせたミヤコさん。
そのサラサラした草色がかった長い髪からは、尖った耳が突き出ている。エルフというやつだ。
森の妖精とも呼ばれる種族のはずだけど、ミヤコさんを見る限りそんな表現は似合わない。そう言わざるを得ないだろう。
たかだか大福ひとつでここまで怒らなくても、と思わなくもないけど。
でもまぁ、相手が相手だし……。
イズミは表情をほとんど崩さず澄ました顔のまま、落ち着いた声を響かせながら飛び回っている。
とはいえ、イズミが面白がってやっているのは明らかだった。
このふたりは、いつもこうなのだ。
こんな感じではあるけど、べつに本質的に仲が悪いというわけではない。
体の小さなフェアリー用の部屋というのは通常用意されないため、イズミはミヤコさんの部屋で暮らしている。
ミヤコさんは自分の部屋の中にお手製のフェアリー小屋を作ってイズミを住まわせているのだ。
朝起きると寝癖ですごい状態になっているイズミの綺麗な黒髪を、ミヤコさんが梳いてあげているのを見かけたこともある。
ケンカするほど仲がいい、ってところかな。
「うが~~~~~~っ! もう我慢ならん! ぶっ殺す!」
……こんな様子を見ていると、ちょっと自信がなくなってくるけど。
「ふふふ。相変わらず、落ち着きがないですわね。そんなに怒るとシワが増えますわよ? 今さら少しくらい増えても、大差ないかもしれませんけれど」
イズミがさらに神経を逆撫でするような発言を続ける。
ほとんど表情を変えないままに、ここまで言ってのけるイズミも、ある意味すごい奴なのかもしれない。
ともあれ、イズミはここでその鉄仮面をついに崩すこととなる。
「いちいちうるさいんだよ! 虫のくせに!」
カチン!
鉄仮面が割れた。
「虫って言うなぁ~~~~~!!」
イズミはいきなり大声を張り上げ、今までの落ち着き払ったような飛び方とは打って変わって、両手をぶんぶんと振り回し、真っ赤になってミヤコさんに殴りかかる。
もちろんフェアリーであるイズミには、大した腕力はない。全身全霊を込めて繰り出したパンチだったとしても、さほど痛くはないだろう。
ましてや、こんなふうに目をつぶって無闇やたらに振り回すグーパンチではなおさらだ。
ポカポカポカ。
軽い音が、空しく鳴り響く。
「捕まえたっ!」
ミヤコさんが、イズミの羽根をむんずとつかむ。
キャーキャーとわめき声を上げながら、腕を滅茶苦茶に振り回すも、魔の手からは逃れられない。
フェアリーは羽根を封じられたらお終いなのだ。
ミヤコさんは羽根をつかんだまま、イズミを自分の顔の前に持っていく。
「さーて、どうしてくれようかねぇ、この子は」
にやぁ~り、と恐ろしい微笑みを浮かべるミヤコさん。
これ以上やると、エルフのイメージが完全に崩れますよ。
……いや、もう遅いか……。
「こら、ミサキ! あんたさっきから、なにをぼそぼそ言ってるのよ! しっかり聞こえてるんだからね!?」
うわっ!
どうやら思っていることが声に出てしまっていたようだ。僕の悪い癖なんだよね、気をつけないと。
だけどミヤコさん、今はそんなことを言っている場合でもないのでは……。
「わぁ~~~、至近距離で見ますと、シミがすっごいですわねぇ」
頭に上った血が少しは静まったのか、ミヤコさんの顔をまじまじとのぞき込み、イズミはこの期に及んでそんなことをのたまう。
ぶちっ!
ミヤコさんのぶち切れる音が聞こえたような気さえした。
「うぐっ! こいつめ! 羽根を引き裂いてやる!!」
「痛たたたたたた! ミヤコさん、ちょっと、それはやめてください……っ!」
部屋に響き渡る叫び声。
と、その声は突然止まった。
「!?」
ミヤコさんが首根っこをつかまれて、体を宙に浮かされている。その後ろには、長身の男性が立っていた。
ナギさんだ。
いつもクールで、頼りになるお兄さんといった雰囲気の人なのだけど。
今は表情が少々曇っている。
寝起きなのだろう。ミヤコさんとイズミがあまりにうるさくて、安眠を妨害されたというところか。
切れ長の目が、キッとふたりを睨んでいる。
ナギさんって普段はクールなのだけど、怒るととてつもなく怖いらしい。
実際に僕が怒られたことはないのだけど、みんな口々にそう言っている。
熱くなって怒るというわけではなく、『絶対零度の怒り』なのだとか。
見てみたいような気もするけど、見たときにはもう、この世から消え去っているのかもしれない。
「きゃーっ! ナギさん、ごめんなさい、ごめんなさい! 私が悪いわけではないのですけど、ごめんなさい! 許してくださいませ!」
イズミが青い顔で異常なほどに謝っている。
「ナギ……悪かった。だから下ろしてくれないかな……?」
あのミヤコさんですら、遠慮がちにそう懇願していた。
ナギさんが、黙ったままそっと手を放す。その場にどさっと崩れ落ちるミヤコさんとイズミ。
そんなふたりの様子を一瞥すると、ナギさんはそのまま椅子に座った。
「あっ、ご飯できてますよ。すぐに持って来ますね」
僕の申し出に、ナギさんは声もなく頷く。
「わ……私たちも、食事にしましょうか」
「そ……そうですわね。食前の運動も済んだことですし、美味しくいただけますわ」
おとなしくなったふたりの体は、まだ小刻みに震えていた。