表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
脱兎の如く ~ありし日の角を持つ守護者の肖像~  作者: 星野サダメ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/3

第2話 忘却の広場と赤き凶星

 第2話 忘却の広場と赤き凶星


 森の静寂が、ここではひときわ深い重みを伴って停滞している。

「忘却の広場」――。

 そこは、幾世代にもわたり、我ら一族が土を穿ち、知恵を絞って作り上げた難攻不落の要塞だ。

 地表には無数の穴が口を開け、それは地下で網の目のように繋がっている。

 一見すれば無防備な広場だが、足を踏み入れた侵入者は、どこから角が飛び出してくるか予測することすら叶わない。

 私は広場の中央に立ち、月神の加護を祈るように耳を天へと向けた。


「ピーーーッ!!」


 私の呼び声に応え、茂みの陰から、あるいは地面の穴から、次々と同朋たちが姿を現す。

 彼らは私の鳴き声を聞き、守護者の危機と、森の存亡をかけた決戦の時が来たことを、その野生の直感で悟ったのだ。

「皆、よく集まってくれた。今、不埒な人族が、我らの静寂を奪いに来ている」

 私の喉から漏れる鋭い鳴き声に対し、ある同朋は鼻をヒクつかせ、ある同朋は前脚で耳を掻いた。

 おお、なんという頼もしい仕草か。

 その時、森の境界線に凶暴な人族たちが近づいていると風が伝える。


「はぁ、はぁ……。あいつ、どこまで逃げるんだよ!」

「見ろよ、カイル! 追い詰めたぞ。あそこに固まってやがる!」

 金髪男と緑髪男が、肩で息をしながら広場へと足を踏み入れた。

 奴らは口々に何かを喚いているが、私にはその言葉の意味などは微塵も理解できない。

 ただ、耳障りで、不規則で、粘り気のある音の羅列だ。

「ハハッ、逃げ場はねえな! この数……、ヒャッホー! ボーナスだぜ!」

「リナ、ボサッとしてねえで、サッサとやっちまおうぜ。この角、高く売れるんだ!」

 彼らが発する「音」には、我らを生命として尊重する響きは欠片もなかった。

 奴らの顔には疲労の色が濃いが、それ以上に、我らを見つけた悦びに歪んだ笑みが浮かんでいる。

 だが、私の視線は奴らの背後に釘付けになった。


 新たなる影。それは、燃えるような赤い髪を持つ一人の女だった。

 彼女は鉄の棒を持たず、代わりに細長い木の杖を携えている。

 その瞳は冷徹で、不気味な静謐さを湛えていた。

「……フン、相変わらずバカね。たかが低級モンスター相手に、はしゃぎすぎよ。サッサと終わらせて、コンテストの準備しなさいよ」

 赤髪女が発する音は、金髪男たちのそれよりも高いが冷たく、まるで冬の池の底に沈む石のような感触を伴っていた。

 彼女から漂う気配は、金属の臭いよりもなお異質な、大気を歪ませる未知の波動だった。


「散れ! 『脱兎』の陣、発動だ!」

 私の合図とともに、数十匹のホーンラビットたちが一斉に地面の穴へと吸い込まれていく。広場から、一瞬にして生命の気配が消えた。

 残されたのは、不気味に口を開ける無数の穴と、中央に一人佇む私だけだ。

「あっ!? 消えたぞ!? クソッ、どこ行った!?」

「穴だわ……。フフッ、バカね。いいわ、まとめて焼いてあげる」


 人間たちが何かを叫び、困惑したように杖や棒を振り回している。その滑稽な姿を、私は穴の縁から冷ややかに見据えていた。


 そして戦いの火蓋は、私が切った。

 私は中央の穴へと飛び込み、地下の通路を神速で駆け抜ける。

 土の匂い、湿った空気、そして同朋たちの体温。これらすべてが私の感覚を研ぎ澄ませる。

「そこだ! クソッ、あっちからも出たぞ!」

「ギャッ! 足、引っかかれた! こんな……はずじゃ……!」


 金髪男と緑髪男が混乱の渦に叩き落とされる。発せられる音は悲鳴に近いものへと変わっていく。

 これぞ我ら一族の真髄。地上と地下を自在に行き来し、敵の意識を分散させる「神隠し」の戦術だ。

 今だ。

 私は最も大きな穴から、月神ナーディア様へと届かんばかりの勢いで飛び出す。

 狙うは、戦いを見守る赤髪女だ。


「ムーンライト・ホーン・アターック・レゾナンス!!」


 空中で姿勢を固定し、全身の魔力を角の一点に集中させる。

 私の視界には、無機質な瞳をこちらに向ける赤髪女の顔が映し出されていた。

 彼女が、木の杖を軽く地面に突く。

 彼女の口から、これまでで最も長く、最も重苦しい音が紡がれる。

「――燃え尽きなさい。クリムゾン・ストーム」


 その瞬間、世界の温度が変わった。

 突如として、広場全体が眩い紅蓮の光に包まれた。

 私の目に映ったのは、すべてを無に帰す破壊の輝き。この森が、この土が、そして私が、一瞬にして書き換えられていくような、圧倒的な暴力としての光だ。

 空中にいた私は、その光に飲み込まれる。

 熱い。だが、それは苦痛を越えた先にある、奇妙な多幸感を伴っていた。


 光の中で、私は見た。慈愛に満ちた月の女神ナーディア様が、両手を広げて私を迎え入れてくれる姿を。


 人族のことなど、もはやどうでもよかった。

 あの忌々しい音の羅列も、鉄の棒が触れ合う不快な音も、今の私には遠い異世界の出来事にすぎない。


「これ、最高の角よ……」

「……ヘッ、あの、いきがってた奴か。だがこれなら、優勝間違いなしだ!」


 遠のく意識の淵で、最後に聞こえたのは、勝者である冒険者たちの誇らしげな声だった。だが、私にはそれが「神々を讃える賛歌」のようにすら聞こえた。

「おお……なんと、神々しい輝きか……」

 私の意識は、純白の光の中へと溶けていく。

 同朋たちの鳴き声も、人間たちの叫び声も、もう聞こえない。

 ただ、森の風が私の魂を優しく撫で、空へと運んでいくのを感じる。

 私は最後に、誇り高く己に言い聞かせた。

 私は守護者として、最後まで戦い抜いた。

 我が角は折れず、我が志は今、月へと昇る。

 これこそが、真の「脱兎」。

 肉体という重いしがらみから解き放たれ、光の速さで現世から離脱する。

 魂が永遠の自由を手に入れる、究極の転進なのだ……。



 森の広場に立ち込めた熱波が、ゆっくりと引いていく。

 そこは焦げた土のにおいが漂う命を感じない不毛な広場だった。

 もう、言葉を持たぬ誇り高き守護者の姿も、その咆哮も、存在しないのだ……。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ