第2話 忘却の広場と赤き凶星
第2話 忘却の広場と赤き凶星
森の静寂が、ここではひときわ深い重みを伴って停滞している。
「忘却の広場」――。
そこは、幾世代にもわたり、我ら一族が土を穿ち、知恵を絞って作り上げた難攻不落の要塞だ。
地表には無数の穴が口を開け、それは地下で網の目のように繋がっている。
一見すれば無防備な広場だが、足を踏み入れた侵入者は、どこから角が飛び出してくるか予測することすら叶わない。
私は広場の中央に立ち、月神の加護を祈るように耳を天へと向けた。
「ピーーーッ!!」
私の呼び声に応え、茂みの陰から、あるいは地面の穴から、次々と同朋たちが姿を現す。
彼らは私の鳴き声を聞き、守護者の危機と、森の存亡をかけた決戦の時が来たことを、その野生の直感で悟ったのだ。
「皆、よく集まってくれた。今、不埒な人族が、我らの静寂を奪いに来ている」
私の喉から漏れる鋭い鳴き声に対し、ある同朋は鼻をヒクつかせ、ある同朋は前脚で耳を掻いた。
おお、なんという頼もしい仕草か。
その時、森の境界線に凶暴な人族たちが近づいていると風が伝える。
「はぁ、はぁ……。あいつ、どこまで逃げるんだよ!」
「見ろよ、カイル! 追い詰めたぞ。あそこに固まってやがる!」
金髪男と緑髪男が、肩で息をしながら広場へと足を踏み入れた。
奴らは口々に何かを喚いているが、私にはその言葉の意味などは微塵も理解できない。
ただ、耳障りで、不規則で、粘り気のある音の羅列だ。
「ハハッ、逃げ場はねえな! この数……、ヒャッホー! ボーナスだぜ!」
「リナ、ボサッとしてねえで、サッサとやっちまおうぜ。この角、高く売れるんだ!」
彼らが発する「音」には、我らを生命として尊重する響きは欠片もなかった。
奴らの顔には疲労の色が濃いが、それ以上に、我らを見つけた悦びに歪んだ笑みが浮かんでいる。
だが、私の視線は奴らの背後に釘付けになった。
新たなる影。それは、燃えるような赤い髪を持つ一人の女だった。
彼女は鉄の棒を持たず、代わりに細長い木の杖を携えている。
その瞳は冷徹で、不気味な静謐さを湛えていた。
「……フン、相変わらずバカね。たかが低級モンスター相手に、はしゃぎすぎよ。サッサと終わらせて、コンテストの準備しなさいよ」
赤髪女が発する音は、金髪男たちのそれよりも高いが冷たく、まるで冬の池の底に沈む石のような感触を伴っていた。
彼女から漂う気配は、金属の臭いよりもなお異質な、大気を歪ませる未知の波動だった。
「散れ! 『脱兎』の陣、発動だ!」
私の合図とともに、数十匹のホーンラビットたちが一斉に地面の穴へと吸い込まれていく。広場から、一瞬にして生命の気配が消えた。
残されたのは、不気味に口を開ける無数の穴と、中央に一人佇む私だけだ。
「あっ!? 消えたぞ!? クソッ、どこ行った!?」
「穴だわ……。フフッ、バカね。いいわ、まとめて焼いてあげる」
人間たちが何かを叫び、困惑したように杖や棒を振り回している。その滑稽な姿を、私は穴の縁から冷ややかに見据えていた。
そして戦いの火蓋は、私が切った。
私は中央の穴へと飛び込み、地下の通路を神速で駆け抜ける。
土の匂い、湿った空気、そして同朋たちの体温。これらすべてが私の感覚を研ぎ澄ませる。
「そこだ! クソッ、あっちからも出たぞ!」
「ギャッ! 足、引っかかれた! こんな……はずじゃ……!」
金髪男と緑髪男が混乱の渦に叩き落とされる。発せられる音は悲鳴に近いものへと変わっていく。
これぞ我ら一族の真髄。地上と地下を自在に行き来し、敵の意識を分散させる「神隠し」の戦術だ。
今だ。
私は最も大きな穴から、月神ナーディア様へと届かんばかりの勢いで飛び出す。
狙うは、戦いを見守る赤髪女だ。
「ムーンライト・ホーン・アターック・レゾナンス!!」
空中で姿勢を固定し、全身の魔力を角の一点に集中させる。
私の視界には、無機質な瞳をこちらに向ける赤髪女の顔が映し出されていた。
彼女が、木の杖を軽く地面に突く。
彼女の口から、これまでで最も長く、最も重苦しい音が紡がれる。
「――燃え尽きなさい。クリムゾン・ストーム」
その瞬間、世界の温度が変わった。
突如として、広場全体が眩い紅蓮の光に包まれた。
私の目に映ったのは、すべてを無に帰す破壊の輝き。この森が、この土が、そして私が、一瞬にして書き換えられていくような、圧倒的な暴力としての光だ。
空中にいた私は、その光に飲み込まれる。
熱い。だが、それは苦痛を越えた先にある、奇妙な多幸感を伴っていた。
光の中で、私は見た。慈愛に満ちた月の女神ナーディア様が、両手を広げて私を迎え入れてくれる姿を。
人族のことなど、もはやどうでもよかった。
あの忌々しい音の羅列も、鉄の棒が触れ合う不快な音も、今の私には遠い異世界の出来事にすぎない。
「これ、最高の角よ……」
「……ヘッ、あの、いきがってた奴か。だがこれなら、優勝間違いなしだ!」
遠のく意識の淵で、最後に聞こえたのは、勝者である冒険者たちの誇らしげな声だった。だが、私にはそれが「神々を讃える賛歌」のようにすら聞こえた。
「おお……なんと、神々しい輝きか……」
私の意識は、純白の光の中へと溶けていく。
同朋たちの鳴き声も、人間たちの叫び声も、もう聞こえない。
ただ、森の風が私の魂を優しく撫で、空へと運んでいくのを感じる。
私は最後に、誇り高く己に言い聞かせた。
私は守護者として、最後まで戦い抜いた。
我が角は折れず、我が志は今、月へと昇る。
これこそが、真の「脱兎」。
肉体という重いしがらみから解き放たれ、光の速さで現世から離脱する。
魂が永遠の自由を手に入れる、究極の転進なのだ……。
森の広場に立ち込めた熱波が、ゆっくりと引いていく。
そこは焦げた土のにおいが漂う命を感じない不毛な広場だった。
もう、言葉を持たぬ誇り高き守護者の姿も、その咆哮も、存在しないのだ……。




