序章3節.見送る命と救えた命
ソーリャの最期を看取った後、マークに埋葬を託された先生は彼女を抱えたまま町を歩いていた。
せめて眠るなら愛する人との思い出の近くで。そう考え、先生は二人が暮らしていた山麓へ向かっていた。
冷たくなった彼女の体は驚くほど軽い。それでも腕の芯へと沈む重みは、何よりも確かだった。
道行く中で瓦礫の隙間から漏れる「助けて……」という掠れ声、救いを求め伸びる煤汚れた腕、それら全てを無視して。
踏みしめる足音のみが、悲しみで埋まる町に乾いた音を響かせる。
――その時。
「…………なんだ?」
ふと先生は足を止めた。
転がっている死体の肉片がわずかに動いた気がしたのだ……。
見間違いかとも思ったが、立ち止まった今ならハッキリと分かる。
それは、ゆっくりと地面を這いずりながら動いていた。
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山の麓に辿り着いた頃には、新婚夫婦が暮らす家の面影は既にそこには無かった。
崩れ瓦礫の山となった建物。燃え広がった草木が倒れて新築の木造住宅に火の手を延ばし、今もなお轟々と火勢を増している。
その光景に動じることなく、先生はソーリャを静かに床へ降ろした。
火の粉に身を焦がし、灰を被り、その中で坦々と土を掘る為に。
「ソーリャさん、これで……本当にお別れなんですね」
ソーリャとの出会いから十年の月日が流れた。
彼女の不器用ながらも真摯に成長していく編集者としての姿、恋愛と結婚の差による葛藤、純白のドレスに身を包み幸せを噛み締めた涙、たくさんの思い出が今でも目に思い浮かぶ。
「おやすみなさい……」
一言、漏れるような言葉は炎の中に溶けていく。
抱き上げたソーリャをゆっくりと墓穴へ横たわらせると、先生の肩が少しだけ震えた。
――長い沈黙。
だがすぐに土を被せ、近くに咲いていた花を摘み供える。
遠き日を懐かしんで。
数刻後――。
埋葬を終えた先生は、往く当てもなく山麓部近辺を彷徨っていた。
絶望に瀕した町で家も友人も亡くし、生きる目的も失った。こんな自分に何が残されているのだろうか……自問自答しながら。
歩いても歩いても変わることの無い業火の如き森林火災。木々が死に絶えていく様を眺めることしか出来ない虚しさ。何が『大地と共生』だ。笑わせる。
己の無力さに辟易とし始めた頃、どこからか声が聞こえた。
――ぅああああん!
幼い子の泣く声。
ここまで来るのに幾人もの悲鳴、救いの手を無視して来たのだ。きっと亡者が自身に憑いて囁きでもしているのだろう、と。
――おかあさああああああん!
――おかあさん、どこにいるの!
――おかあさん!
しかし泣き声は驚くほど鮮明で、間違いなく生きている人の声だ。だが今更助けに行ったところで、友人一人救えない自分に一体何が出来る。
歩いてきた道を振り返る。そこには埋葬したはずのソーリャの姿が見えた気がした。
「……ソーリャさん」
まるでいつもの口ぶりで叱咤し、いつもの調子で背中を押すように。
『困ってる子は助けてあげなくちゃ!』そう笑顔で送り出すかのようだった――。
再び前を向いて歩き出した時、足の重さがわずかに軽くなっていた。
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どれほど気を失っていたのだろうか。
ルルディが目を開けた時、家はすでに炎に呑まれて黒い煙を噴き上げていた。
――これは夢?
頬に触れる煤がちりちりと熱い。
――夢じゃない……。
小さく咳き込んだ拍子に焦げた煙を吸い込んだ瞬間、現実が喉を締めつけた。
――胸が苦しい。おかあさん、どこ……。
ルルディはゆっくりと身体を起こすと、さっきまで隣にいたはずの母の姿を探して視線を彷徨わせた。
「お母さん……おかあさ―ん! どこにいるのー!」
ルルディの声に返ってくるのはパチパチという木々の燃焼する音だけ。
返るのは炎の弾ける音だけだった。
「おがあさん……ひっぐ、ぐすん……」
幼心が折れるには十分過ぎる時間だった。
ルルディの瞳から不安の気持ちが雫となって頬を伝う。
その雫の軌跡は徐々に幅を広げ、掠れた涙声に比例するように溢れてゆく。
「お母さん……どこ……どこにいるの」
ただ縋るように、母の姿だけを求めて。言葉を繰り返すことしか出来ない。
その裏で可燃していた家の柱の一部が支点を失い、ギギッと鈍い音を立てて傾いていく。
当然感情のダムが崩れたルルディは気付きもしない。
「お母さん、お母さん……おかぁ、さ……うぅ、っひぐ、ぐすん、お”か”あ”さ”あ”あ”ん”」
柱の傾きに角度が付き始めた時。
「無事か、踏ん張れよ!!」
ルルディを見つけ叫ぶ先生の声が聞こえた。
「……ふぇ、誰……げほっ、げほっ……」
反射的に身体が強張ったルルディだが、すぐにその声の主を探すように周囲を見渡す。
声の主はルルディが求め叫び続けた人物ではなかったが、必死の形相で自身の元へと駆け寄ってくる白髪の男性、先生の姿が映っていた。
ようやく孤独から解放されたことで、ルルディの身体からどっと力が抜ける。更に煙を吸い過ぎたせいで、視界もぼやけ脳も働かなくなり始めた。
倒れまいとよろめくルルディだったが、それも一瞬。
抵抗する間もなくフッと意識が遠のいていく。
「しっかりしろ、危ない」
弛緩した身体が強く優しい力に抱かれる感覚に包まれた。
ルルディが頽れる前になんとか間に合った先生は、胸を撫でおろす間もなくすぐにその場を後にする。
数秒後、ルルディが先程まで泣いていた場所は黒焦げになった柱が重い地鳴りをあげて倒れていた。
揺れる視界でルルディは抱える先生の裾を掴む。
――ダメ、お母さんを探さなきゃ……。
既に声も出せなくなった唇を震わせて訴える。
『お母さんを助けて』
先生はその唇の動きを静かに見守った。
何かを訴え掛けているのは伝わる。裾を掴む力も弱いがしっかりと意志を感じる。
おそらく家族の誰かがあの炭となった瓦礫の中にいるのだろう事は、言わずとも分かった。
それでも、優先すべき命は変わらない。
完全に意識を手放すまで『助けてくれ』と明示し続ける彼女を眺めながら。
「すまない……」
こんな自分でも救えた命が一つあった。その事実だけを噛み締めて――。




