序章1節.流星の昼
――とある山脈の麓に、小さな山小屋があった。
少女はその前の庭に立ち、空を見上げていた。
「お母さーん、流れ星がたくさん見えるよー。お昼なのにすごーい」
洗濯物を畳んでいた母は、振り返りもせずにいつもの調子で答える。
「昼間に流れ星なんて見えるわけないでしょう。それよりルル、暇ならお母さんのお手伝いして頂戴」
「でもぉ……ほんとだよぉ」
少女は首を傾げたまま空から目を離さなかった。
蒼い空を裂くように、白く、赤く、無数の閃光が宙を駆ける。
流れ星というにはあまりにも鮮明で、幼い眼にはとても近く観えた。
「へー……じゃあ、あれは何なんだろう……」
その疑問に答える者はいない。
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――山小屋から離れた町の一室。
「先生、今週の打ち合わせもありがとうございました。来週のスケジュールも共有した通りよろしくお願いしますね」
先生と呼ばれる白髪の男は、机越しに立つ女性を見上げゆっくりと頷いた。
「ええ、こちらこそ」
柔和な声とは裏腹に、先生の顔色は良いとは言えない。
一目見たら忘れない赤々とした印象的な瞳、病的とまではいかなくとも不自然なほど血色の抜けた肌は蒼白である。
「あ、そういえば今日で一年……でしたよね。ソーリャさん」
女性――ソーリャは『ん、結婚記念日のことですか?』と先生に聞き返す。
すると先生の口角がいたずらっぽく上がった。
「はい、懐かしいですよ。一年前に結婚しますって、目に涙一杯浮かべて言われた時はもう……こんなお転婆さんが結婚だなんて……誰が想像したことか」
「あーー、先生! そんな恥ずかしい過去ほじくり返さないで下さい! 私、これでもしっかり者なんですよ!」
「……知ってますよ。 だから、これは私からのささやかな贈り物です」
先生は机の中から一つ小包を取り出すと、そっとソーリャに手渡した。
不思議そうに外装を眺めると『なんですか、これ?』と小首を傾げて尋ねるソーリャ。
「結婚祝いですよ、思えばちゃんとしたのを送っていなかったと思いましてね」
「……先生。まさかとは思いますが、怪しいものじゃないですよね?」
半目で受け取る彼女を見て、先生は肩を竦めた。
「結婚祝いわざわざありがとうございます。でも絶対怪しいので、先生自ら中身を空けてくださいませんか?」
「え、私がですか? それは楽しみが半減してしまうんじゃ……」
「先生」
「――は、はい。開けます」
有無を言わさぬ圧で凄むソーリャ。観念した先生はバツの悪い顔で、そっと小包みの蓋を開ける。
中身は夫婦の夜を熱くさせるこれまた凄く効きそうな精力剤だった。
「はぁ……どうせこんなことだと思いましたよ。先生の脳内はお花畑なんですか? それとも変態印のきび団子なんですか?」
悪態を吐きながらも頬を染め、しっかりとカバンの中にソレを仕舞うソーリャ。
実はソーリャと夫が歩いている時、そろそろ子供が欲しいと考えているのを小耳に挟んだ先生。そこで夫婦の一助になればと思い、この結婚記念日のタイミングで一芝居打ったのだった。
「誤解ですよ、私とソーリャさんの長い付き合いじゃないですか。ようやくあの生娘が新妻になったんですよ? なら早くご子息が見たくなるのも当然じゃないですか?」
とんでもないセクハラ発言にソーリャはますます顔を赤らめていき、遂には手で顔を覆ってしまった。
「せ、先生……ももももういいです! いいですから!! わ分かりましたから! ……はい」
夜の営みが上手くいっていないのをソーリャも自覚していたからこそ、この凄く効きそうな精力剤を飲んだ時の夫の力強い雄の姿を想像してしまった。
そして未来で待っているであろう愛しい夫婦の結晶までも。
「私は先生なんて呼ばれてますが、身の回りの事はおろか小説を書くこと以外何もできない社会の外れ者です。そんな外れ者の私に、あなたは新人の頃から甲斐甲斐しく世話を焼いてくれましたからね。おかげで今のようにのんびり生活出来るようになって、心の底から感謝しているんですよ」
『だからこそ』と呟き、窓から空を眺める。
「私はあなたに幸せになって欲しいんです。仕事ではなく友人としてね」
落ち着きを取り戻したソーリャは、次第に自らに向けられた良心に晒され瞼を閉じる。
心の一番奥、心臓の鼓動。トクン、トクンと脈打つ温かい部分に意識を向け、熱を感じる。
今まで避けてきた分帰ったら愛する人に目一杯甘えようとか、しばらく大好きと言っていなかったな、恥ずかしいけど頑張って目を見て愛してると言おうとか……そんな青春らしい好意を見せていこう。
何気ない日常の何気ない会話、そんな些細なやりとりだが彼女の心には優しく浸透していく。
「先生……ありがとうございます。私も先生と出会って色んなことを経験して、こうして祝ってもらえて嬉しいです。は、恥ずかしいですけど……なるべく早く子供を見せられる様に……が、頑張ってみますね」
先生は人の話を聞き、その人の感情を反芻しながら文字に起こす。
結果的に相手の欲しい言葉になるまで推敲し文体化することで読者やその相手は救われる。
――そう考えていた。
ふと、窓ガラスがカタカタと響き始めた。
その音に先生とソーリャはほとんど反射で外を向く。すると、空が赤々と燃えていた。
「な、なにこれ……」
地獄のような光景にソーリャの好感情は急転直下する。
思考を許さず、逃げる間も無く、気付いた頃には天を覆う隕石の飛礫が大地を蹂躙していた。
足が竦んで動かない。それでも時間は待ってくれない。
「――逃げろソーリャ!!!」
何年も築いてきた思い出達は、割れる硝子と共に一瞬で灰塵と化す。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
山小屋の周辺にはもう、あの穏やかな日常は無かった。
焦土と化した草原、焼け崩れた木々、割れた大地、抉れた山肌。
チリチリと焦げ散る熱煙が漂い、少女の喉を刺す。
「お母さん……どこ……どこにいるの」
数刻前まで建っていた家は瓦礫の塊へと変わっていた。
そんな少女の幾度もの呼び掛けに、母の答えが返ってくることはない。
「お母さん、お母さん……おかぁ、さ……うぅ、っひぐ、ぐすん、お”か”あ”さ”あ”あ”ん”」
沈黙が齢10歳前後の少女に、既にこの世に母は生きていないと告げる。
その辛い現実を受け入れたくなくて何度も母を呼んでいたが、ついに心の防波堤は決壊した。
泣き声だけが焼けた空気を震わせる。迷子の童子のように。
「――か、――よ!!」
ふと遠くから声がする。思わず少女は辺りを見回した。
「……ふぇ、誰……げほっ、げほっ……」
咳き込むと同時に、息が上手く吸えない。やがて視界も滲み始め、霞んだ視界が揺れ動く。
倒れかけた少女の体を男性は迷わず抱き上げた。
焼けた空気から庇うように、胸元へと引き寄せる。
「――しろ、――ない」
喉の焼ける痛みと微かな意識の中で男性を見た。
白い髪、優しい声、包み込まれる温もりの中で少女の指が男性の裾を掴み訴える。
震える指先で、必死に――『お母さんを助けて』と。
声も出せなくなった唇が、言葉をなぞるように何度も――『お母さんを助けて』と。
――お母さん。
伝えたい言葉が、次々に熱と痛みに阻まれ空気の中に溶けていく。
大好きな母の笑顔を回顧し、最後まで想い続ける。
まるでそれが母への黙祷であるかのように。
――お母さん。
あの家で過ごした毎日、いたずらをしてよく怒られた日常。
そんな何気ない日々に想いを巡らせながら。
男性の腕の中で、少女の身体は静かに沈むのだった。




