その背を見てまた君は泣く
ガラガラガラ…
真夜中にそんな音が廊下から聞こえた。ここではそんな事ありふれていることなのに、自分でも分からないけど、私は横たえていた体をむくりと起こす。そしてベッドから降りて、カーテンをそっと開ける。
カーテンの先にはこの小児科病棟の担当の看護師さんである綯川さんが誰かが横たわっているベッドを押していた。そのベッドに横たわっていたのは完全に赤の他人、という感じの子ではなく、どこか見たことのある背の高いであろう男の子が苦しそうに酸素マスクを着けながら眠っていた。そして私に気付いたのか、綯川さんは咲祈ちゃん、とこっちを見ていった。
「どうしたの?寝られないの?」綯川さんはそう私に向かって言った。
「……うん、それもあるんだけど、ちょっとその子が気になっちゃって。」
「そうかもね、ごめん、こんな真夜中に。救急搬送されてきたものだから私たち慌てちゃって。」
「そういう事じゃなくって、……えっと。」
「ん?この子がどうしたの?」
「多分、同じクラスの子で、」
「あぁ、そういう事ね。……まぁ、とりあえず今日は寝なね。寝られなかったら睡眠導入剤処方してもらうから。あと、その子に明日の朝話してみて、咲祈ちゃん。」
綯川さんはそう私に話しかけながらもきちんと仕事をしている。すごいなぁ、なんて思いながら私は結局またごろりとベッドに寝っ転がった。……そして私は綯川さんに嘘をついたことを少し後悔した。
・ ・ ・
朝起きるとそこにはどこか見覚えのある同い年ぐらいの女の子がそばの椅子に座っていた。見舞いの客というわけでもなく、彼女のそばには彼女に繋がれた点滴棒が置かれていた。
「おはよう。…光。」
「…なんで僕の名前を、」
「………まぁ、そうだよね。私のことなんて知ってるはずないか。」
「…………………。」
「私は、咲祈って言うんだ。これからよろしくね。」
「………………よろしく。」
「あ、あとさ。私実はあなたのクラスメイトなんだよね。……まだ学校一回も行けてないけど。」
「あぁ〜っ!だからか。だから僕の名前を知っていたんだね。」
「……そうだよ。」
彼女はどこか嘘っぽいような感じでそっぽを向いてそう言った。するとドアをノックする音が聞こえて二人してドアの方を見るとそこには看護師さんが誰も乗っていない車椅子を押してきていた。
「あ、」 そういったのは咲祈だった。
「おはよう、光くん。私は綯川っていうの。ここの担当看護師だよ。よろしくね。」
そして僕が返事する間もなく綯川さんは咲祈ちゃん、と言った。
「わかってる。」
彼女はそうぶっきらぼうに綯川さんに言ってその車椅子に座った。
彼女の手には透明な雫型のガラスのネックレスが握られていた。
……なぜだろうか、僕はそれに目を奪われていた。
・ ・ ・
綯川さんに押されて私は透析室に向かっていた。
私の心はどうしようもなく暗く落ち込んでいた。
無理だ。
無理だよ。
なんで。
なんでよ。
嫌だ。
嫌だよ。
叫び、声が枯れそうな心が私の中にはあった。
………そしてまた私の地獄が始まった。
・ ・ ・
どこか見覚えがあった。
なぜだろうか。
僕は彼女に会った事がないはずなのに、僕はそんなことを考えながら目を閉じる。そしてまた僕の意識は消える。こんな状況が夢だと願うかのように僕は眠りについた。
ただ、起きてもそこは変わらず病棟の天井だった。
しかし、カーテンの向こうからは鼻をすする声が聞こえた。
……きっと咲祈だろう。でもなぜ咲祈が泣いているのかはわからなかった。
「ねぇ、」
「……なに、」
彼女は涙声でそう言った。
「どうしたの、」
「………………どうもしてないし。」
明らかにどうかしている声だった。
僕はシャッ、と彼女との仕切りのカーテンを開けた。
「なんで入ってくるのよ、」
彼女のその声ではなく僕は彼女の腕に目が奪われる。
そこには大量の医療用の絆創膏が貼られており、とても痛々しい腕になっていた。
「これ、」
「…………………………透析。」
「なんで、こんなになるまで、」
「採れないのよ。血管が。」
「……それでもっ、」
「これはひどすぎるって言うんでしょ?……でも、今の私にはこれしか治療法がない。」
「……嫌だって言わないの……?こんなに痛いのに。こんなに辛いのに。」
「言えないよ。当たり前じゃん。言えるわけ無いじゃん。」
「なんで、」
「……だってさ。私だけじゃなくて看護師さん達も頑張ってくれていて、臨床工学技士さん達も頑張ってくれていて、私が痛いってだけで諦めていいものじゃないじゃん。」
「でも、それは違うって、」
「違わない。そうするしかない。
あなたにわかるわけないじゃない。」
僕はそれに言い返せなかった。それからしばらくの間、この空間には針が浮遊していた。
「……………ごめん。君も同類なのに。」
彼女はそっぽを向いたままそう、ボソリと呟いた。
「いいよ、別に。話を詰めこんだ僕も僕だし。」
「…………っ、でもっ、」
「?」
「いや、やっぱなんでもないや。」
「そっか。」
「うん。」
彼女のその言葉は僕の耳には入ったが、脳にまでは届かなかった。僕は血を吐いて目の前が真っ暗になって平衡感覚が無くなった。
苦しい。
あぁ、人間ってこんなにもあっさり死ぬんだなぁ、と思った。
・ ・ ・
突然光が倒れた。血を吐いて。どこか笑ったような顔で。
私は点滴棒を連れてナースステーションにダッシュする。
綯川さんは走っちゃ駄目じゃない、なんて言わずに私の顔を見て応急処置セットを取ってPHSで先生を呼びながらダッシュして私達の病室に向かう。
私はその綯川さんの背中を見て何故か倒れた。
本当になんでかわからない。
ただ、薄れゆく意識の中で後ろから名前を呼ばれる声がした。
・ ・ ・
ここは何処だろうか。
僕は目を覚ましたのだろうか。
いや、そんな筈はない。
だって体が自分の意志では全く動かないから。
……でも、僕の視界は前へ、前へ、と動いてゆく。
僕は何処へ向かっているのだろうか。
おそらく、ここは夢の中か何かなんだろう。
僕はそう思った。
どれだけ走ったのだろうか。
それまでずっと視界に入っていたのは見渡す限りの草原だったのに。
突然視界に入ってきたのは一人の女の子だった。
その女の子は真っ白のワンピースを着て、草原の上に座り込んで青空を仰いでいた。
その子は僕よりも若くて、多分小学校低学年ぐらいだった。
どこかで見たことのある子だった。
僕はとっさに咲祈、と言った。自分でも驚いた。なぜ彼女の名前を言ったのか自分でも分からなかった。
その声にその子は振り向いてこっちを見た。その口は確かに光、と言っていた。彼女が僕の名前を言った途端、風が僕らを吹き上げた。
そして僕は思い出した。小さいころに此処に入院していた時のことを。
隣のベッドには同い年の女の子がいて。
いっつもその子と話をしていて。
その子の名前は《さき》で。
難病を抱えていて。
その子はいつも雫型のガラスのネックレスをしていて。
笑うとえくぼのできる可愛い女の子で。
僕が退院するときに「いつかまた、」と言い合った子だと。
その女の子が今隣のベッドにいる、咲祈だという事を。
僕は思い出したのだ。
だからか。
やっと変な風に感じていたことが理解できた。
初対面のはずなのに会話が突っ込んだことまで話していたのもそう。
僕があのネックレスに目が奪われたのもそう。
最初に彼女に会ったときどこか既視感を覚えたのもそう。
全部、全部。
彼女と知り合いだったという事をきれいさっぱり、忘れてしまっていたからじゃないか。
それが分かったらすべてに納得がいくじゃないか。
あぁ、何でこんなにも大事な事、忘れてしまっていたんだろう。
彼女と約束したのに。
忘れないって約束したのに。
何でだよ。
何で、何で……?
何で僕は彼女のことを忘れてしまったんだ?
・ ・ ・
ふと気づくと草原の上に座り込んでいた。
何故かは全く分からないけど、懐かしい感じがした。
あぁ、そうだ。
ここは病院の中庭だ。
私は立って周りを見渡そうとするが、全く足に力が入らない。
と言うより、体がここから動くことを拒否しているようだった。
心地よい風が私の長い黒い髪の毛をかすめて吹き抜けてゆく。
私の白いワンピースははたはたとはためいている。
私は青くて透明な空に吸い込まれそうになっていた。
「咲祈っ、」
突然後ろから名前を呼ばれた。
私が振り返るとそこには幼い日の光が立っていた。
「こう…?」
私がそう言うと、風が思いっきり私たちを舞い上げていった。
・ ・ ・
目が覚めるとそこは病棟のベッドの上だった。隣にはきっと彼女が居るのだろう、心電図の音が隣から聞こえてきた。
気が付くと僕は涙を流していた。
何故涙を流したのかは全く分からないが、体が流すべきだと言っている。だから僕は無理に涙を止めず、そのまま泣いていた。
・ ・ ・
目が覚めるとそこは何年も見てきた景色で、隣からは酸素マスクの作動する音と、彼の鼻のすする音が聞こえてきた。
私は初恋の相手である彼が生きていることに安心して、いつの間にやら泣いてしまっていたようだった。
〈七年後〉
僕がこの病院を退院してから六年がたった。彼女は今どこにいるのか全く分からないが、ただ、生きていてほしいとだけ思っている。
僕はあの後、医療系の学校に進学し、あの病院に就職した。ほかにも就職先なんていくらでもあったけれど、僕は気が付くとここに就職していた。多分、ここに来れば彼女に会えるかもしれない、と淡い希望を抱いてしまっていたからであろう。
彼女によく似た背丈の人を見つけると危うく咲祈、と言ってしまいそうになるが、ちゃんと顔を確認すると彼女ではないとわかって落胆している自分がいる。
今日も昔みたいに休憩時間に中庭を歩く。
ふと気づくと目の前には、真っ白のワンピースを着て、透明な雫型のガラスのネックレスをした女の人が背を向けて立っていた。
僕はおもわず目をこすった。それでもそこに変わらず存在し続ける彼女の背中があって、僕は思わず泣いた。
そして僕が彼女の名前を呼ぶと彼女は振り返り、嬉しそうな顔で泣いていた。