7 レモンが香るボンゴレビアンコ
「しあわせ〜……!」
ラケルの手料理をおいしいおいしいとあっという間に完食し、お腹いっぱいになったノアは至福の表情でテーブルに突っ伏す。ラケルは微苦笑を浮かべて片付けを始めた。
「夜になったらシメオン王子が連絡をくれることになってる。向こうの様子はその時に教えてもらえるだろ」
「わかった。みんな大丈夫だといいんだけど」
心配ではあるが、異国にいるノアにできることは何もない。無事を祈ることぐらいが精々だ。
「お皿洗うの、ノアも手伝おっか」
「大丈夫。ノアさんはゆっくりしててくれ」
ラケルはそのままノアに背を向けて皿洗いを始める。水量を抑えているので、会話に支障はなかった。
「ノアさんはエリガンテに降りた聖女だから、エンドゥリターで顔は知られてねぇ。両国には罪人の引き渡しに関する条約もなかったはずだから、エンドゥリターにいる限りは安全だ」
「じゃあ、ノア、ずっとラケルくんのおうちにいていいってこと!?」
「俺の家ぇ!? ノ、ノアさんが嫌じゃないなら……」
「ヤじゃないよ! これからもお世話になりますっ」
無邪気に喜ぶノアからは見えなかったが、ラケルは嬉しさと複雑さの入り混じった表情をしていた。
信頼されている喜びと、憧れの女の子を前に試される自制心、それから男として見られていない不安の狭間に立たされた青年は、「二年間ずっと一緒に旅してきたし……同じ空も屋根も変わんねぇ……」と小さな声でぶつぶつ呟く。ハチミツを垂らしたホットミルクを楽しむノアに、その声は届かなかった。
「ラケルくんのおうち、ごはん屋さんなんだよね」
「今は閉業してるけどな。二階が家で、一階が店なんだ。俺が旅に出てる間は誰もいなかったから、もう一回店を開けるためにもまずは掃除を終わらせねぇと」
「わかった。お掃除はノアも手伝うからね!」
「ありがとな。……店を開く準備だけじゃなくて、ノアさんが住む用意もしねぇと」
今ノアが着ているのはラケルの服だ。身の回りの品から生活用品まで、色々と入り用になるだろう。ただ、問題が一つあった。
「どっ、どうしよラケルくん! ノア、お金持ってない!」
処刑の直前に着の身着のままで転移したから、荷物らしい荷物なんて何もなかった。持ってきたのは着ていた薄汚れた囚人服だけだが、そもそもノアの私物ではない。
「あー、気にすんなって。貯金あるし」
「むむ……。あっ、そうだ! げんぶつしきゅー! ノア、ラケルくんのお店で働くから、そのお給料の……まえがり? ってことで、色々ちょーだい!」
お金がない時に、母が給料の前借りがどうのと言っていたのを思い出した。それでなんとかならないだろうか。
「ノアさんが働きてぇって言うなら、止めねぇけどよ。人手があるほうが俺も助かるし」
ラケルは皿洗いの手を止め、思案げに天井を見上げた。
「下の店、元々酒場だったんだけど……ノアさんが店に出るなら、酒場はやめたほうがいいよなぁ……」
「ごはん屋さんじゃなかったの?」
「定食屋並みにメシに力入れてたんだよ。下戸でも気軽に来れるようにって。俺の店は誰でも楽しく喋りながら飲み食いできる場所なんだ、ってのが親父の口ぐせでさ」
「楽しくおしゃべり……カフェみたいな感じ?」
「かふぇ?」
「うん。ノアが元いた世界だとね、居酒屋は大人がいないとだめだったけど、カフェならノアみたいな子供でもふつーに入れるんだよ。いろんな飲み物があって、お店によってはお菓子とごはんもたくさんあるんだ」
「ノアさんの故郷には、そういう店があるのか」
「うん。放課後にみんなでフラペチーノとか頼んでだらだらするの。ノアはお金なかったから、そんなにたくさん行けなかったけど」
食費と称して祖母が置いていくまとまったお金が、ノアの正規のお小遣いだ。
ノアがお金をたくさん持っている時は、決して褒められた手段で稼いだわけではい。その臨時収入は、服やらコスメやら美容院やらに消え、友人とのカラオケやらショッピングやらで溶けていった。
高校生になったら普通のまともなバイトするつもりでいたけれど、その前に異世界に来た。だからラケルの店で働きたいと思うのは、普通の高校生活のやり直しのようなものだ。もうあの世界に戻る気はないからこそ、できなかったことをしてみたかった。
「ふらぺちぃの……は、よくわかんねぇけど、なら、そのカフェってやつをやるか」
「いいの!?」
「家がカフェなら、好きなときに中でメシ食えるからな。それまで行けなかった分、俺の店に来いよ」
俺はお菓子も作れるしな、とラケルは笑う。ノアは飛び上がって喜んだ。
「じゃあじゃあ、すっごく可愛いお店にしよ! ノア、ウェイトレスする! 制服も可愛いのがいいな」
「お、おう?」
「ラケルくんの作ったごはんはすっごくおいしいから、すぐ人気のお店になるよ。楽しみー!」
ラケルもまんざらではなさそうだ。照れくさそうにノアから目をそらす。
お皿も拭き終わったので、ノアは店の掃除をしに一階に向かった。ラケルが物置から掃除用具を出してくれる。かつてはたくさんテーブルが並んで多くの客で埋まっていただろう広い空間は、今は何もないからっぽの広間だった。
「よしっ、がんばるぞ!」
ノアはほうきで床を掃く。店舗の厨房はラケルの担当だ。
一生懸命手を動かすと無心になれる。本当はもっと色々なことを考えないといけないのだろうけど、今は目の前のことだけに集中できた。
ラケルが雑巾をかけている間にノアはカウンターをピカピカに拭く。このカウンターの向こうに立ったラケルがお茶を淹れて、そのお茶をノアがお客さんのところに持っていく……想像しただけでわくわくした。
「ありがとな、ノアさん。おかげでかなり綺麗になったぜ。そろそろ終わりにするか」
「はぁーい」
掃除も一段落し、ノアは大きく伸びをする。備え付けのカウンター以外何もないからこそ、室内のぴかぴかぶりがよくわかった。
「暗くなる前に買い物に行こうぜ。ノアさんの服とか、色々買わねぇとな」
「うん! 行こ行こ、ラケルくん!」
ノアはラケルの腕に抱きついた。ラケルは赤くなってそっぽを向く。
ちょっとだぼっとした男物のシャツとパンツは、それはそれでおしゃれだ。可愛いノアが着ていればなんでもさまになる。とはいえ、ちゃんとサイズの合った女物がほしい。下着だって必要だ。
薄手のカーディガンとサンダルを借り、ラケルの家を出る。ラケルの家は賑やかな街角に建っていた。
エリガンテとはどことなく雰囲気が違う。かすかに潮の香りがした。海が近いのだろうか。エリガンテは内陸の国だったから、それで違うように感じるのかもしれない。
「ここはエンドゥリターでも一番交易が盛んな街だから、大抵のものは手に入ると思うぜ」
「お買い物楽しみー」
ラケルの言った通り、街は活気に満ちている。最初に向かったのは仕立て屋だ。
この世界で服を買うには、生地を選んで採寸してもらってから仕立ててもらうか、古着屋で古着を買うのが一般的らしい。仕立て屋にも庶民向けとお金持ち向けがあって、ノア達が入ったのは庶民向けの普通のお店だ。
「お店の制服も仕立ててもらお。メイドさんとか可愛くない? ラケルくんもお揃いにしよ!」
「ノアさんのメイド!? ノ、ノアさんが着たいなら好きにすればいいけど、俺はメイド服は着ねぇぞ!?」
色とデザインを揃えることでなんとか合意を取る。ノアがメイド風でラケルが執事風だ。服を仕立てるのは時間がかかるそうなので、後は新しい肌着だけ揃えて、他の服は古着屋で見繕うことにした。お下がりに抵抗のないノアは、レトロ可愛いワンピースやスカートをたくさん手に入れてご満悦だ。
「夕飯は何が食べたい?」
「んー……海の食べ物?」
潮の香りに刺激されただけの曖昧なリクエストにもラケルは応えてくれた。食料品の買い物を済ませて家に戻ってきたラケルが作ってくれたのは、肉厚なあさりがたっぷり使われたパスタだ。鼻腔をくすぐる爽やかなレモンの匂いが食欲をそそる。
「おいしそー! パスタはカフェに絶対必要だと思うの。日替わりパスタとかどぉ? ラケルくんのごはんはなんでもおいしいから、全部看板メニューにしたい!」
「お褒めにあずかり光栄ですよ、っと」
ノアはフォークだけでは上手にパスタを巻けないので、スプーンも使って一生懸命口に運ぶ。美味しい美味しいと言いながら子リスのように手料理を頬張るノアを、ラケルは愛おしげに見つめていた。
※フラペチーノはス◯バの登録商標なので、本作品のカフェメニューには登場しません




