5 かちこちパン
ノアはすぐに牢屋に入れられた。狭くて薄暗くて、じめじめしたところだ。窓すらもない。
ここはノアの家に少し似ている。母はカーテンを開けるのを嫌がっていた。窓の外を見られるのは、母のいない時だけだった。
「ねぇー、おなかすいたよぉ」
退屈で死にそうなので、鉄格子の向こうにいる見張りの男に声をかける。聞こえないふりをされた。しばらく前に騒いだ時は鉄格子を蹴飛ばされたので、再度の催促はやめておいた。
どうやらノアはごはんをもらえないらしい。おなかが大きな音を鳴らした。
キホンテキジンケンノソンチョー、と公民の時間に習った気がするが、ほとんど寝ていたのでうろ覚えだ。そもそもここはノアの生まれた国ではないから、そういう考えもないのかもしれない。
時計なんてもちろんないから、閉じ込められてどれだけ経ったのかもわからない。ここにあるのは、粗末なベッドと空の木桶だけだ。たまにネズミやゴキブリが部屋の隅をちょこまかと通り過ぎていく。
喉が渇いた。そういえば、人は三日水を飲まないと死んでしまうと、クラスで一番頭のいい笹野君が言っていたはずだ。
あれは嘘だと思いたい。このまま水も食べ物ももらえず死んでしまうなんて、信じたくなかった。水がない場所で水を飲む方法については、頭の中の笹野君は何も教えてくれなかった。現実の笹野君なら知っていたかもしれない。
(起きててもおなかが減るだけだし、寝ちゃおうかな)
とても眠れるような気分ではなかったが、エネルギーの温存は大事だ。起きているからおなかが減る。寝ていればきっと空腹は感じない。
ベッドに横たわった。けれど視線を感じて目を開ける。見張りの男が、ねっとりとした目でノアを見ていた。
「んー。ごはんくれるなら、いいよ。あとお水。ちゃんとした、おいしいやつじゃないとやだからね。でも本番はなし」
誘うのは、この世界に来てから初めてだ。そんなことをしなくても、この世界の人達はノアに優しかったから。……今はそうとも言えないが。
本当はお金を要求するところだが、こんなところでお金をもらったって仕方ない。
男は少し考えるそぶりを見せ、結局鉄格子のドアを開けて中に入ってきた。
大柄な男だ。あまり鍛えていないように見えるが、華奢なノアでは到底太刀打ちできないだろう。おなかがすいているのだからなおさらだ。
ノアを淫乱だなんだと嗤いながら、男は好色そうな目で舌なめずりをしてズボンのベルトに手をかけた。
「何をしている!」
「で……殿下!?」
ノアの服に手を伸ばそうとした瞬間、男は慌てて飛びのいた。咎める声は、ノアも知っている少年のものだ。
慌てて履き直してもまだ半脱ぎ状態のズボンのまま、男は無様に敬礼する。そんな彼には一瞥もくれず、シメオンは側にいた従者達に「看守は女性だけにしろ」と告げてドアを開けた。
もしかしたら外に出してくれるのかもしれない、と期待したが、つまみ出されたのは男だけだ。だが、食事を持ってきてくれたのでよしとした。
「……ノア様」
「なぁに?」
シメオンは視線を従者のほうに一瞬だけ向ける。シメオンが差し入れてくれたパンとスープに夢中なノアは、その目を追うことはしなかった。このパンはやたらと固くて、噛みちぎるのが大変だ。
「み、みじめだな。当然の……当然の報いだ。この、聖女のにしぇっ……偽物め!」
シメオンは人を罵倒することになれていないのだろう。顔を真っ赤にして震えているし、つっかえつっかえだ。迫力なんて全然ない。
「少しは反省していると思って様子を見に来たが、時間の無駄だったな。だが、彼女に獄中死などされれば困る。彼女への罰は処刑という形でなければ。彼女のことは、他の囚人と同様に扱うのだぞ。虐待や尊厳蹂躙などもってのほかだからな!」
早口でそう命じて、シメオンは立ち去ろうとする。ノアは急いで口の中に残っていたパンのひとかけを飲み込んだ。
「シメオンさま!」
とっさに呼び止めると、シメオンはびくりとして振り返った。叱られるのを待っている子供のような顔をしていた。
「シメオンさまが捕まってなくて、よかった」
少し心配だったのだ。ノアはちゃんとシメオンとエリヤを守れたのか。ノアをかばっていたせいで、シメオンまで嫌な思いをしていないか。
けれどこうしてノアの様子を見に来られるということは、彼は自由なのだろう。それならノアが捕まったのは、無意味ではなかった。
「……貴方は……」
シメオンはこぶしを握りしめた。何か言いたそうに視線をさまよわせている。
「あ……貴方が、罰によって罪から解放されますように。……すぐに、楽にしてやるからな」
「そっか。ありがと、シメオンさま。じゃあね。エリヤ姉のこと、幸せにしてあげなきゃだめだよ。あっ、シメオンさまが幸せにしてもらうのかな?」
ノアは笑った。そんな泣きそうな顔で言われたって、怖くもなんともなかったからだ。
それよりも、会うのはこれで最期になるであろう大切な友達には、笑ってさよならを言いたかった。
*
シメオンのはからいで届けられるようになったごはんを、三回食べ終わった後のことだった。鎖につながれたノアは、ついに牢屋の外に出してもらえた。
連れて行かれたのは広い部屋だった。床の上に、人が立てるぐらいの魔法陣がある。この世界の魔法は、地面や空中にああいうのを描いて呪文を唱えると発動するのだと、ずっと前にエリヤが教えてくれていた。
魔力というものを魔法陣に流し、陣を通して魔法を具現化するとかなんとか。説明されてもよくわからなかった。
意地悪そうに嗤う騎士や魔導師に交じり、王太子とエリヤがいた。シメオンはいなかった。
エリヤはノアをじっと見ていた。ノアがにこりと笑うと、エリヤは一瞬だけ悲しそうに、つらそうに眉根を寄せた。
ノアの手枷から伸びる鎖が引っ張られる。ノアをここまで連れてきた騎士が強く引いたからだ。よろけそうになりながら、もたもたと歩いた。魔法陣の上に立たせられる。
「では、これより罪人の処刑を行う。執行官、前へ!」
エリヤをはじめとした数人の魔導師が動いた。ノアを囲むように、魔法陣の外に立つ。
『我が願う、断罪の刃』
魔導師達の声が重なる。その瞬間、魔法陣がうねうねと動き出した。ぎゅるんぎゅるん、ものすごい勢いで魔法陣が書き換えられていく。
エリヤが魔法を使うとき、こんなことが起きたことはなかった。それともこの魔法陣は特別で、そういう仕様なのだろうか。
(でも……一回だけ、似たようなのを見たかも…?)
それは、旅の途中で強い魔導師と戦った時。彼は邪神を崇拝する教団の教祖だった。彼はとても危険な魔法でノア達を攻撃し、アジトがあった街ごと破壊しようとした。
その攻撃からノア達を守ったのがエリヤだ。魔法陣に直接干渉して、魔法をなかったことにしたり別の魔法に変えたりしてしまう、ほんの一握りの天才魔導師しかできない荒業をもって、エリヤは窮地を救ってくれた。
「なっ……!? 魔法陣が書き換えられていくぞ!?」
「これは転移魔法……もしやエリヤ、貴様の仕業か!?」
魔導師達のざわめきを無視し、エリヤは表情を険しくする。
「我が願う、天地駆る翼。自由とともに旅立つ者に祝福を」
彼女の凛とした涼やかな目は、まるで世界のすべてを睨みつけているかのようで。
「私達の可愛いノアちゃんに、これ以上の無体は許さない」
その瞬間、魔法陣がぴかりと輝いた。
「エリヤ姉!?」
「いいから逃げて! あとのことは──」
エリヤに向かって伸ばしたノアの手は、魔法陣が放つ光の壁に阻まれた。




