1 ぺこぺこのお腹
* * *
「国と民を欺いた偽りの聖女には、裁きを与えなければいけない」
王太子が嗤った。その背後では、二十代半ばぐらいの女性が困ったように佇んでいる。
彼女はたぶん、ノアと一緒にこの世界に来た人だ。来て早々どこかに消えてしまった女の人がいると、人づてに聞かされていた。けれど王太子は、彼女こそが本物の聖女だと言っている。
「であれば、それにふさわしい刑罰を提言いたします。処刑陣を用いるのです。さすればこの大嘘つきの小娘の穢れた血と肉は大地に還り、二度と蘇ることはありません」
媚びるような声音で言ったのは、ノアとずっと旅をしてきた魔導師のエリヤだった。処刑という言葉に驚いたのか、聖女は真っ青な顔で小さく悲鳴を上げる。
同じく旅の仲間である第二王子シメオンは、信じられないという目でエリヤを凝視している。最初にノアを裏切った、騎士バラクまでもが意外そうな顔をしていた。
「仲間を売ってまで助かりたいか? だが、賢い判断だ。ならばエリヤ、執行にはお前も加われ。それをもって己の潔白と忠義を示すといい」
「御意のままに、王太子殿下」
「何故だ、エリヤ! そのような恐ろしいことを、何故貴方が……!」
「シメオン王子殿下、これは誰かがしないといけないことなのです。我々はその小娘を聖女と違えてしまった。その罪を贖わないと」
屈強な兵士達に取り押さえられて跪かされているノアの頭上で、人々が言い合いをしている。わけがわからなかった。どうしてこんなことになっているのだろう。
言われたとおりにしたはずだった。聖女と呼ばれたから、望まれるままに振る舞っただけだ。旅の仲間達ともうまくやっていたつもりだった。
彼らと国中を回って病深を清め、二年の歳月をかけてついにその元を断った。だから王宮に戻ってきた。それなのに、褒められるどころか怒られるだなんて。
(ノアは……何か、間違えちゃったのかな……)
考えてもわからない。だってノアはバカだから。
お前は何もできないんだからせめて愛想だけはよくしなさいと、祖母は口を酸っぱくして言っていた。
どんなバカでも可愛く笑っていればなんでもうまくいくと、母はよくノアの頬を引っ張っていた。
だからノアは笑ってみた。事態が好転しますようにと、一縷の望みをかけて。
本物の聖女だという女性は、恐怖と後悔、それから悲しさが入り混じったような目でノアを見ていた。
* * *
(そろそろ帰ろうかな。あかねちゃん達ももう寝ちゃっただろうし)
深夜の誰もいないオフィス街は、ノアのお気に入りの場所だ。
繁華街だと補導される危険があるし、住宅街を歩いていると胸がぎゅっと締めつけられた。
長い時間どこかの店にいられるほどのお金もないし、友達の家に行くとその親に変な目で見られてしまう。まだ小学生だった時、仲良しの子の家に入り浸っていたら、その子の母親にもう来ないでほしいと言われたことがあったのだ。
その話が伝わったのか、母にもひどく怒られた。「もっとうまくたかりなさいよ」と。だから、家にいるなと母から言われた日の夜は、昔からずっとオフィス街にいることにしていた。
今日も、中学校から帰ったら玄関先で追い出されたのでそのまま街をさまよっている。黒いセーラー服は、夜の闇によく馴染んだ。点々と明かりのついたビルの群れに見下ろされながらふらふらと歩く。
今日はどんな人が家にいるのだろう。母がノアを締め出すのは、ノアが母をひどく怒らせた時か、母のトモダチが家にいる時だ。
怒っている母とはかかわりたくないし、母のトモダチには嫌な奴らもいる。だから一人になれる夜の散歩は苦ではなかったが、あまり遅いと明日に響く。また授業中に眠ってしまえば、教師に怒られるだろう。
鞄を探り、型遅れのスマートフォンを取り出す。母のトモダチのさらに上、カレシの一人が保証人になってくれたものだ。
母も、ノアが“普通”の子と違うように思われるのは嫌がったので、所持には賛成してくれた。母の言っていることはコロコロ変わってしまうけれど、「祈愛ちゃんはキラキラの可愛いお姫様でないと嫌!」と主張していることが多い。だからノアは、身だしなみだけはちゃんとしていた。
ノアを妹とか親戚の子とかではなくきちんと娘と紹介していたら、その人は母にとってのカレシだ。
だからその人の前では、ノアは母のことをいつもの「あかねちゃん」ではなく「ママ」と呼ばなければいけない。面倒だが、間違えるとカレシに変な顔をされてしまうから仕方ないのだ。
スマートフォンをくれたのは、母が連れてくる男性の中では一番優しい人だった。
だからこっそりパパと呼ぶ練習もしていたけど、最近はめっきり姿を見なくなった。この薄っぺらい機械はまだ問題なく使えているから、母との縁は切れていないと思いたいのだが。
トモダチやカレシにはノアのことを殴ったり、べたべた触ってきたりする人もいるので、そうでない人に父になってもらいたかった。前者はともかく、後者は母に知られるとひどく怒られるから嫌なのだ。
スマートフォンで時間を確認する。午前二時。歩いていて気づかなかったが、SNSの通知が何件か来ていた。
たわいのない雑談ばかりだ。みんな、ノアは当たり前に家にいて、返事がないのはテレビを観ていたりお風呂に入っていたり、あるいはとっくに眠ってしまったりしているのだと思っているようだ。
別に家庭事情なんて言う必要はないと思っていたから、ノアがしょっちゅう一人で夜の街を散策してることなんて、誰も知らない。気にしていない。それでいい。
とりとめのない日常の出来事で溢れるきらきらしたタイムラインをスワイプして確認し、スマートフォンをしまう。
自分の家が何やらフクザツらしいとわかってから、ますますノアは誰にも何も言わなくなった。ノアは今の生活に不自由などしていないし……重くて面倒だと思われたら、“普通”でいられない。
そろそろ母も寝たころだろう。家に向かって歩き出す。入浴と食事、そして睡眠。その三つの行為がすべて叶う場所、それがノアにとっての帰る場所だ。
「……?」
不意に足が止まった。ひゅぅ、と風を斬るような音が頭上で聞こえ、反射的に上を見上げた。
多分、実際の時間はほんの一秒にも満たなかったのだろう。何かが上から落ちてくることを知覚する前に、ノアの意識は足元から放たれたまばゆい光の中に包まれた。
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