24話目 二人、綻びを綴る
残された久保と東雲、そして猫宮。どこを見渡しても霧子の姿どころか、見藤の姿も見当たらない。
その場に不釣り合いな霧の出る朝のような清々しい空気だけが漂い、それは異質な状況であることを示している。
――それはさながら、神隠しのようだ。
見藤が忽然と消える直前、猫宮は霧子の異変を感じ取ったのか。今なお全身の毛を逆立たせ、その尾はこれでもかと膨らんでいる。猫が警戒を示す仕草だ。
「な、なんだあれは……」
静寂が事務所を包み込む中、ようやく猫宮が声を発した。皆、何が起きたのか理解が追いついていない。
つい先程まで霧子は久保と東雲、そして、電話をしている見藤の後方で佇んでいたはずだった。霧子戸惑う声が聞こえたと思った途端、二人の間を縫うように彼女は見藤へ腕を伸ばしていた。
霧子の手が見藤に触れたかと思うと、共にその姿を消していたのだ。目で追って視た霧子の姿は、皆がよく知る彼女の様相とはまるで違っていた。
一瞬のうちの後ろ姿しか目にしていないが、背丈や髪の長さが明らかに異なる。それだけは分かった。
情況整理をしようにも、何も手掛かりがない。東雲が力なく呟く。
「どこに行ってしもうたの……」
その声に呆然と佇んでいた久保は、はっとして彼女の手に握られているスマートフォンを見る。
見藤は姿を消す直前まで電話をしていた。それならば、スマートフォンも握ったままなのではないか、そう考える。すかさず久保は自分のものを取り出し、急いで見藤へ電話を掛けるが――。
「……圏外」
無情にも、圏外もしくは電源が入っていないことを知らせる音声が流れるだけだった。
――久保が願った日常は奇しくも、ものの数分で終わりを迎えたのだった。
* * *
見藤は視界が暗転したのを認識したのとほぼ同時。体の浮遊感、次の瞬間には背中へ強烈な衝撃を受ける。
幸いなことに意識ははっきりしており、呼吸も問題なくできている。平衡感覚は機能しており、床だろうか、平坦な場所に体を打ち付けられたのだと即座に理解できた。
見藤は恐る恐る手を床の先へ這わせ、地続きであることを確認する。肘を付きながら上半身を起こした。手に触れる感覚は木の床だ。そうして、片膝をつきながらしゃがんだ姿勢をとると、少しだけ視界が広がる。
そこは辺り一面、濃霧。右も左も分からない。目の前を手で梳けば、流れる空気が霧の流れを教えてくれる。
見藤はゆっくり立ち上がると、一呼吸おいた。
(……落ち着け)
そう自分に言い聞かせる。心が逸れば、行き着く先は奈落。この場所はそう思わせるような空気だ。
そこでふと、先程まで斑鳩と電話をしていた事を思い出す。しかし、見藤の手に握っていたはずのスマートフォンはない。どうやら体を床に打ち付けた衝撃で手放してしまったようだ。ないものを嘆いても仕方がない、見藤は首を振ると前を見据えた。
ここがどこであるのか、おおよその想像はつく。
「霧子さんの社……」
見藤が呟くと、目の前の霧が渦を巻いたように見えた。
人の身でありながら、祀られている怪異の社へ赴くなど土台無理な話である。しかし、人が神隠しと呼ぶように、神域に誘われ現世から姿を消した者や、怪異自らがその領域に人を招き入れたとなれば話は別だろう。今の見藤が置かれている状況はまさに神隠しにあったその者だ。
立ち上がった見藤は、自身が置かれている状況を理解する。考えるような仕草をするが、こうしていては駄目だ、と歩き始めた。
ぎしぎしと、木材が張られた床が軋む音がする。幸い、床はどこまでも続いているようだ。一歩、一歩、確かめるように直線に歩いて行く。
見藤は歩きながら思考を巡らせる――。
視界が暗転するまでの一瞬、見藤が目にした霧子の姿。その姿は皆が知る、彼女の姿とは少し違っていた。
恐らく、霧子は自身の異変を感じて咄嗟に姿を隠そうと、こうして社へ戻ったのだろう。ところが、どういう訳か見藤も一緒に連れて来てしまった、と考えるのが妥当か。その理由は分からない。
二十数年、霧子と共に時間を過ごした。だが、見藤が人から祀られている怪異の社の中。それも神域とされるような場所へ足を踏み入れることなど、一度もなかった。それが意味するのは、この状況は異常事態だということ。
(霧子さんの身に、何が起こっているのか――。確かめないと)
斑鳩からの電話の内容など、とうに頭から消え去っていた。
「……くそ」
思わず悪態をついた。
歩いても、歩いても、濃霧は晴れることなく周囲を覆い隠し、見藤を拒絶しているかのようにも思える。しかし、この場に連れてきたのは霧子だ。それはまるで霧子の意思と、それに相反するものが働いているかのようだ。
見藤は歩みを止めることはない。あの瞬間は霧子の姿に視線を取られた。だが、冷静に思い返せば、見藤の腕を掴む瞬間。彼女は戸惑いと、見藤に懇望するような表情をしていた――。
「俺がもっと――」
言葉を交わしていれば、そう思わずにはいられない。
ことの発端は、覚の子――。いや、既に成体だと霧子は言っていた。人の心を読む妖怪、覚である沙織が見藤の元を訪ねて来たことだった。
霧子は見藤に自分以外の怪異や妖怪の痕跡、その傍に近寄ることを酷く嫌う。それは最早、霧子という怪異が持つ性分なのだろう。
人の世で生きていくことを選んだ沙織を、子どもであり庇護するべきだと主張した見藤と、妖怪として成体である、人で言えば大人であると主張し拒絶する霧子。
人と怪異、異なる尺度で物事を捉えた末に起こった、仲違いだった。
それから、見藤は沙織が事務所に出入りできるよう、霧子を説得したつもりだった。しかし、見藤の主張と、霧子の思いが全く別の方向を向いていたことに、終に気付くことはなかった。
そうして起こった、駅構内での暴漢事件。見藤の身を心配し、怪異としての姿で無事を確かめに出てきた霧子。それは一瞬ではあったものの、霧子の想いを示すには十分だった。
そこでふと、見藤は思考を止めた。
(そうだ、あの時……。一瞬ではあったが、霧子さんは怪異として人の集団の前で姿を現した――)
大多数の人間は怪異をその目で視ることは叶わないだろう。しかし、それがメディア媒体として記録され、霧子の怪異としての姿が広まっていたのだとしたら――。あの時、懸念していたことが現実となったのだとすれば――。
見藤は現代における情報の跳躍的性質を理解していなかった。彼の与り知らぬ場所で、霧子という怪異の存在は姿、人格でさえも集団認知に書き換えられようとしていたのだ。
事実に辿り着いたとき、見藤は己の無知と有象無象の俗衆に憤激した。
「くそっ……! 集団認知が集約された結果かっ……」
怪異は認知によって、存在を左右される。それは人々から奉られ社を得ていたとしても、見藤が例の眼の力を譲渡し彼女と契りを結んでいたとしても、及ばない。
――まるで集団認知には敵わないのだと、見藤を嘲笑っているかのようだ。
そして、それは望まぬ力を怪異に与えることを見藤は知っている。まだ少年だったあの頃、霧子から聞かれた彼女の哀しい過去だ。
それが再び、起ころうとしているのであれば――。今でも鮮明に覚えている、過去を話す彼女の悲しげな表情、静かに流す涙。
(……霧子さんに、そんな思いをさせたくない)
斑鳩から言われた言葉に「その傷跡が欲しい」と無責任にも望んだ。だが、それは共に時間を過ごした『霧子』であるからだ。どこぞの誰が、彼女の存在を書き換えてしまった怪異ではない。そんなものにくれてやる命はない、と見藤は目付きを鋭いものに変える。
「急がないと」
もう幾分の猶予は残されていない。今、こうして立っていられるのは、霧子が集団認知によって存在を書き換えられようとしているのを、必死に耐えているからだと想像に容易い。
見藤は奥歯を噛み締めると、その歩みを速めた。
すると鼻につく、ごく僅かな血の匂い。神経が張り詰めているから気付いたのか、霧の流れに乗ってきたのか、最早どちらでもいい。
見藤はその方向へ走り出した――――。




