23話目 異変②
東雲と同様に、斑鳩からしばらくの間自宅待機を言い渡された久保。だが、それを義理堅く守る謂れもない、と度々外出していた。
数日ぶりに訪れた見藤の事務所は、その扉を目にしただけでも久保に安心感を与える。事務所は解錠されていて、どうやらやってはいるようだ。
「こんにちは。……見藤さん?」
事務所内へ足を踏み入れると、そこには事務机に向かい、椅子に座ったまま器用に眠る見藤の姿があった。
昔の刑事ものドラマでよく見るような、中年刑事が雑誌を顔に乗せ天を仰ぎながら眠っているシーン、まさにそれだ。そして、やはりというべきか、そこに霧子の姿はない。未だ喧嘩は継続中のようだ。
久保は大きく溜め息をつく。
(ほんとに、この人は……)
見藤は久保や東雲、そして怪異達の世話をよく焼くものの。自分のことになると、どうにもおざなりになるようだ。
久保は事務机の傍まで歩み寄ると、見藤を起こそうと肩に手を伸ばす。だが、肩へ伸ばされた久保の手が届く前に、見藤がその手を掴んだ。
「うわっ、びっくりした」
「……なんだ、久保くんか……。来てたのか」
「ちゃんと、声は掛けましたよ」
思わず驚きの声を上げる久保に、見藤はまだ少し眠たいのか寝ぼけ眼で彼を見やる。そして、彼の手を無意識に掴んでいたことを思い出し、謝罪と共にその手を解放した。
久保が不意に事務机へと視線を落とす。そこには疑似的な夢遊病が社会現象となっている続報を報じた新聞や週刊誌。そして、一部黒塗りされている資料のようなものが目に入った。
久保の視線に気付いたのか、さっと見藤に隠されてしまった。
「こら、これ以上は機密事項だ」
諫めるようにそう言われれば久保は黙るしかない。その次に、見藤は何かに気付いたように久保を見上げた。
「久保くん、君も斑鳩から自宅待機を言われていただろ」
「そうでしたっけ?」
とぼけた様子で首を傾げる久保。そんな彼の様子に、今度は見藤が溜め息をつく。
「………君は意外と強情なところがあるんだな」
「きっと誰かに似たんですよ」
「……………」
誰とは言わないが、明らかに見藤のことだ。今度は見藤の方が黙る他なかった。
そうして、久保は見藤が完全に目を覚ましたことを確認すると、机の前に回る。その位置からは、久保が事務所を訪れるまでの空白の数日間を表すかのように、また違った様子が窺える。
久保の目に留まったのは、風邪の市販薬だ。開封されているものの、あまり服用したような様子はない。
「あれ? 見藤さん、風邪でもひいたんですか?」
「ん? あぁ、少しな」
「じゃあ、その様子だと、もうすっかり治った感じですね」
久保の問いかけに、見藤はそう言えば面倒くさがってあまり薬を飲んでいなかったと思い出す。
久保に風邪をうつしてはいけない、そう思い少し離れるように言うおうか迷った。しかし気付くと、喉の痛みや違和感、倦怠感がすっかり消えている。自然治癒力とは有難い限りで、すっかり風邪は治ったようだ。目の前のことに夢中で、病気どころではなかったからなのかもしれない。
(そう言えば、体は丈夫な方だった……)
病気よりも怪我の回数が多いであろう見藤は、一人で納得していた。
しかし一方で、久保の目の下には薄っすらと隈ができていた。それに気付いた見藤は、心配そうな表情を浮かべる。
「ちゃんと休めているか……?」
「はい、大丈夫ですよ。まぁ、見藤さんにだけは言われたくないですけね」
「それは面目ない」
冗談っぽく返す久保に、見藤はそれ以上何も言えなかった。
「そうだ久保くん。君の親御さんは大丈夫か? さぞ心配しただろう」
「え、いや……その、別に……」
「ん?」
「大丈夫ですよ」
なんとも歯切れの悪い久保の返答に見藤は少し首を傾げる。
それを誤魔化すように、久保は壁に掛けられている時計の時刻を確認した。
「それじゃあ、僕はこれで失礼しますね。今日は様子を見に来ただけなので。近々、東雲の様子も見に行くんですけど……」
「そうか、彼女の様子はどうだ……?」
「調子はいつも通りですが、まだ外出は怖いみたいで……」
「……そうか」
「見藤さんが心配してたこと、伝えておきます」
「……それは、しなくていい」
久保の言葉を受け、見藤は斑鳩との会話を思い出した。余計な期待はさせない方が彼女の為だ、と考えている。それ故に、人の善意は難しい。
見藤と東雲は直接的な連絡手段を持っていない。それが二人の距離感を表している。
久保が困ったように首を捻っていると、見藤から目の前に茶封筒が差し出された。
「若い子の入り用な物は分からんからな。久保くんに任せる。東雲さんに届けてやってくれ」
そう言って、久保へ渡された茶封筒は差し入れの軍資金だ。
見藤は久保から、東雲の祖父は彼女の様子を見にこちらまで来ることは難しい、と聞いていた。見藤なりにできることを模索していたのだろう。
久保は一瞬戸惑ったが、彼の善意を無下にはできないと思い、その茶封筒を受け取った。
そうして、久保はその日のうちに東雲に連絡をとり、必要な物はないか予め聞いておく。少し経ち、送られてきた東雲からの返信は遠慮がちに書かれていた。
(う~んと……。見藤さんからの軍資金。返す訳にもいかないし、折角のご厚意だからって書いて返信しよう……)
久保はスマートフォンをタップし、メッセージを送った。すると――、先程の遠慮は何だったのか。
東雲から返信されたのは、羅列された買い物リストだった。その画面を目にした久保は思わず笑ってしまった。
「あはは、それでこそ東雲だよ」
当然、スマートフォンに表示されるのは文字のみ。だが、彼女の心中を慮ると、久保はどうしてもやりきれない思いを抱く。
普段は明るく冗談を好んで言う彼女があの事件を受け、恐怖に震える様子は久保にとっても辛いものがあった。
(早く皆で過ごす、あの日に戻りたい……)
――そう願わずにはいられなかった。見藤と霧子。そして、猫宮や東雲。皆がいる事務所で過ごす、平凡とは少し違った日常。
久保はそっと目を伏せた。
◇
そうして、翌日。
久保は買い物リストの品々を買いそろえ、東雲の自宅前でインターホンを押していた。時刻は昼過ぎだというのに、久保は眠たそうに欠伸をしている。
インターホンから東雲の声がすると、どたどたと騒がしい足音が部屋の中から聞こえてきた。その力強い足音に少しだけ安心した。そして、扉が勢いよく開かれたと思うと、ひょっこり東雲が顔を覗かせた。
東雲は久保を見るや否や、鬱屈した様子など感じさせないほど軽快に挨拶を送った。
「お勤めご苦労さん」
「はいはい。調子は? これ、見藤さんから」
久保はひょうきんな東雲の挨拶にも慣れたものだ。両手に下げていた荷物を、ひとつずつ東雲に渡して行く。
見藤の名を聞くと東雲は嬉しそうな表情を見せ、その様子を見た久保もそれにつられる。
荷物を受け取りながら、東雲は口を開く。
「人混みを避ければ、外出はできるようになったかな」
「無理は禁物」
「はーい」
久保の問いかけに東雲はあっけらかんと答えた。だが、未遂だったとは言え、見ず知らずの人間から危害を加えらそうになったのだ。ただ外出するだけでも相当精神的負担は大きかったはずだ。
東雲の心の強さは一体どこからくるのだろうか、久保は頭が下がる思いでいっぱいだ。まぁ、見藤に関すること以外で、なのだが――。
「見藤さん、元気にしとった?」
「う、ん……!? あ、いや、何だか忙しそうで……」
「そう……」
東雲に対して若干失礼なことを思っていた久保は、彼女の口から見藤の名を聞き、思わずどきりと心臓が跳ね上がった。咄嗟に返事をしてしまい慌てて訂正し、見藤の様子を伝える。
東雲には、見藤が斑鳩から疑似的夢遊病の調査を依頼されている事を伝えていない。誰しもが皆、お互いに余計な心配はかけたくないものだ。
久保がどこまで見藤の様子を伝えようか悩んでいると、東雲は何かを思い出したかのように突然声を上げる。
「あ! そうやった、久保君!!!」
「うわ!? 何、どうしたの?」
「これ! これ見て!!!」
若干、興奮気味に話す東雲から見せられたもの。それはSNSに投稿された動画だった。
動画が終わると、東雲は久保に確認するように尋ねる。
「これ、霧子さん?」
「…………そうだと思う。あの時の見藤さん、慌てて霧子さんの名前を呼んでたような……」
「……これ、映り込んでしまってええの?」
「………………分からない」
その動画に映るのは、あの暴漢事件で見藤が犯人を取り押さえた後のこと。
見藤の背後に佇む、亭々たる身長の霧子の姿。その姿は一瞬にして消えてしまう。それは事情を知らぬ者が観れば、とてつもなく摩訶不思議な映像だろう。
久保は「怪異は認知によってその存在を左右される」という、猫宮から聞いた話を思い出していた。だが、それは消滅するか、否か。そんな話であったように記憶している。
そうだとすれば、この動画が世間に広まったとしても、霧子には直接関係のない話だと久保は考える。しかし、疑念がない訳ではなく――。見藤に連絡するか、どうか迷っていた。
「うーん、一応見藤さんに連絡を……」
「でも忙しそうにしてはったんやろう?」
「そうだけど……」
「近々、二人で見藤さんのとこへ行こう? うちならもう大丈夫やから」
「そっか……、そうだね」
久保は東雲からの申し出を断る理由がなかった。
確かに見藤は忙しそうであった。治ったような素振りであったが、少し前まで風邪をひいていたようで体調も心配だ。ここで横やりを入れるように余計な問題は持ち込みたくない。
久保と東雲の見藤を気遣う気持ちと、皆で過ごす日々を取り戻したいという思い。奇しくもその二つが重なり、この異変を見藤に知らせることを遅らせた。
依然、その動画の閲覧数は数を増やしている。そして、動画に映った存在は一体、何なのか。
世間の好奇心と認知は広まるばかりであった――。




