23話目 異変
朝起きると見藤が抱いた違和感は、風邪の倦怠感そのものだった。ここ数年、いやそれ以上かもしれない。病気とは無縁だったのだが、ついに風邪をひいてしまったようだ。
見藤は思わず、体をうつ伏せにすると力なく呻いた。
数日前、不運にも駅構内で東雲が暴漢に襲われ、見藤はその身を呈してその暴漢を取り押さえた。その時、好奇の目に曝される東雲を少しでもその視線から匿おうと、ジャケットを渡したのだった。そして、そのまま帰路に着いたがため、秋の寒空の風に晒されたのだ。
その後は斑鳩からの調査依頼のため、夜分遅くまで情報を集めたり、提供された情報と睨めっこしたり。なにぶん不規則な生活をしていた。無理が祟ったのだろう。
この間の反省を生かさず無理をしたな!と猫宮に怒られるだろうか。そんな猫宮は未だ事務所に帰ってきていない。秋の彼岸の出来事、報酬としてうまい酒を煙谷からもらい受けた。彼は未だに向こうで飲んだくれているのだろうか――。
見藤はそんなことを思いながらベッドから起き上がる。その脇に腰かけた態勢でしばらくの間過ごし、頭が起きるのを待つ。しかし、どうにも頭がぼんやりして、すっきりしない。
「こんな時に……」
そう呟いた声は掠れ、鋭い咽頭痛が襲ってくる。その痛みに今度は咳き込んだ。冷たい空気はより一層、喉を刺激し肺を冷やす。一度出始めると咳は止まらない。
(最悪だ)
見藤の胸中はこの言葉に尽きるだろう。置き薬として市販薬はあっただろうか、何か食べなければ、そう思うのだが何せ体が重い。
ばたり、と体をそのまま横に倒すと、もそもそと布団の中に戻っていく。
――ひとまず今は眠ろう。そう思い、見藤は意識を手放した。
* * *
見藤が一人、風邪に見舞われていた頃より少し時間は遡り――。
久保と東雲の二人はしばらくの間、どういう訳か自宅待機を斑鳩から言い渡されていた。結果的に未遂だったとは言え、暴漢事件の被害者として扱われているのだろうか。その真意は分からない。
事件を受け二人は大学を休み、見藤の事務所にも顔を出せていない。
特に東雲は、あの時の恐怖が勝り依然一人で出歩けずにいる。実家から高齢である祖父を呼び寄せる訳にもいかず、彼女は一人耐えていた。
食事などは宅配などを利用していたが金銭的にも限度がある。彼女を心配した友人が差し入れを持って来てくれたり、斑鳩の言いつけを守らない久保が様子を見に来たり。情けなく思いつつも東雲はそんな友人達に感謝していた。
東雲が下宿する、少し狭い部屋に掛けられた一枚の少しよれたジャケット。ちらり、とそのジャケットを見やれば不思議と安心感が胸に広がる。このジャケットはあの時、見藤が掛けてくれたものだ。
人の悪意と好奇の目に曝され、唯一守ってくれたのは見藤。支えてくれたのは、普段は頼りないが気のおけない友人である久保だ。
(自分が情けない……)
東雲は溜め息をつき、膝を抱えてうずくまる。そのとき、胸元に当たるものに気付く。
そう言えば、見藤からもらった身代わり木札を首から下げていたことを思い出す。襟の隙間からその木札を取り出すと、それは綺麗なままで割れていなかった。
(見藤さんが身代わりになったら、意味ないやんなぁ……)
彼女のその想いは久保と同じだった。
暴漢に見藤が立ち向かった時、見藤の身を大いに案じた。しかし、彼の口から出てきた言葉に久保は怒り、ついには罵倒した。
見藤がそれほどまでに、自分の身を顧みないのはどうしてなのか。その答えはいつになっても辿り着けない。
東雲はその木札を握り締めると、どこからともなく湧いてくる安心感。大丈夫だと、その木札は不思議とそんな気持ちにさせてくれた。
◇
そして、翌日。東雲の部屋には友人が訪れていた。久保が東雲と食堂で居合わせたときに、東雲と一緒に昼食を摂っていた彼女だ。
「あかり、調子はどう? ちゃんと食べてる?」
「うん、ありがとね」
「全然いいって! これ、講義のノート」
玄関ドアの前でそう話す二人。彼女の手には差し入れだろうか、可愛らしい買い物袋が握られている。
その日、東雲は珍しく彼女を部屋に招き入れた。あの事件以降、相手方が東雲を気遣ってか、人と長時間共にいることを避けてくれていた。
東雲からすれば明るく接してくれる友人達が訪ねて来てくれるだけでも、気持ちが紛れるというものでそんな気遣いなど無用にも思えたのだが、そうもいかないらしい。
白昼堂々行われた凶行に世間は関心を寄せ、毎日報道がなされている。その犯行現場、犯行動機、繰り返し、繰り返し、飽きもせず同じ情報を流す。
当然、あの暴漢事件はSNSでも大いに拡散されてしまった。そのほとぼりは未だ冷めやらぬ状況だ。
流石に見藤と暴漢が争っている様子を記録したものは出回りこそしていない。だが、その後の駅員や警官が駆けつけてからの事後処理は違う。
東雲は直接目にした訳ではなかったが、動画や写真。そう言ったものが出回っていると彼女から聞かされた。
それは友人である彼女に、東雲が恋心を抱いている見藤という男がどのような風貌なのか知られてしまったことを意味していた。こういう状況でなければ、与太話のネタにされていただろう。
そうして、部屋に招き入れた彼女はぴたりと動きを止めた。どうしたのか、と東雲が同じ方向へ視線を向けると、そこには見藤のジャケット。
彼女はそっと口を開く。
「あかり、このジャケット」
「なんも言わんといて」
「はいはい」
東雲はその先の言葉を食い気味に遮った。彼女もその先を聞くような野暮な事はしないようだ。
一方、彼女はじっとジャケットを見つめる。
明らかにサイズが大きく、男物のジャケットだ。動画や写真媒体でその暴漢事件の様子を見たとき、彼はそのジャケットを羽織っていた。それが、東雲の自宅にある。おおよそ想像はつく。
東雲から聞いた話によれば――。心に決めた人がいる、と東雲の好意を真っ正面から断るような誠情な人だ。
暴漢に襲われ、その凶行に立ち向かったばかりか、好奇の目から守ろうとそのジャケットを東雲に渡したのだろうと想像に留めておく。
東雲の友人である彼女は、東雲の幸せを願う。少しでも彼が東雲に心を寄せてくれたら、彼女はそう思わずにはいられなかった。
そんな物思いにふけっていると、彼女は東雲に伝えたい事があったと思い出す。自身のスマートフォンをポケットから取り出し、東雲を呼んだ。
「あかり、少し聞きたいんだけどさ。最近、SNSって見てる?」
「全く」
「だよね。……でも、ちょっと見て欲しい物があってさ」
彼女はそう言うと、事件に関係するものであるが大丈夫か事前に東雲に確認を取り、それを見せた。
映像を目にした東雲は、目を見開く。
「これって」
「ね、不思議だよね。今じゃ、事件よりもこっちが注目されてる」
彼女達が目にしたもの――。それは、暴漢事件で犯人を取り押さえたとされる男性の背後に佇む、亭々たる身長の女性の姿だった。
そして、その姿は一瞬にして消えてしまった。なんとも言えない沈黙が部屋の中に流れる。
もとより、怪異や霊をその目に見てきた東雲は知らなかった。
――怪異が認知によってその存在を左右されることを。
彼女のスマートフォンに表示されている、その投稿の閲覧数。それは静かに数を増やしていた。
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