19話目 夢に揮毫を求む②
* * *
それから数日後、見藤の事務所に一人の依頼人が訪れた。今回の依頼人は、若い女性で東雲よりも少し年上、社会人だろうか。その依頼人の表情は見るからにやつれ、頬はこけていた。
依頼人が女性ということもあり、同性がいた方が安心できるだろうという事で今回は霧子の他に東雲が同席していた。東雲から見ても依頼人の顔色は悪く、時折心配そうに依頼人を気遣っていた。
依頼人は小さな声で相談内容を口にする。
「夢を……毎日見るんです」
「夢、ですか」
「その夢が段々、夢なのか現実なのか分からなくなって……、最近では悪夢を見るように」
そう話す依頼人の目は泳いでいた。現に今も夢か現実なのか判断できていないのだろうか。見藤は依頼人の言葉を反芻すると、訝しげに依頼人の様子を伺っている。
本人を目の前にして口にはできないのだが、正直に言うと医療機関へ受診した方がよいのではないか、という事だ。
しかし一方で、一般人がこの事務所を頼りに訪れること自体が珍しい。
大抵は見藤の噂を聞きつけて、怪異によって引き起こされる事象に頭を悩ます人からの相談。はたまた呪いを得意とする見藤の助力を求めてやってくる怪異からの相談、そう言った不思議な客がこの事務所を訪れる。
見藤から見ればこの依頼人は、怪異によって引き起こされる事象によって自分は悩まされている、という確信を抱いているように見受けられない。
「何か、思い当たるきっかけは?」
「……えっと、」
「大丈夫ですよ、些細な事でも」
諭すような見藤の声音に安心したのか、依頼人は出された茶を一口飲み、喉を潤してから口を開いた。
「夢日記をつけていたんです……、そうしたらどんどん夢が鮮明になってきて……。友人と会う約束をする夢を現実だと思い込んだり、ほんとに酷くて……」
そう話す依頼人の様子を見ればその深刻さは余程のことなのだろう。項垂れていた顔を上げれば目の下には隈ができ、くぼんでいる。
夢日記――、先日久保から聞いた話が見藤と東雲の中に思い浮かぶ。今度は東雲が、依頼人に質問を投げかける。その答えは大方、東雲が想像している通りなのだろう。
「その日記はありますか?」
「あ、いえ、日記と言ってもスマホに入力しているだけなんです……」
そう答える依頼人は自身のスマートフォンを東雲に見せた。そこには夢の内容だろうか、断片的に書かれたSNS投稿が表示されていた。
「最初はSNSに投稿されている他人の夢日記を見ることにハマっていて……。いつしか、目にした内容が断片的にその日の夢に出るようになったんです。……それで、私も夢日記をつけてみようかなと思い……」
依頼人はそう話すと、自身の夢と類似した内容が書かれた夢日記を見せた。
人は誰しも、目にした内容に少なからず影響される事があるだろう。それが、たまたまこの夢日記だとすれば潜在意識の中でその内容が記憶され、夢に出て来るというのは有り得ない話ではないようにも思えるのだが。
――どうやら、依頼人は違ったようだ。
「私になにか良くないものが憑いているんじゃないかって……、それで噂に聞いたこちらに相談してみようかと、」
「なるほど……」
依頼人の言葉を聞き、見藤は東雲に視線を送るが東雲は首を横に振った。どうやら東雲の目に霊の類は映っていないようだ。
そして、見藤から見ても、怪異の類がこの依頼人に憑いているようには視えない。――と、なると依頼人がいうような、ナニかに取り憑かれているという線はなくなる。
一先ず、見藤は聞き取りの内容から判断できることだけを今日の所は伝えておく。と、言っても今の状況ではありきたりなアドバイスしかできない。やはり平行して専門的なカウンセリングを受けるようにと、やんわり付け加えた。
そうして、依頼人に今回相談料金は発生しないことを伝えた。流石に、怪異や霊的なものの仕業だと断定できる要素が少なすぎた。
東雲は見藤と霧子を見据えて、そっと口を開く。
「私、少し先まで見送ってきます」
「分かった」
「気を付けてね」
見藤は頷き、霧子は東雲を案ずる声を掛ける。
そうして、東雲は依頼人に付きそうために席を立つ。その次に、依頼人が席を立つ。すると、どこかで嗅いだことのある香りが見藤の鼻を掠めた。――どこだったか、この甘い香りを嗅いだのは。
見藤が既視感を抱いた要因を思い返している間に、東雲と依頼人は事務所を後にしていた。
「夢……」
ふと思い出した、あの悪夢を見たときだ。その事に抱く強烈な違和感。依頼人が夢を見始めたきっかけを思い返す。それはさながら伝播しているようにも見受けられる。
「伝播する夢か、これは少し気になるが……。霧子さんはどう思う?」
「分からないわ。夢なんて、人が見るものだもの」
「そうだよな……」
二人の会話はそこで途切れてしまった。
* * *
数日後。見藤の耳に入ったのは驚きの情報だった。
件の依頼人は専門的な医療機関に入院することにとなった、と東雲から聞かされたのだ。なんと、依頼人本人から東雲に連絡があったのだという。
いつの間に連絡先を交換していたのかと疑問に思ったが、東雲の行動まで見藤自身が深く関わるべきではないと一線を引いているため、特に追及はしない。
何しろ彼女は夢と現実の区別がつかないばかりか、夢遊病のような症状まで発症したというのだ。その症状が比較的緩和した折に、東雲に連絡を寄こしてくれたという。
依頼人の状況を見藤に報告する東雲の表情は、心から依頼人を心配していた。そんな東雲に、見藤は少しだけ申し訳なさそうに眉を下げる。
依頼人に深入りしすぎるのは良くない、と事前に伝えておくべきだったと後悔した。
依頼人にここまで共感し、感情移入する感性を見藤は持ち合わせていない。そして、逆を言えば共感や感情移入をしすぎると事の公平性はなくなり、視野は狭くなる。まだ社会経験の浅い東雲には難しいことだったのだろう。
見藤はありきたりな言葉しか掛けられなかった。東雲を慰めようにも、言葉をかける以外思いつかないのだ。
「よく、なるといいな……」
「……はい」
報告を終えた東雲は少し俯いた後、向かいのソファーに座る見藤を見据えた。
「見藤さん」
「ん?」
「私の頭、ぽんぽんしてもいいんですよ?」
「しません」
「ちっ、……あ、つい本音が」
「はは、君のそういう所は人として好ましいよ」
即答した見藤に舌打ちをかます東雲はいつもの調子だ。――それが空元気だとしても。
昔から夢に囚われると現実との区別がつかなくなる、夢をもてあそぶと精神状態に異常をきたす、と言った認知があるのは周知の事実だ。
覚醒すれば、夢の内容を覚えていないことの方が自然の流れで、生理的に忘れる必要があるから忘れるのだろう。今回の一件、それを人の意思で無理矢理書き換えると起こる弊害だとでもいうのか。
では、見藤が見た悪夢は一体なんなのか、あれは酷く鮮明だった。過去を忘れてはならない、という自己暗示なのだろうか――。
「また、何か起こってないといいんだが……」
見藤は一際大きな溜息をつくのであった。




