17話目 秋声高鳴る頃の花火
突然の浮遊感に体が反射的に強張り、見藤は目が覚めた。掛けた布団を胸元で握りしめ、肩で粗く呼吸を繰り返す。首元には少しばかり汗が滲んでいた。
そうしてしばらくしていると、徐々に呼吸は落ち着きを取り戻す。首を横に向ければ、カーテン越しから覗く朝日はまだ低い。
「……」
何か夢を見ていた気がするが思い出せない。しかし、この体に残る虚脱感は嫌な夢であったのだろうと想像に容易い。
それこそ、村を出た頃は毎日のように夢を見ていたように思う。それも大人になるにつれて減ってゆき、最近は専ら夢など見なくなっていたのだが――。
見藤はゆっくり起き上がると、殴られた傷がまだ痛むのか手を額に当てる。
「……風呂」
そう言えば昨日は疲れ果てて簡単に荷ほどきを終えた後、すぐに眠ってしまったのだった。そのことを思い出し、見藤は重たい体を起こし風呂場へ向かうのだった。
◇
そうして、見藤の事務所は数日間休業となった。だが、それはあくまで久保と東雲に言い渡した休みにすぎない。体調が回復するまで依頼こそ受けるつもりはないが、見藤自身はいつも通りキヨへの報告書に追われることになる。
あの夏の事象、そしてその他、白澤が関与していた怪異や摂理への介入、それを一つの情報としてまとめ上げて報告する。
どうせ煙谷は適当な事を書いて、詳細をはぐらかすことは目に見えている。と言っても、見藤自身も煙谷に関すること、猫宮に関する事などは報告する義務は持ち合わせていない。あくまでも白澤が関与した事象のみを報告するのだが、なんせ情報の選別が難しい。
「面倒だな……」
思わず漏れた本音を聞く者は誰もいない。そうして簡単な軽食を取りながら、彼は事務机に向かう。
* * *
「はぁ……、目覚めが悪い」
そう呟いて起きるのはもう何日目か。見藤の目元には薄っすらと隈ができている。それからしばらく経ってもその夢は続いていた。
最初こそ、何の夢を見ていたのか、はっきりと覚えていなかった。だが、徐々にその内容が日を追うごとに鮮明になっていったのだ。
そうして、その日は続く睡眠不足に堪らず、事務机に向かいながらも居眠りをしてしまった。
――どろっ、とした感触がいつまででも伸ばした手に残っている。
見藤は恐る恐る視線を上げると、そこにいるのは死を目前にしても穏やかな表情を浮かべる、最も大切な存在だった――、牛鬼だ。
思わず声を上げそうになるが、喉は掠れて声は出なかった。聞こえてくるのは、自身の掠れた呼吸音と、ぽたぽたと滴る水滴音。
(これは夢だろ……)
夢の中であるはずなのに、不思議なことに甘い香りが鼻を掠めた。
――これは夢、頭ではそう理解しているのだが、目の前の光景から目が離せない。
そうして、早まる水滴音。
(駄目だ)
牛鬼がこの後どうなるのか、嫌でも分かっている。それでも否定したい。しかし、その想いは無情にも、いつも叶わない。
赤い水となって牛鬼の姿が崩れ落ちるとき。いつも自分はもう一度、手を伸ばすのだ。そして、その手はいつも空を掴む。
しかし、その日は少し違った。赤い水となり崩れ去った牛鬼の向こう側に――、霧子の姿を見た。
霧子は怯えきった表情を見せて、膝を抱えて蹲っていた。はっとして、駆け寄ろうとするが霧子の姿は青色の水となって消えてしまったのだ。
その瞬間、意識が覚醒する。
「っは――」
がたんっ、と椅子が大きな音を立てる。そして、反射的に体が飛び起きる。肩で息をし、呼吸が落ち着くのを待った。無意識に握り締めていた手には爪が食い込み、赤くなっている。
しばらくそうしていると、ふと鼻を掠める香りに視線を上げる。そこには、心配そうに見藤を覗き込む霧子の姿があった。
見藤が何も言えず黙っていると、霧子がそっと口を開いた。
「どうしたの、大丈夫?」
「きり、こさん……」
「なに?」
名を呼ばれた霧子の返事は澄んだ声をしていた。
「ごめん、少しでいいから……。手を、握って欲しい」
その口調は霧子に少年の頃の見藤を思い出させる。彼の頼みに応える霧子は、見藤の隣に立ち少し屈むと、そっと手を包み込んだ。
見藤の手は少し震えていて、落ち着かせるように霧子は少しだけ力を込める。霧子の少し低い体温が心地良いのか、見藤はふっと目を伏せた。
霧子が目にした見藤の表情は、泣きそうな顔をしているが泣けない、そんな顔だ。――そう言えば、あの時も泣いてなどいなかった、と霧子も感傷的な気分になってしまった。
二人で村を出てしばらく経った頃。見藤は今のように夢見の悪い日が多かった。その度に、こうしてあの時と同じように手を握ってやっていた。
大人になるにつれ、その頻度も減っていた。何故、今になって――、と霧子は眉を顰めた。
見藤が悪夢に魘されるようになったのは「過去は清算しないといけない」その言葉を白澤から聞かされた後からだ。その言葉が引き金となっているのかどうかは分からない。
霧子が白澤のいらぬ置き土産に憤りを抱いていると、見藤が小さく彼女の名を呼んだ。手の震えはもう止まったようだ。
霧子は確かめた後、そっと手を離す。少し名残惜しいと思ってしまったのは霧子だけなのだろうか――。離れる二人の指先に、少しだけ力が込められる。
一方の見藤は年甲斐もなく霧子に手を握ってもらった事に対して、大いに情けなさを感じているのか、かなり気まずそうだ。
そうして、霧子のお陰なのだろうか。その日から悪夢を見ることはなくなった。




