13話目 過去編 心情、血煙を上げる④
* * *
村を出た少年と霧子は山道を進む。
不思議と涙は出なかった。いや、悲しいと感じる心の余裕さえも失ったのか――、嘲笑する少年の手は震えていた。少年と霧子は手を繋いだまま、ただ足を進めた。
奇しくも、祟りと最高潮に達した澱みのお陰か。村の外へと通じる道を隠す呪いは効力を失い、探し求めていた道が姿を現していた。二人は山の中を静かに進む。そうして、少し休憩しようと、開けた場所で立ち止まった。
村を出てから一言も発しない少年を心配そうにのぞき込む霧子は、どうしたらいいのか分からず狼狽えている。
すると、少年が口を開いた。その声は少しばかり震えている。
「どうして社に帰らなかった……?」
「……」
霧子はどう答えればいいのか迷う。今、少年に何を言っても慰めにすらならないのだと理解している。ただ、霧子が抱いた、怪異らしい望みがあった。彼女はそっと、望みを口にする。
「君と、一緒にいたくて」
「…………」
少年はしばらく黙ったまま、霧子の手を握っていた。
そうしてしばらく経ち、ふと少年が口を開いた。その声は未だ震えている。
「霧子さんは、いなくなったりしないか?」
「それは……、約束できないわ。妖怪と違って……、特に怪異は認知に左右される存在だもの。もし今後、認知が薄まれば私は……」
その先の言葉を霧子が言うことはなかった。――もし、少年に希望を持たせておいて、自身の認知が薄まり、その存在が消えてしまえば。そこから先は想像したくもない、と霧子は首を振った。
そんな霧子を目にした少年は握った手に力を込めると、彼女と視線を合わせる。
「この眼をやる。言ってたんだよ……この眼は特別だ。怪異が喰らえば力が手に入るって」
少年は牛鬼から聞いた昔話を思い出したのだ。妖怪や怪異は嘘をつくことはできない、ならばその話が間違いであるという話にも信憑性がなくなる、そう考えた。
そして、少年は思う。――この眼がもたらす不幸はもう沢山だと。あれだけ奔走し、時間と労力を費やし、己の心を抑えつけてでも得たかったもの。だが、今この場に大切な存在だった牛鬼はいない。
――この眼には何の価値も、意味もない、そう頭の中で己の声が響く。
少年は霧子の両手を握った。じっと、深紫色の眼で彼女を見据える。
「この眼を対価に、俺と契って欲しい」
「えっ!?」
「何を慌てているんだ……?」
「いや、あの……」
「ただの誓約だろ」
少年が怪異である霧子に持ちかけたのは、人と怪異を繋ぐ「契り」だった。
一方、少年からの突然の申し出に、霧子は酷く動揺した。無論、その魂を欲した霧子にとっては願ってもない申し出だ。しかし、この少年は「怪異と契る」という別の意味を理解していないのだと、すぐに納得した。
今しがた親しい者を失ったばかりで、その空いた心の穴を埋めようとしている無意識下での行動であることは十分に理解している。だが――。
「……分かったわ」
そう答えた己はやはり怪異なのだと、霧子は自認する。
少年の心が弱った隙を見て、欲しいものを手に入れようと動く。それは怪異と言わず、何だというのだろう。ただ少なからずこの少年に抱く、共にありたいと思う気持ちはそれだけでない――、霧子はそっと胸にしまう。
霧子の返事を聞いた少年は少しだけ、嬉しそうに微笑んだ。それは霧子の胸を締め付ける笑みだった。
そうして、少年は考える仕草をすると、霧子へ「契り」について語った。
「でも喰らうって言ってもおそらく、物質的に眼を食べたんじゃ意味がない」
「そうなの?」
「こうする」
すると、少年は荷物から道具を取り出した。それは呪いの道具だ。少年は地面に綺麗な文字と紋様を描く。その文字列は霧子と少年の周りを囲むように描かれた。
そして、霧子にその中心に座るように促し、彼女と対面となる位置で少年も座った。体格差から少し歪だがよしとしようと、少年は頷く。
「目を閉じて」
少年は静かにそう呟いた。霧子はそれに従う。
少年は目を伏せる。――本来であれば牛鬼に、眼の力を譲渡するつもりだった。
少年は不思議な眼の話を聞いてからというもの、その力にまつわる逸話を徹底的に調べ上げていた。村で呪いは日常茶飯事。それならば、その手の逸話に関する書物を探すのであれば他に適した場所はないだろう、なんとも皮肉な話だ。
そうして、見つけたのだ。厳密に言えば、それに似た呪いを少年は弄った。その知識と賢さを授けたのは牛鬼だった。
少年には目論見があった。死霊や人の嘘、本心が視えなくなれば利用価値はなくなり、本家からは放置されるようになるというものだ。だが、それも今では無意味だ。
眼の力を他者に譲渡してしまえば怪異でさえも視えなくなってしまうのではないか、という不安がない訳ではなかったが、不思議とそうはならないような気がしていたのだ。
そうして、儀式は始まる。
少年を襲ったのは、眼球の激痛だ。なにも呪いは万能ではない。対価が必要であり、代償が伴う。少年は腹を据えて、祝詞を紡ぐ。痛みに呻きながらも、祝詞を紡ぐことは止めなかった。
そうして、全ての祝詞を紡ぎ終える。少年はそっと、瞼を開けた。霧子が息を呑んだ音が聞こえる。
霧子が目にしたのは、少年の瞳。咄嗟に口から出た言葉は少年の口調と似たものだった。
「あんた」
「ん?」
少年の眼の色は、深紫色から紫黒色へと変化していた。そうして、霧子自身が強く感じる確かな「個」という意識。それは名で結ばれた縁がより強くなったのだろう。
霧子の反応を目にした少年は、呪いが成功したことを確信した。
「上手くいったみたいだな」
「これからどうするの?」
「あぁ、京都へ向かう。呪い道具屋があるんだ」
そこで見習いとして雇ってもらえれば食ってはいけるだろう、と話す少年は逞しい限りであった。
人は人の中でしか生きられない、その言葉の重みを少年は理解していた。人の欲深さ、愚かさを幼い頃から目にしてきたとしても、そこで生きるのは同じ人であれば致し方のないことだ。
一方の霧子は少年の提案を受け、じっと考えていた。少年がこれから出会う人達に、彼の心は少しでも救われるのだろうかと、少し不安になる。人を救うのも、また人であると、そっと目を伏せた。
そして、人と契り、少年の眼を対価としたならば――。怪異である霧子自身も、対価として支払わなければならないと、思い至る。彼女が考えたのは――。
「私はあんたに取り憑くわ。それが対価」
「え、それ大丈夫か……」
「死にはしないわよ。あんたなら」
そう冗談っぽく言ってのけた霧子に、少年は肩を竦める。
――そう、もう大丈夫だと霧子は直感的に感じていた。名をもらい、眼を対価に契を結んだ。それは集団認知の力でさえも及ばない、一人の少年の認識と強い認知により、「個」として存在が確立されたからだ。
そして、それには霧子自身の想いも上乗せされる。少年がこの先、何者にも邪魔されず天寿を全うできるように、守ろうと誓う。その為に取り憑いたのだった。
「行こうか、霧子さん」
「えぇ、そうね」
互いに手を取り合い、少年と霧子は外の世界へ踏み出した。
◇
そうした出来事が見藤と霧子、二人の関係の始まりとなった。少年であった見藤は大人になるにつれ、霧子に抱いた愛情を更に強く自覚していく。
見藤は人間の欲深さを知っている。そのため、霧子に対して抱いている恋慕や劣情を、薄汚れた人間の感情と捉え、歪曲した考えを持っている。彼女への愛情を内に抱えてしまう節があるのは、その壮絶な経験からであることは想像に容易い。
見藤はそれを示そうとも、押し付けようとも思っていなかった。ただ、最近は久保や東雲のような、少しだけ正義感が強く、人に好意的な態度を隠さない人間と関わったことで、自分の感情を少しずつ霧子に示すようになったようだ。元より、互いに想い合っていたのだ。その距離は少しずつ縮まっている。
そして、すっかり大人になった見藤に、どきまぎするようになった霧子。密かに、添い遂げたいと願うようになったことは秘密だ。
* * *
昔を思い出し、霧子はしばらく見藤の髪を鋤いていた。猫宮は縄張りを巡回するため、出かけてしまった。
すると、見藤が目を覚ます。朧げな意識で、髪を鋤いていた霧子の手を握った。
「……ん、霧子さん。来てたのか」
「あ、起こしちゃった?悪いわね」
「いや、冷たくて気持ちいいから、そのまま……。夢をみていたような、気がする……」
「そう」
見藤は寝起き特有のはっきりとしない表情で、ふにゃりと笑う。そんな彼に、溜め息をつく霧子。そして、見藤の額に唇を寄せた。
予期せず、霧子から愛情を示された見藤は目を点にしている。何も言わず、じっと霧子を凝視した。
そんな見藤の視線にいたたまれなくなった霧子は、拗ねるように口を尖らせる。
「な、何よ」
「いや……突然だったもんで、その……」
「別に、私だってそういう日くらいあるわよ!!」
「そうなの、か……」
「そうよ!」
見藤に対して、素直に愛情を示したことが気恥ずかしくなったのだろう。霧子はぷりぷりと頬を膨らませている。
――あぁ、その、ころころと変わる表情に惹かれたのだと、見藤は少し困ったように微笑むのだった。




