13話目 過去編 心情、血煙を上げる③
少年が村に戻ると、直感的に感じた違和感。怪異を村に囲うための呪い――、制約が消えている。そして、村の中に囚われていた怪異はこの機に乗じて逃げおおせたのか、悉く姿を消していた。
それほどまでにこの祟りは凄まじいのか、と少年は赤黒く濁る空を見上げて眉を寄せた。
少年は息を切らしながら村を駆ける。村人の様子は一変していた。
村人達は何も知らず、気付かず。ある者には浸食するように病が襲い掛かる。はたまた、祟りという負の気に当てられ狂気じみた表情を浮かべる者。そして、倒れ込んでいる者。
村人に目もくれず、少年は走り続ける。少年には最早、人がどうなろうがどうでもよかった。
そうして、息も絶え絶え。離れ座敷に帰り着くと、庭に佇む牛鬼の姿が目に入った。その背中は広く、どこか哀愁を漂わせている。
少年は肩で息をしながら、牛鬼に声を掛ける。
「おい……、そこで何を」
すると、少年に気付いた牛鬼は振り返った。牛鬼の表情は、とてつもなく申し訳なさそうな顔をしていたのだった。少年にはその表情が何を意味しているのかは分からない。
不意に、牛鬼が少年の名を呼んだ。久々に呼ばれた自身の名に、少年は目を見開く。
少年が牛鬼に知られたくなかったこと。それを牛鬼は元凶となる人から聞いてしまったのだ。これ以上、少年の自尊心を傷つけることはしたくない、と牛鬼はその口を閉ざすのだった。
だが、牛鬼の心情を知らない少年は怪訝に眉を寄せ、口を開く。
「なんでそんな顔をしてる……こうなったら、もう逃げるしかない。早く、行こう」
少年は考えたのだ。この村は祟りと悪神の澱みによって存続できないだろう。それならば、祟りを引き起こした原因である牛鬼を本家の人間に消される前に、共に逃げればいい、と。村を囲っていた制約さえなければ、あとは牛鬼を連れ出すだけだ。外へ繋がる道は後々に探せばいい――。
少年は一向にその場から動こうとしない牛鬼の手を引く。――刹那、手が水のようなもので濡れた感覚があった。はっ、とし恐々としながらも、少年は己の手を見る。その手は真っ赤に染まっていた。
そして、視線を上げると――――、牛鬼の手首から先が、なかった。手首であった場所からは、間隔をあけながら滴る、血。少年が視線を落とせば、目に入ったのは血溜まりだった。現状の理解が追いつかず、言葉を失う少年。
そんな少年の耳の届くのは、牛鬼の穏やかな声。
「掟だ」
「なんの」
やっと絞り出した声は掠れていた。
――少年の問いに答えたのは、牛鬼ではなかった。
「牛鬼は人間を助けると、その身代わりとして死んでしまう……。そうよね?妖怪には『死』が存在するもの」
「霧子さん……?」
少年が名を呼ぶと、霧子は少年の背後に佇んでいた。彼女は少年を守るように寄り添う。
牛鬼の祟りにより、少年の望みは叶う。そして、少年は縛られていたものから解放される。それは少年を助けた、ということになるだろう。そして、それは「掟」に引っ掛かってしまったのだと牛鬼は語った。
「掟」とは、霧子が言った言葉通りなのだろう。少年を助けた身代わりとして、牛鬼には死が訪れる。それは突然の別れを意味する。
そして、それを勝手に決断し行動を起こした牛鬼に対して言葉にできない怒りと自分自身の力不足、情けなさ、様々に混ざり合った感情が少年を襲う。
「そんなこと、一言も……っ!」
「言う訳がないわ、君に……心配かけたくないもの」
霧子の言葉はまさに牛鬼が少年に抱いている思いだったのだろう。彼は静かに少年を見つめている。その間にも、滴る血は地面に作る血溜まりを大きくしている。
「元々、儂の体は限界だった。受けた恩以上の物を返してしまっていた」
そう話す牛鬼に、あの話は嘘ではなかったのかと少年は問う。
受けた恩以上のもの、それは少年を育て続けたことだろうか。ならばそんな恩など返さなくてよかった、ただ一緒にいたいと願うこともできないのか、と唇を噛み締める。もう、口の中に広がる血の味にも慣れてしまった。
「怪異は嘘をつけない。嘘をついてしまうと、そうならなくてはいけない。人で言う言霊だ」
牛鬼は静かに、そして穏やかに言葉を続ける。
「いいか、坊主には酷なことだと思うが……。人は人の中でしか生きられない。その中でほんの少し……少しの幸せでいい、それを見つけなさい」
―――― 君の幸せを願おう
徐々に滴る血の速さが増していき、そう言い残して牛鬼は消えてしまった。いや、厳密に言えば足元にある血溜まりになってしまった。血溜まり以外何も残っていない。
「はっ……」
少年は息を吐くのがやっとだった。
目前で起きたこと、頭では理解しているが心は拒絶する。最後の、穏やかな表情をした牛鬼と相反するように、徐々に体が血となり溶けるように崩れていく瞬間が脳裏に焼き付いて離れない。
受け入れられない、受け入れたくない。少年は、ただその場に立ち尽くしていた。
徐々に、少年の呼吸が短くなっていく。はっ、はっ、と酸素を上手く吸えず、頭が朦朧としてくる。それは過呼吸の症状だ。思わず、ぎゅっと目を瞑り、時が過ぎるのを待つ。そうすればいつも嫌なことは終わっている、そのはずだ。
しかし、いくら時間が経とうとも、瞼を開ければ目に入る、血溜まり。目の前が真っ暗になりそうだった。
――すると、手首を掴む少し冷たい体温に意識を引き戻される。視線を上げれば、そこには霧子がいた。
「行こう」
霧子の力強い意志を宿した視線と目が合う。その視線に、はっと息を呑み現実を目の当たりにする。
――牛鬼はいない。
あるのは村を呑み込んだ澱みと祟りに侵された大地、そして悪神。――ここから離れなくては、頭では理解しているのだ、少年はなんとか体を動かした。
少年は霧子を連れて一度、離れ屋敷へ立ち寄った。もとより村を出る用意はあったのだ。本家から幾らか、くすねた金と必要最低限の荷物を背負い、少年と霧子は村を出た。




