2話目 奇妙なアルバイト 〜 依頼人 〜
改稿版
そうして、夕暮れに差し掛かる。霧子が告げていた時刻が迫る。
見藤と久保は給湯スペースに並び立ち、来客準備に追われていた。見藤は器用に、べっこう飴を作っていく。宝石の琥珀のような透き通った黄色や茶色の飴が並んでいく。
久保は来客準備と言われた手前。その光景の奇妙さに思わず、呟く。
「べっこう飴……?」
「そうだ。怪異の好物を用意しておくのも、ことを円滑に進めるひとつの手段だな」
「へぇ……」
すると、そこへ鈴の鳴るような声が響く。
「ごめんください」
事務所の入り口から声がした。久保と見藤が扉の方を振り返る。そこに佇んでいたのは、小柄な女性だった。
もうすぐ初夏が近付くというのに、彼女はベージュのトレンチコートを着ている。腰まで長く伸びた黒髪も印象的だ。
そして、何より目を引くのは、顔の半分を覆う大きな白いマスクだった。まるで何かを隠すように、異様な存在感を放っている。
「どうぞ、いらっしゃい」
見藤が落ち着いた声で迎え、彼女を応接スペースへ案内した。久保は茶盆を手に後を追い、胸にざわつく好奇心を抑えきれなかった。
――この女性が怪異なのだろうか? そんな疑問が頭をよぎる。霧子が話していた「友達」とは、彼女のことで間違いないだろう。
彼女がソファーに腰を下ろすと、見藤も対面に座った。久保はお茶とべっこう飴をテーブルに置き、そっと同席した。
先に口を開いたのは見藤だ。
「霧子さんから聞いてるよ。いい茶菓子がないもので、すまんね」
「大丈夫よ。お茶、頂くわ。それに、私。べっこう飴は好物なの」
彼女は短く答え、慣れた手つきでマスクを外した。―― その顔を目にした久保は言葉にならない悲鳴を上げる。
その拍子に、ソファーから跳ね上がった。しかし、見藤が持つバインダーで頭を叩かれ、今度はソファーに座る。
「…………!? 痛っだい!!」
「こら、失礼だろう」
痛みに悶える久保と相反するかのように、見藤は平然としていた。彼の冷静な声に、久保は慌てて座り直す。顔を赤らめ、言葉を探す。
すると、彼女は小さく笑い、どこか懐かしむような目で久保を見た。
「まぁ、驚くのも無理ないわね。それに――、懐かしい反応だわ」
彼女の両頬には、大きく縫合された傷跡が走っている。まるで口が耳まで裂けた後、無理やり縫い合わせたかのような痛々しい痕。赤くただれた皮膚に、抜糸されていない糸が異様に目立つ。
怪異からの依頼。と、するとこの女性は ――。久保は辿り着いた答えを口にした。
「口裂け女…………?」
口裂け女は都市伝説における怪異の一種だ。怪談やオカルト話、誰もが聞いたことがある有名な話だろう。一時期は社会現象にまで発展したが、現在では口裂け女の怪談は噂にも聞かない。
すると、彼女は鋭い視線を向け、ぶっきらぼうに言い放つ。
「本当に失礼な子ね。本当はその呼ばれ方、好きじゃないのよ」
女性はぶっきらぼうにそう返し、久保をきつく睨んだ。その迫力は凄まじい。久保は思わず体がすくんでしまった。
彼の素直な反応に、すかさず見藤は彼女に謝罪を入れた。
「いや、ほんと……うちのがすまんね」
「別にいいわよ。でも、まぁ……、まだ私のことを知っている人間もいるのね」
そう呟くと、彼女は少し表情が柔らかくなった。しかし、久保は彼女の声に、どこか寂しげな響きを感じる。
久保は動揺を隠せなかった。あの都市伝説が、目の前に実在している。だが、彼女はただ恐ろしい存在ではなく、どこか人間らしい感情を持っているように思えたのだ。
すると、見藤が静かに口を開く。
「君が認知で怪異を視ることができるように、例えば ――。都市伝説に由来する怪異は人々の認知によって存在を左右される」
人々の認知、それは大衆にどれだけ名前、その存在が知られているのか、ということらしい。言わば「集団認知」だ、と見藤は語った。彼はその先の言葉を続ける。
「よって、時代と共に新たに生まれる怪異もいれば、反対に消滅する怪異もいる」
「妖怪も似たようなもンだ。名に力が宿る。だから名は重要なんだぞ、新人! 俺が又八なんて名で呼ばれたくねぇ理由だな」
ソファーの隅で尾を揺らす猫宮が会話に割って入ってきた。その言葉を聞いた久保は、故に猫宮が飼い猫のような名前で呼ばれることを嫌うのか、と腑に落ちた。
そして、猫宮は久保を見据えながら、言葉を続ける。
「怪異が消滅することは、人間でいう死ぬことと同じだろうな。ただ、その肉体は遺らない。名前も存在も忘れ去られていく。そうなる前に、見藤に助力を求め、ここへやって来る怪異は少なくない」
見藤が事務所を構える理由。それは怪異にとっても、最後の拠り所なのだろう。
――久保の胸に、湧き上がる感情。人に関心を寄せない見藤は、怪異に心を砕く。得も言われぬ感覚を初めて抱いた。
すると、猫宮は寝そべりながら、気だるげに続ける。
「存在が消える前に、常世へ移る怪異もいる。そこなら人の認知に縛られず存在できる。中には人間社会に溶け込む奴や、事件を起こして認知を広めようとする奴もいるけどなァ。事件を起こせば噂が噂を呼んで、勝手に認知は広まる」
「喋りすぎだ、猫宮」
見藤は猫宮の言葉を遮った。解説を終えた猫宮は満足そうにソファーに寝転び直し、短い前脚で顔を洗っている。
すると、猫宮の説明が終わるのを待っていたように、彼女――口裂け女は語り始める。
「そうね、だから私。常世へ渡ろうと思うの……。霧子のような友達に会えなくなるのは寂しいけれど……消えてしまうよりいいもの」
「分かった、手配しよう。……霧子さんには?」
「最後に会ってきたから大丈夫。優しいのね」
見藤と交わされる会話。久保は耳をそばだてた。――口裂け女である彼女と友人関係という霧子は一体何者なのだろうか。そんな疑問が浮かぶ。
もしかすると――、霧子も怪異なのだろうか? そんな疑問が脳裏をよぎるが、場の空気を乱すのは憚れ、口を閉ざした。
◇
夕陽がさらに深まり、事務所を赤く染める。
見藤はローテーブルへ一纏めにされた小冊子を置き、口裂け女にペンを渡した。
「それじゃ、ここに名前を」
「分かったわ。私の名前、預けるわね。夕子よ、よろしく頼むわ」
口裂け女 ――、彼女の名は『夕子』と言った。彼女はそんな大切な名を、見藤に預けたのだった。
口裂け女は丁寧に、しかし、どこか寂しげに「自分の名前」を書き込んだ。それは可愛らしい字だった。ペンを置くと、彼女はふっと目を細めた。
「この名前を貰ったときのことを思い出したわ。向こうに逝けば、その人に会えるのかしら」
「さぁ……、探してみるのもいいかもしれない」
「そうね、ありがとう」
口裂け女の声は穏やかだった。彼女の柔らかな表情には、別れの遠い記憶が滲んでいるようだった。
久保は目の前の光景を、息を潜めて見守る。
猫宮の話からも察するに、怪異が「名前」を持つことは珍しいのだろう。ましてや、人から贈られた「真名」は特別だ。だが、常世へ渡るには、その名前を捨てなければならない――そんな話を、久保に耳打ちする猫宮。
「常世は不変な世界だ。人の認知の力は及ばない。常世は現世から逃れた怪異たちが行き着く場所でもあるんだ。だがなァ、不変な世界であるが故に、時間と共に変化する人間から贈られたものは常世へ渡ることができないンだ」
ふぅ、と小さく溜め息をついた猫宮。
――常世、それは「あの世」と呼ばれる死後の世界。猫宮の言葉に、久保は息を呑んだ。
見藤が書かれた名の上から角印を押す。すると、不思議なことにペンで書かれていたはずの「夕子」という文字は消えてしまった。
久保は驚き、目を見開く。それはまるで当たり前の儀式のように、ことは進む。
見藤は文字が消えたことを確認すると、頷いた。
「はい、確かに頂戴した。猫宮」
「はいよ。送り届けて来るぞ」
見藤に促され、猫宮がのそりと立ち上がる。怪異たちが行き着く先、常世の入り口まで案内するようだ。それもまた、猫宮の役目なのだろう。
口裂け女が事務所を後にしようと、立ち上がる。そこで不意に、見藤を見やった。
「霧子があんなに話すから。どんな人間かと思ったけど、悪くないわね」
「寧ろ、霧子さんには振り回されているよ」
「ふふっ、それもそうね」
二人の会話は軽い調子だ。霧子を通して、何か深い繋がりがあるように感じられたが、久保は理解できないまま、ただ彼らを見つめるしかなかった。
見藤が事務所の入り口の扉を開け、口裂け女を見送る。彼女は軽く会釈をして一歩、踏み出した。その足元をのそのそ歩く小太りの猫。
夕暮れの光に溶ける。まるで都市伝説が静かに幕を閉じるかのようだった。―― よって、ひとつ。都市伝説と怪異が研文から姿を消した。
事務所に静寂が戻る。見藤は扉を閉め、久保を見やると口を開く。
「まぁ、これが俺の本来の仕事だと思ってくれ」
「はぁ……、不思議ですね」
「ふっ、そうだな」
久保はこうしてまたひとつ、奇妙な世のことを知った。