12話目 過去編 霧の中の逢瀬
そうして秋。村を囲う山々により、一帯は他よりも気温が少しばかり低い。すでに朝夕は新涼の空気が村を満たしていた。次第に山の木々は花紅葉となり、少年にも変化が訪れる――。
いつものように、少年と牛鬼は囲炉裏を囲んだ団欒のひと時を過ごしていた。会話の中で、少年は声が掠れ、音の調子がとれないことを打ち明けていた。
「喋りづらい……」
「人で言えば、それは大人に近付いているということだ。必然的な成長だ」
「うぇ……」
少年が知る大人は村人だけだ。欲深く、狡猾に人を搾取し、利用する。本家と分家という身分を当然のように口にする――、そのような大人になど、なりたくもないと思うのが妥当だろう。
しかし、何故か牛鬼は少年の成長をしみじみと語っている。まるで子が大人へと成長することを喜ぶ親のようだ。
先程から、少年は試しに声を出そうとするが、音が掠れて上手くいかない。これでは祝詞も唱えられないのではと思い至り、本家から呪いを行うようにと呼ばれても拒否できると、したり顔をしている。
だが、その一方で牛鬼は気掛かりがあるのか。その表情は険しく、何かを考えるような仕草をする。
(人の欲深さは恐ろしいからな、何を考えるか分からん……)
牛鬼は、どうか杞憂であって欲しいと切に願った。
◇
それから、しばらくして。村の周辺は霧が立ち込めるようになった。季節柄、霧が出やすい時期ではある。もちろん、鳥居がそびえ立つ例の山も霧に覆われることが増えた。
昔はこれほど毎日、霧に覆われることはなかったと話す牛鬼。少年にとっては大人達から身を隠せるので好都合。村を脱走し山を駆けずり回る、そんな日が続いた――。
その日は、いつになく濃霧が山を覆っていた。しかし、そんな濃霧の中でも少年はいつものように山の中を駆けて行く。
すると、霧の中に揺れる人影を目にした少年は咄嗟に足を止め、身構える。
「ん?」
連れ戻しに来た村人かと注視していたが、その人影は亭々たる大きさだった。人影が何なのか確かめようとしたが、その日はそこで霧が晴れたため、村に帰ることにした。
次の日も、霧の中に人影を見た。少年は不思議に思い眺めていると、人影はどこかへ向かっているようだ。――あの山頂の鳥居の方だ。少年はあの鳥居の先、更に奥地にある祠に存在するモノを知っている。
少年は咄嗟に追いかけ、亭々たる大きさをした人影に声を掛けた。
「あんた! あの鳥居には近づかない方がいい!!」
少年の切羽詰まった声に驚いたのか、影が震えたのが見て取れた。少年は怖がらせたのかと思い、今度はなるべく優しく声を掛ける。
「あの、危ないから」
「私が視えるの……?」
「ん?」
そう答えた声は澄んだ女の声だった。
少し涙声のような気がして少年は首を傾げた。すると、霧の中から人影が這い出して来るように視えた。今更、妖怪や怪異がどう姿を現そうと、それに驚く少年ではない。亭々たる影は、まさに長身の女の影だったのだ。
首を傾げながら見上げる少年に女は「あっ」と気付いたように声を漏らすと、体をもたげ、人の姿を模ったものに変えた。どうやら、人の姿に化けられる怪異のようだ。
そのとき、長い黒髪と白地のワンピースの裾が少しだけ揺れた。人の大人より背が高いが、先程と比べると見上げる首の角度は楽になったというものだ。そして、霧の中から現れた女は、少年から見て――とても美しかった。
(こんな場所に……、人里から逃れた妖怪か?いや、新たに生まれた怪異かもしれない)
彼女はこの山を彷徨っていたのだろうか、と少年は思い至る。
見るからに彼女の黒髪は痛み、身に着けているワンピースは土で汚れ、裾は破けている。だが、彼女の美しさは少年にとって目を奪われるものだった。
きっとそれは彼女が纏う儚げな雰囲気と、それに相反するかのように滲み出る内面的な美しさによるものなのだろうか――、少年はその感覚を言葉にするには幼かった。
目の前に佇む女怪異を見上げながら、少年は少しだけ微笑む。
「ありがとう。少し首が楽になった」
「そう」
「とにかく、あそこには近付かないでくれ」
「どうして?」
「……、人のせいで山神が悪神に堕ちかけている。だから、怪異であってもその影響を受ける。あんたも近付かない方がいい」
少年は人である己がそう説明するのも可笑しな話だ、と今度は皮肉な笑みを浮かべる。
「あぁ、あと……この山の麓にある村にも近付かない方がいい。あそこは、怪異が一度入ると出られないから。それじゃ」
それだけ言い残し、少年は下山したのだった。
あの美しい女怪異は見たことも、牛鬼の話でも聞いたことのない怪異だった、不思議なこともあるものだと、少年は考えながらその日を終える――。
◇
そして、翌日も霧が出ていた。霧が出る朝の空気は清々しく、少しだけ肌寒い。
少年は胸騒ぎがして、山ではなく村と麓の境を駆けていた。はたと視線を遠目にやると、濃霧で分かりにくかったのだが、なんと村のすぐ傍まで来ていたのだ。
少年は足を速め、ゆったりと歩みを進める亭々たる人影に向かって声を掛けた。
「あんた! 村には入るな! 昨日言ったばかりだろ!」
思わず少年はそう叫び、霧の中に佇む女怪異の手を引いた。
すると、彼女は昨日と同じ背丈に姿を変え、目をぱちくりさせている。彼女の長く伸びた前髪がはらりと顔から落ちた。
少年はそんな彼女の表情が可愛らしく思え、怒る気力も削がれた。溜め息をつきながら、村人に悟られていないかどうか、周囲の様子を確認する。
「はぁ……とりあえず、こっち来て」
少年はそう言うと手を離し、先導するように先を歩いた。
少年が彼女を案内したのは、山を駆けずり回っている最中に見つけた、身を隠せる小さな洞穴だった。少年は到着してから思い至ったのだが、この洞穴の大きさでは長身である女怪異にとって、身を隠すにはとても小さい。
少年はどうしたものか、と首を捻る。すると、彼女は特に気にする素振りもなく、器用に身を縮めて洞穴に収まってしまった。
「……」
そんな彼女を可愛らしいと思ってしまった。少年はそう場違いに思ってしまった己を恥じ、眉間を押さえる。だが、今はそのような場合ではないと首を横に振った。
少年が身を隠す場所はないが、彼女の前に膝をついて事情を説明する。
「あの村の人間は大抵、怪異が視える。あいつらは怪異や妖怪が目につくと、妖怪封じなんかを使って捕縛することだってある……」
「どうして……?」
「捕まえて呪いの贄にする。だから――」
―― 近付かないでくれ、少年はそう言おうとした。
しかし、彼女の顔があまりに悲しみに溢れていて、少年はそれより先の言葉を口に出来なかった。――正直に事情を話し過ぎたのだろうか、怖がらせてしまったのだろうか、と頭の中で色々な思考が巡り、口を閉ざしてしまった。
すると、彼女は小さく言葉を溢した。
「君はなんで毎日山を駆けてるの?」
「ん?」
それは口数の少ない彼女からの問いかけだった。
少年は彼女と言葉を交わすことに、少しだけ胸を膨らませる。そして、周囲に人の気配がないことを確認すると、洞穴の前に胡坐をかいて座わった。
――そうして、少年はかいつまんで事情を話す。




