11話目 過去編 幽愁暗根
過去編、始まります。
木々が生い茂る森の中を走りながら、無我夢中で前進する。頬が葉で切れ、木の根に足が取られ、転げそうになったとしても足を止めてはならない――。少年は己の胸の内にそう言い聞かせ、不意に振り返る。後を追いかけている足音と影が増えている。
少年は悪態をつく。
「くっそ、今日も無理か……!」
所詮、子どもの足ではそう遠くへ逃げられない。突然、腕を引かれ体の自由を奪われる。
少年は相手を睨みつけるが、心底嫌そうに睨み返された。少年の腕を掴み上げ、片手に縄を持つのは中年の男だった。その後ろから、何人もの人影が茂みから姿を現す。
すると突然に、男は怒鳴り声を上げた。
「今月で何度目だ! こっちも迷惑してるんだ、村から出ようなんてするな。無駄だ」
「うるせぇ、この糞野郎が」
「おい、その目を向けるな! 気味が悪い……」
そう言い放つ男の忌々しそうな視線の先にある少年の眼は、深い紫色をしていた。少年が顔を逸らすと、日の光が反射し、藤の花のような淡い色に変える。――なんとも不思議な眼だった。
男が早く歩けと言わんばかりに、少年の背中を小突く。その不快感と苛立ちから、少年はせめてもの抵抗で舌打ちをする。少年は無理やり軽トラックに押し込まれ、頭をぶつけた。恨めしそうに男を睨みつけると、今度は頭を拳で叩かれる。
少年は鈍い痛みに耐えながら、頭の中では強かに次の脱走計画を練る。
(まぁ、今日は想定内の時間だな。もう少し道筋を考えないと、この村からあいつを連れて出られない)
――そうして、少年の脱走劇は幕を閉じ、再び村に連れ戻された。
◇
村に戻ると、あちらこちらに浮遊する認知の残滓、怪異の姿がある。人に似た姿をした者、異形の姿をした者、その姿形は様々だ。すれ違う村人は平然と言葉を交わしている。――ここの村人達は怪異を視ることに長けている。
村では、奇々怪々なことに人間と怪異が共に暮らしていた。ただ、少年にとって共に暮らすと言う言葉は語弊がある。少年はその光景を愁いを帯びた表情で眺めていた。
村の中心部には大きな屋敷がある。敷地の中にはいくつもの蔵が建っており、この辺鄙な村の中で随一の権力を誇っていることが建物からして分かる。
一行が立派な石垣に構えられた門をくぐると、上等な着物を着た初老の女が待ち構えていた。この屋敷の女主人だ。少年の姿を目にした女主人の表情は厳しく、口元を歪ませている。
だが、少年を連れて来た男に話し掛ける時には、その形相はなりを潜め、柔和に声を掛けたのだった。
「手間をかけて申し訳ないね」
「いやぁ、見藤さん。こいつの躾をしっかり、お願いしますよ」
「私も困っているのよ、反抗期かしらねぇ。まぁ所詮、分家の子どもだから育ちが知れていて……。ごめんなさいね」
少年はそんな会話をしている大人達を辟易として見やる。すると、不意に女主人と視線が合い、突然に怒鳴られた。その少年は眉を寄せ、反抗的な態度を取るのが精一杯だった。
◇
そうして、少年は屋敷に連れ戻された後。女中に無理やり風呂へ入れられた。一人にしてくれと言ったとしても、その脱走癖故なのか聞き入れられない。
少年は身を清めた後、上等な着物に着替えよう言いつけられた。そして、とある部屋に呼びつけられる。
少年は女中に連れられ、呼ばれた部屋に赴く。そこは昼間だというのに薄暗く、蝋燭の炎が怪しげに揺らめいている。そして、廊下と比べて空気が冷たく、煙たい。
(また、香か……。相変わらず、煙たい)
少年は疎ましそうに眉を寄せる。香の匂いに咳き込み、顔を顰めた。煙が肺に纏わりつき、呼吸を浅くする。
畳には和紙と筆、酒、動物の死骸など、不思議な道具が並ぶ。その傍には、女主人が鎮座していた。
少年は一瞬、躊躇する。しかし、女中に促され、畳に膝をついた。
女主人は少年を見やると、冷たい視線と声音で彼を呼びつけた理由を告げる。
「これを呪いの贄に」
「…………」
無言の拒否。しかし、女主人には通用しないようだ。彼女は再び口を開く。
「やらねば、お前が大事にしている――、あの化け物はどうなる? それとも、今日のように自分だけ逃げるかい?」
それは脅しだ。少年は声を捻りだす。
「下衆が」
「本当に躾がなってないねぇ。分家の者は」
「……っ」
少年は不意に左頬に熱を感じ、打たれたのだと気付くには少し時間がかかった。奥歯を噛みしめながらも、目前の怪異に視線を落とす。
女主人から差し出されたのは小さな怪異。認知の残滓であれば、空間を漂うだけの苔のような存在だ。だが、この怪異は既に自我を持ち、一個体として成立している。それを「贄」と呼ぶのだから、求められていることは想像できるだろう。
自然の摂理を無視した人の介入によって、その存在を消滅させる。それは少年の意思に反していた。
だが、大切にしている者を引き合いに出された以上、拒否する術を持たない。胸の内に渦巻く、不快感に眉を寄せることで精一杯だった。
(……この村の連中は異常だ)
少年はこの村が異常であることを理解している。
村の外では呪いなど、とうの昔に廃れていることを知っている。しかし、この村では日常に呪いが溢れている。なんなら、村の外部から依頼を受け、それによって莫大な富を得ていることも知っていた。
もちろん、この村ではその依頼内容が人道に反していようがお構いなしだ。寧ろ、そういった依頼内容であればあるほど報酬は弾む。
(人の欲深さは底知れない……)
少年は震える手を、小さな怪異に伸ばした。心に、懺悔と悔恨を抱えながら――。




