10話目 百足の虫は死して僵れず
夏の暑さも山場は超えただろうか、この忙しさも。もうすぐ夏休みがあけてしまう――、久保はそんな事を考えながら、この日も見藤の事務所へ足を運んでいた。
事務所の扉が見えてきた。しかし、普段と様子が違うことに首を傾げた。
「なんだ……?」
事務所の外まで響く、騒ぎ立てる声。その声は怒りを露にしているようだ。
久保が訝しんでいると突然、事務所の扉が乱暴に開け放たれた。久保は驚き、慌てて廊下の隅に寄って、体を固める。すると、扉の近くに人がいようがお構いなしとでも言うように、声を荒げながら事務所から人影が姿を現す。
「お前なんぞには頼まん!」
「そうされるのがよろしいかと。うちでそういうことは一切取り扱っておりませんので」
「時間の無駄だったわ!!」
「お帰りはあちらになります」
「分かっとるわ、このペテン師が!!!」
「ははっ! おたくらの二枚舌には及びませんよ」
事務所の中から見藤の声が聞こえる。彼はいつにも増して丁寧な口調ではあるが、その声音は怒りを滲ませていた。
久保の目の前に現れたのは、頭頂部が寂しい小太りな高齢男性だった。彼は憤慨した様子で、立ち去っていく。その身なりは、久保が見ても上等な物を身に着けていた。その後ろをもう一人、スーツを着た男が鞄を持ち、そそくさとついて行く。そして、扉が大きな音を立てて閉まった。
―― あの小太りな男。どこかで見たような気がする、と既視感を覚えた久保は怪訝な表情を浮かべる。
「なんだ、あれ……」
そして、久保は思わず前抱きにしていたリュックを力強く抱き寄せる。―― 目にした光景は、何やら不穏な雰囲気だった。知らない所で、見藤はあのように横暴な客の相手もしているのだろう。
少なくとも、久保や東雲が事務所を訪れる際に、不穏な場面に遭遇することは一度もなかった。それは見藤なりの気遣いなのだろうか、そう思うと早く見藤に会いたくなった。
久保が事務所の扉を開くと、予想通り。いつにも増して眉間に皺を寄せた見藤が塩を片手に握りしめ、今にも扉に向かって撒こうとしていたのだった。
久保に気付いた見藤は振りかぶった腕をぴたりと止め、口を開く。
「お、久保くんか。いらっしゃい」
「わ!? ちょっと待って! 今それ、撒かないで下さい!」
「丁度いい。君も塩を撒いとけ、塩」
そう言うと見藤はもう一袋、塩がたっぷり入った袋を久保に渡した。
見藤は先ほどの男が帰って行った方角へ、これでもかと怒りをぶつけながら塩を撒いていた。その様子に思わず久保は――。
(何があったんだ……)
心の内に呟いていた。
そんな久保の疑問に答えるかのように、ふと後ろから声が掛けられる。
「稀にいるのよ、ああいう人間」
「あ、霧子さん」
久保が振り返ると、そこに佇むのは眉を下げた霧子だった。
彼女は頬に手を当て、困ったように話し始める。やはり、何かあったのだろうと、久保は手にしていた塩の袋を握り締める。
「こいつの呪いの噂を聞きつけて、人に呪いをかけて不幸にして欲しいとか、酷いときには相手を呪い殺して欲しいとか。そういう勘違いした輩がね、稀にいるのよ」
霧子の言葉に久保は嫌悪感を露にし、眉を寄せた。
見藤の呪いは、人の不幸を願う人間の為に使われてはならないのだと、久保は知っている。恐らく、珍しく個人から依頼の相談を受けた見藤を、霧子は心配して事務所を訪れていたのだろう。そして、その懸念は的中したのだ。
「別に。そんな奴は適当にあしらえばいい。呪いの何が本物で何が偽物か、分別もつかない。その程度の連中だ。……不愉快極まりない爺だった」
「まぁ、私に茶を出せだの、近くに来いだの。言いたい放題だったわね」
「思い出すと腸が煮えそうだ……」
見藤は悪態をつきながら、塩を撒いている。
霧子の言葉を聞いた久保は、見藤の心情を察すると溜め息が出たのであった。
―― 見藤からすれば、傾倒している霧子をあたかも女中のように扱われ、誰がいい気がするというのか、という話だ。相当、あの小太りな男は横暴な態度を取ったのだろう。最早一周回って見藤の手が出なかったことが幸いか、と久保は溜め息をついた。
「はぁ……見藤さん、よく我慢しましたね」
「あぁ、俺も自分を褒めてやりたいよ。まぁ……、嫌なものを見せてしまった。すまないな」
久保の言葉に見藤は鼻を鳴らしながら、最後と言わんばかりに豪快に塩を撒く。その次には、久保に気を遣わせたと謝罪を入れたのだ。
久保は首を横に振りながら、ふと抱いた既視感を口にする。
「あのお爺さん……どこかで見たような気がするんですけど……」
「ん、あぁ。どこぞの政治家だよ。最近テレビでよくやってる」
「あぁ! あの、セクハラと裏金問題の」
既視感の答えを得た久保は大きな声を上げたが、すぐに怪訝な顔をした。
それにしても、そのような人物が呪いなどという奇々怪々で不確定なものを頼りに訪ねてくるとは不可解だ――。そんな久保の疑問を予測していたのか、見藤から答えが返ってきた。
「昔は政と呪いは切っても切れない関係だった。ごく一部、表には出せないが……それが現代でも続いている」
そう言うと見藤は満足するまで塩を撒き終えたのか、袋を仕舞い始める。久保もそれに倣い少しだけ塩を撒いた後、袋を仕舞った。
その袋を見藤に手渡した後、久保はふと思ったことを口にした。
「なんだか……因習のような感じですね。因習って聞くと途方もない田舎にある村のイメージがありますけど、どこにでもあるんですね」
少し前にそんな映画が流行って――、とそんな久保の何気ない会話の一言だったのだが――。見藤の纏う空気が冷たいものに変わった。
咄嗟に久保は口を噤む。何かまずいことを言ったのだろうか、と久保は見藤の顔色を伺う。
「そうだな」
しかし、そう端的に答えた見藤は普段通りだった。――あの空気は一体何だったのだろうか、と久保は戸惑う。
久保の戸惑う雰囲気を察したのか、見藤は「いや、悪い」と短く断りを入れた。そんな様子を見ていた霧子は、何か思うことがあるのだろうか。彼女は少し寂し気な表情を浮かべながら、じっと見藤を見つめていた。
その時間は一瞬だったのだが、久保には不思議とどこか長く感じられた。そんな微妙な空気感を変えようとしたのか、見藤はわざとらしく咳ばらいをしてから口を開く。
「あぁ、そうだ久保くん。明後日は空いてるか?」
「はい、大丈夫ですよ」
「依頼が入ったんだが……そいつが少し癖のある奴でな。同行してもらえると、助かる」
「煙谷さんですか?」
「いや、あいつじゃない。別の奴だ」
見藤の口ぶりからするに、これまでも何度か依頼を持ち込んだ人物のようだ。
そして、見藤は「あまり個人からの依頼は請け負いたくない」そう話していた。その心情を覆す理由があったのだろうか、久保は疑問と好奇心で埋め尽くされたのだった――。




