89話目 終幕、幾星霜
数か月後――。
久保は日常に戻ることを余儀なくされた。満たされていた日々は唐突に終わりを迎え、胸にあるのは喪失感。
喪失感を誤魔化すように、学業に明け暮れる日々。気付けば、大学卒業を見据えた時期に差し掛かっていた。それは怪奇な事務所での出来事を忘れさせるかのように多忙だった。
真新しいスーツを身に纏い、履き慣れない革靴で路上を行く。それを繰り返すうちに、怪奇な事務所の助手をしていたことが、どこか現実ではないような錯覚を抱かせていた。
それは夕暮れ時。雑踏する人の流れから離れるように、集まった学生たち。
「お疲れ~」
「はい、お疲れ」
セミナーを共にしていた友人の一声を皮切りに、久保は同じように声を上げた。他数人は帰路に着こうと、それぞれの方角を向く。簡単に言葉を交わして、分かれる者もいた。
すると、隣にいた友人は片手間にスマートフォンを操作しながら、声を上げる。
「これからどうする? 久保は?」
「うーん……、特に予定はないかな」
「適当に飯でもいかね?」
「賛成」
久保は端的に答えると、自身もスマートフォンを見やる。新着メッセージは東雲からだった。それは彼女の近況を知らせるもので――。
ぽつりと呟いた言葉は羨望に満ちていた。
「そっか、東雲はそっちに決めたのか……」
すると、友人が顔を上げて、じっと手元を見やっている。久保はその視線を追うと、自身のスマートフォンに注がれていることに気付く。視線そのままに、首を傾げて尋ねた。
「ん? ちょっとした連絡だよ。何?」
「そう、その子さ。よく一緒にいたじゃん」
「ああ、バイト先が同じだったからね」
「へえ……。その子、今はどうしてんの?」
要領を得ない会話に、久保は徐々に表情を曇らせる。だが、言葉の先を口にした。
「連絡は取り合ってるけど……、あまり詳しくは――。何?」
「いやぁ、紹介してくれたりしないかなって。彼女いない歴更新中の俺からすれば羨ましい限りで」
「はぁ……、駄目」
「え、お前らそういう感じ?」
深い溜め息をついた久保は、じっとりとした視線を向けた。
思い出すのはこじれた恋模様と、この世の摂理さえも超えた二人のこと。それを目にすれば色恋沙汰など、しばらくは遠慮願いたと思うものだ。
久保が口にした言葉は率直なものだった。
「違う。面倒だな」
「うわ、久しぶりに聞いた! 久保の毒舌」
「茶化すなよ」
咎めるような視線を送るも、大して効果はないようだ。久保は雑踏する人の流れに視線を向ける。そうすれば、この煩雑な気持ちも多少は紛れるのでないかと考えた。
(こんなにも人と話すのって、疲れたっけ……)
不快な疲労が押し寄せる。心のどこかで、見藤たちと過ごした日々を渇望している自分がいるのだと、自覚するには十分だった。――最後が、喧嘩別れのようになってしまった後悔が燻る。
久保は友人に気付かれないよう小さな溜め息をつき、ふと顔を上げた。
そのとき――暁天の星の中を見出すかのように、直感が働く。視界の端を掠めた、寝癖のついた短い髪に使い古されたスーツ。
咄嗟に名前を呼ぶ。
「見藤さん……!」
弾かれたように駆け出した。自分の名を呼ぶ、友人たちの声は世界から切り離されたように遠のいていく。
雑踏する人の流れをかき分けて、見藤の背を目指した。ようやく辿り着いた彼の元。隣には寄り添う霧子の姿があった。見慣れた二人の姿に、得も言われぬ安堵を覚える。
久保は息を切らしながら、見藤に声を掛ける。だが、振り返ることはなかった。
「見藤さん! 良かった……! 帰って来てたのなら、どうして連絡くれないんですか!?」
返答はない。その違和感を覚える前に、ようやく見藤が振り返る。
「あぁ……。すまんな、実はちょっと怪我をして――。心配を掛けたくなかった」
「見藤さん、その目……」
久保は言いよどむ。目にした見藤の左目は塞がっていた。なんと声を掛けてよいのか、言葉の先が出ない。――治療中なのだろうか。ガーゼとテーピングが施されている。
ふと視線を落とせば、霧子は見藤を導くように手を繋ぎ、寄り添うように並び立っていた。霧子は久保を見るなり、そっと微笑む。しかし、彼女が何かを語ることはなかった。
すると、久保が沈黙したことに気を遣ったのだろう。見藤はいつものように鼻を鳴らしてみせた。
「生憎、目はいい方なんでな。片目でも十分だ」
どこかで聞いた台詞だと、久保は困ったように笑う。すると、それにつられるようにして、見藤は歯をみせて笑った。――その笑顔は、今まで目にしたことがないほど眩しいもので。
「元気でやれよ、久保くん。まぁ……、東雲さんにも、よろしく言っといてくれると助かる」
「そんな他人行儀な――。また、会えますよね?」
「………………そうだな」
久保の言葉に、見藤は困ったように肩をすくませる。再会を約束した挨拶は、長い沈黙の末に紡がれた。
そうして、稀有な再会は終わりの時間を迎えたようだ――。
見藤は隣に佇む霧子を愛しそうに見やる。それに応えるように、彼女は微笑んだ。見藤は霧子と繋いだ手を確かめるように視線を落とすと、そっと口を開く。
「それじゃ、俺たちはそろそろ行くとするか。じゃあな、久保くん」
「あっ……」
「ほら、あそこにいるの。君の友達だろ? 彼らが待ってる」
「見藤さん……!」
久保が引き留める間もなく、見藤は一歩を踏み出した。もう片方の手を軽く振りながら、背を向ける。霧子はそんな見藤を導くようにして、肩を支えていた。
久保は二人の背を見送る他なく――。ただ、茫然と小さくなる背をじっと見つめていた。
徐々に耳が喧騒を拾う。まるで現実から切り離されたような邂逅だったと、目を伏せる。
すると、背から掛けられた声があった。友人だ。彼は後を追って来たのだろう。少しだけ息を切らしている。
「なに? 知り合いでもいた?」
「うん……。お世話になった人だったから――」
「そう……」
歯切れの悪い返事をする友人に、久保は違和感を覚える。怪訝な表情をしながらも、その先の言葉が気になって、おずおずと尋ねた。
「え、なに?」
「いやぁ、誰と話していたか……分からなかったからさ」
「そんな訳ないだろ?」
「…………」
久保は突拍子もない答えに、笑ってみせる。――先程まで、確かに見藤と言葉を交わしていたのだ。この友人は雑踏する人の流れに気を取られ、見藤の姿を目していないだけだ。そう、思い至る。彼らの沈黙がやけに重たく感じられたのは気のせいだと、そう言い聞かせた。
久保ははたと思い至ることがあり、友人に声を掛ける。
「ごめん、少し寄りたい所ができた。先に帰るよ」
「お、おう……」
歯切れの悪い返事を気にすることなく、久保はその場を後にした。
* * *
久保は友人たちと別れた後。
迫りくる夕陽を背にして、足を運んだのは見藤の事務所――、があった場所。そこには「工事中につき立ち入り禁止」の看板が立てられていた。ビルを見上げると、うす暗い色の足場シートが風に揺られ、はためいている。
久保の耳に届くのは取り壊し作業のために上がる、けたたましい工事の音だ。壁を重機で壊す音、瓦礫が崩れるような音。
事務所で過ごした日々を思い出す。見藤が怪異事件に対峙していた事務所の一室、それも今は瓦礫に埋もれていることだろう。日常と非日常が交わっていた場所が消えて行く――。その事実に、胸が締め付けられる。
「怪奇――、じゃない。確かに、ここにあったんだよ」
見藤と出会い、居場所を得た。東雲と猫宮、それに霧子と過ごす日々は平凡と呼ぶには不相応で。そうしていくうちに、見藤へ抱いた違和感は確信に変わっていった。怪異に心を砕く彼が人であれるようにと願った。
首から提げていた、身代わり木札をワイシャツの上から握り締める。見藤から譲り受けた木札だ。それは彼との縁を繋ぐものでもある。
「うん、きっと大丈夫だ」
そう力強く呟き、希望に満ちた瞳を向ける。
類まれなる幸運と強運を持った久保であるならば、口にした言葉は言霊となる。
唐突に、久保のスマートフォンが鳴った――。




