88話目 祈念する者たち
見藤が去った事務所。そこには何もなかった。
窓から差し込む、夕暮れの光を遮るものは何もなく――。壊れたままの扉はおろか、真っ二つに割れた事務机も、跡形もなく片付けられていた。壁際にあった背の高い書類棚、皆で談笑したソファーも全て。
その光景を目にして、久保と東雲は呆然と佇んでいた。これではまるで、事務所で過ごした日々は幻だったのではないか、と疑ってしまうほど。
二人は咄嗟に、猫宮の姿を探した。しかし、どこにも見当たらず、肩を落とした。彼は自由気ままな猫又だ。きっと、どこかでまた飲んだくれているに違いないと、二人して顔を見合わせた。
だが、そんな束の間の悠々とした時間は、瞬く間に消えて行く。
久保は力なく呟いた。
「最後の依頼って、ここまで……。こんな、もぬけの空にしないといけないような……」
だらりと垂れ下がる腕。目の前の光景は、久保に無力感を強く感じさせた。
そこでふと、東雲は視線を上げ、壁際を見やる。――そこにあるはずの、霧子の神棚がなくなっていた。彼女は慌てて声を上げる。
「霧子さんはっ……!?」
「大丈夫、ここよ」
東雲の呼びかけに応えるように、霧子の声が響く。はたと振り返れば、そこには霧子が佇んでいた。彼女の姿を目にした東雲は、安堵したように溜め息をつく。
霧子は八尺様としての姿で、悠然とした佇まいを晒していた。彼女は二人の前で屈むと、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんね、東雲ちゃん。こんなお願いをして……」
「ううん、そんなこと。いいんです」
「神棚の方は大きくて重いから、大変だと思うの。今頃、猫宮が運んでいるはずだから――。東雲ちゃんにはこっちを」
そう告げると、霧子は東雲へ何かを差し出す。それを目にした東雲は驚きのあまり、目を見開いた。
それは――、霧子の名入れをした神札。一度、彼女の名が消えてしまってから、再び見藤が用意したのだろう。
神札は神棚の根幹となる物。そこに書かれているのは、見藤が丹精込めて綴った霧子の名だ。神札を預ける、それは東雲への全幅の信頼を表すには十分過ぎるだろう。
東雲は小さく呟く。
「こんな、大事なもの……」
「東雲ちゃんだから、お願いしたいの」
強く、はっきりとした口調で霧子は語る。彼女の瞳には決意が宿り、見藤の帰りを確信したものだった。
霧子の意思を汲んだ東雲は、ぐっと唇を噛み締める。そっと、霧子の手を包み込むようにして、神札を受け取った。
「分かりました。私は見藤さんも、霧子さんも――大好きですから」
東雲から告げられた言葉。霧子はとても嬉しそうに微笑んだ。しかし――、その次には血の気が引いたように顔色が悪くなる。霧子は屈んでいた姿勢から一変。よろめいて床に座り込み、手を着いた。
東雲は慌てて、彼女の背に手をやる。
「霧子さん、顔色が――! 戻って下さい!」
「ええ、ありがとう……。そうするわ……」
霧子は消え入りそうな声で返事をした。すると、瞬く間に姿を霧に変えて、消えてしまった。
残り香のように、霧が漂う中。東雲が見つけた不穏な気配を纏うモノ。それは事務所の片隅で、蠢いている黒い靄。それが、霧子の不調の原因となっている――そう結論付けるのは容易だった。
久保が靄を警戒し、一歩東雲の前へ出た。すると――、黒い靄はちりぢりとなって消えてしまった。二人はほっと胸を撫で下ろす。
東雲は霧子から託された神札を、大事そうに胸に抱える。そうして、口にしたのは、事務所がもぬけの殻になっている理由。さらに考えられる見藤の行動の真意。
「見藤さんはこの澱みから、霧子さんを遠ざけたかったんよ――。だから、ひとりで……」
最後に見藤と会ったあの日。煙谷から告げられた、最後の依頼。霧子の為に、見藤は単身で依頼に向かったのだろう。
久保は苛立ちを隠さず、悪態をつく。
「あの人、本当に……馬鹿だろ」
その呟きは、東雲も大いに同じ感情を抱いたようだ。大きく相槌を打っている。
東雲は鞄から風呂敷を取り出して霧子から受け取った神札を大事に包んだ。それから、霧子が消え去った後を眺め、いつもの調子で語り始める。
「いやぁ、うちらも猫宮ちゃんに悪いことしたなぁ。また、いつものように飲んだくれてるだろうなぁ、なんて」
「それは……、ちょっと反省した」
珍しく、久保も同意した。――皆、何かしら行動している。見藤の帰りを待つために。
久保が唇をきつく結んだときだ。東雲が唐突に声を掛けたのだ。
「久保、ちょっと一緒に来て欲しい所があって――」
「分かった」
「お、説明せずとも?」
彼女が言い終えるよりも前に、久保は力強く返事をした。半ば茶化すような視線を送る東雲に、久保は小さく溜め息をつく。
そうして――、霧子に託された神札を大切に抱く東雲を見やる。一瞥した視線は、ほんの僅かな悔しさを滲ませた。
久保はそっと、口を開く。
「この手のことに関しては東雲の方が詳しい。……不服だけど」
「そのひと言、余計!」
「いつもの調子で助かるよ」
久保の言葉に、東雲は不服であると言わんばかりに、大きく鼻を鳴らした。彼女のじっとりとした視線を受けながらも、久保はそのまま言葉の先を続ける。
「見藤さんが言うには、僕はとてつもなく運がいいらしい。だから――、それをどうにか……。見藤さんを手助けできるような何かに、できないかなって……。一生懸命、考えて……。でも、間に合わなかったのかな……」
言葉を紡ぐにつれ、徐々に小さくなっていく声。
東雲は久保の心中を察したのだろう。呆れたように、大きく溜め息をつく。彼女はそれを合図としたかのように、風呂敷で包んだ神札を大事そうに鞄へしまい込んだ。
しぼらくの沈黙の後、先に口を開いたのは東雲だった。
「間に合わなかった、はともかく――。まだ、出来ることはあるよ」
「なにを……?」
彼女の言葉に、久保は驚いた。すると、東雲はかえって疑問であるかのように、首を傾げてみせる。
「気付いてないん? うち、おじいちゃんから貰ったお守りを持ち歩かんようになってて」
「えっ……? 大丈夫?」
「そう、大丈夫なんよ」
久保の心配など不要とでもいうように、東雲はにかっと笑って見せた。その次には人差し指を立てて、久保を指す。
「久保が近くにいると、悪いモノが寄ってこない」
まるで決め台詞のように告げられた言葉。久保は唖然とし、返事をするのにしばらく時間がかかる。――ようやく口から飛び出したのは、自嘲じみたものだった。
「…………歩く魔除けじゃん」
「そういうことやね」
「嬉しくない」
東雲の適当な相槌に、久保はぴしゃりと言い放つ。
そこで思い返してみれば――、怪奇な世界に足を踏み入れてからと言うもの。見藤の庇護がない状況で所謂、よくないモノによる禍害は免れてきただろう。寧ろ、危機的状況に陥った見藤の元へ駆けつけた場数が多いようにも考えられる。それどころか、久保が良くも悪くも好かれていたのは――神獣だ。
すると、東雲はもったいぶったように咳払いをひとつ。
「さて、久保。ここで問題です」
「ん?」
「魔除け効果を持ちつつ、強運の持ち主が――、神社に願いと祈りを捧げると……どうなる?」
どうなるか、と問われれば――答えは決まっていた。
久保はそっと口を開く。
「…………効果抜群」
答えを聞いた東雲は、にんまりと口角を上げた。
「そういうこと! 善は急げ」
「その言い方、なんとかならない? 人をラッキーアイテムみたいに……」
「いいの! 辛気臭いのは、もうこりごり!」
久保の指摘に、わっと声を上げた東雲。そんな彼女の言動に、久保は胸がすく思いだ。
「ふっ、そうだね」
事務所を後にしながら、久保は朗らか笑ってみせたのだった。
そうして、二人が向かうは――神社だ。奇しくもそこは、縁切り神社。悪いモノとの縁を断ち切り、良縁を結ぶ。
何の因果か――。その神社は霧子の怒りに触れ、姿を消した『神異』を祀っていた場所でもある。そこには人々の認知のもと。新たに生まれ出でた、幼い怪異が祀られている。
* * *
足早に目的地へ向かう久保と東雲。するとそこへ、唐突に掛けられる声があった。
「小僧」
「うわ! びっくりするだろ!? いきなり僕の影から出て来るなよ!」
久保は驚きの声を上げる。言葉通り、伸びる影から姿を現したのは黒猫だ。思いもよらぬ久々の再会。しかし、今は悠長に再会を喜んでいる場合ではない。
すると、隣に佇んでいた東雲がおずおずと声を掛ける。
「ドッペルちゃん……?」
「な、んだ……。その妙ちくりんな名は」
「え? 可愛いやろう?」
能天気な会話を交わす彼らを尻目に、久保は呆れたように溜め息をついた。それはどうやら、黒猫も同じだったようだ。
一緒にするなと言わんばかりに、彼は鼻を鳴らした。そうかと思えば、久保と東雲を見上げ、早々に用件を口にする。
「はぁ……。まあ、よい。お主らに尋ねたいことがある」
「なに? ちょっと、僕たち急いでいて――」
「彼奴はどこへ行った? 気配が追えぬ……」
彼が一体、誰のことを言っているのか――。その口ぶりからして予想がつく。
久保は眉を寄せながら、その名前を口にした。
「彼奴って……。見藤さんのことか」
「無論」
「そ、れは……」
尋ね人の行く先に、口ごもる。見藤は行く先を口にせず、忽然と姿を消したも同然。しかし――、久保や東雲は察していた。彼がどこへ向かったのかを。――それは黒猫も同じだったようだ。
いくら待てども、答えを口にしない久保。黒猫は徐々に目を見開いていく。
「彼奴、まさか――!? 不浄の地へ向かったのか!」
怒りにも似た感情を爆発させながらも、黒猫は彼なりに見藤の身を案じているようだ。すると、彼は慌てた様子で口を開く。
「お主ら、片腕を失った牛鬼を知っているか!? 猫又の縄張りにずかずかと入り込んで来た――」
「な、なんだよ突然――! そいつは確か……」
猫又、それは猫宮のことで間違いないだろう。さらに、片腕を失った牛鬼ときた。思い当たることは山ほどある。しかし、久保は黒猫が求める答えを持ち合わせていなかった。
黒猫は耳をぺたりと下げる。すると、言いよどむ久保を差し置いて、何か答えを見つけたようだ。彼は弾かれたように、顔を上げるときびすを帰す。
「奴に知らせねば――!」
「もう! 勝手に話を進めるなよ……」
久保がそう言い終えるよりも前に、黒猫は再び影となって姿を消した。隣で様子を窺っていた東雲は、嵐のような出来事に唖然としている。
「行っちゃった……」
「何なんだよ! 早く行こう、東雲」
悪態をつきながら、久保は足を速めた。東雲も慌ててその後に続く。
二人の背から伸びる影。夕暮れの光が長く伸びる影を揺らしていた――。
◇
恙なく、参拝を終えた久保と東雲。――希望を抱くような奇跡も、怪奇を示すような現象も。何も起きなかった。それでも、二人は見藤の無事を願い、祈りを捧げたのだ。
悪いモノの縁を断ち切り、良縁を結ぶ。本来のカタチ。それはきっと、今の見藤に必要なことだろう。
二人は拝殿の前で立ち尽くし、静かな風に耳を澄ます。木々の葉が揺れる中、どこか遠くで響くような、かすかな鼓動を感じた気がした。
久保は合わせていた手を下ろすと、小さく呟く。
「僕たちに出来ることって――」
「この程度。でも、やらなくて後悔するより、やって後悔した方がええ」
「……後半、縁起悪いぞ。東雲」
久保が言わんとしたことを、引き継いだ東雲が口にした言葉。諫めるような視線を送るも、それは呆気なくかわされてしまった。
東雲は小さく笑い、霧子から託された神札を包んだ風呂敷を取り出した。それを大事そうに見つめながら、そっと口を開く。
「それまで、うちらは日常に戻って過ごすしかないけど――。でも、きっと……うちらの縁は繋がってる」
その言葉には、霧子との絆と信頼。見藤への想いが込められているようだった。彼女は久保を見上げると、したり顔をしてみせる。それは、何かを確信した表情。
「せやろ?」
「ああ、そうだね」
久保は力強く、相槌を打つ。東雲は神札を胸に抱き、目を閉じる。
二人の声は風に乗り、遠くへ届くように流れて行った。
久保は空を見上げ、夕暮れの赤に染まる雲を見つめる。その胸に抱くのは確信。そっと口を開けば、自然とその言葉を口にしていた。
「見藤さんは無事に戻ってくる」
言霊は聞き届けられ、結果をもたらす。
(きっと――)




