86話目 具象と代償
見藤は着々と進んでいく封印に、活路を見出していた。しかし――、ことが上手く運んでいるにも関わらず、胸に渦巻くのは漠然とした不安だ。
未だ三猿の『神異』を貪り喰らう悪神。何故、そこまで食い気を抱えているのか――。
見藤はじっと注視する。そこで辿り着く、仮説。
(三猿の『神異』を喰らっているのは、存在自体が弱まっていたからか――?)
そうだとすれば、怪異喰らいの行動にも説明がつく。
見藤はぴたり、と動きを止めた。巡る思考、これまでの怪奇事件を思い出す。
(いや、待て。悪神も認知によって、影響を受け続けていたのだとしたら――)
悪神といえども、この世の摂理は超えられない。怪異は認知によって存在を左右される。また、怪異が持つ怪奇な力でさえも認知に影響を受ける。
力を蓄えた悪神。それは見藤家が祀り上げ続けた結果なのだろう。そうだとすれば、この世に存在する、見藤家の血筋を色濃く受け継いでいるのは――。
(今はもう俺だけか……。こんな局面で、都合がいい……!)
悪神の正体を知っているのは見藤だけだ。キヨも、斑鳩も。この山の異変を認知しているものの、その正体までは知らない。
見藤たったひとりの認知だけでは、存在を維持し続けることはできないのだろう。
――奇しくも、三猿の『神異』が起こした事件。それが功を奏したのだ。悪神にとっては存在を揺るがすほど、裏目に出た。
贄とされた人間の怨念に突き動かされ、見藤家の血筋を襲っていた三猿の『神異』。それによって見藤家は壊滅。認知は薄まった。
見藤は辿り着いた事実、思考に希望を見出した。それは確信に変わる。
「いける……!」
勢いよく顔を上げた。視界の端に視えるのは紋様の壁。壁が迫っている。――時間は残されていない。
封印が完成するように、念には念を入れ、せめて周囲の澱みを晴らしておく。
紋様の壁が見藤の体をすり抜けた。ゆっくりと四方を狭めていく紋様の壁を、見藤は見送る。これで、悪神は封印されるはず――。
途端、咆哮が上がる。周辺の木々が空気の振動によって揺れ動く。悪神が動き出したのだ。
悪神は澱みにまみれた、泥のように流れる腕で壁を掻く。狭まっていく壁を押し返そうとしているのだ。
――パキッ、嫌な音が見藤の耳に届く。
封印の匣が形を成そうとしたとき、悪神の抵抗を酷く受けたのだろう。ひび割れた紋様の壁の隙間から、漏れ出す澱みと肉塊。
「なっ、んで……」
――失策。二文字が脳裏をよぎる。悪神の余剰は削いだはずだ。
しかし、今は絶望に浸っている場合ではないと己を律する。呪い道具の入った木箱を乱暴に開ける。何か策があるはずだと、思考を巡らせる。咄嗟に、手にしたのは楔の呪い道具だった。
封印の匣も、ただで壊される訳にはいかない。ひび割れた傷は少しずつ塞がっていくよう、策を打ってある。それが壊されるのが早いか、塞がるのが早いか――。
「くそっ……、あと一歩だって言うのに――!」
吹きすさぶ風に負けない程の、大きな悪態をついた。
しかし――、目の前で広がる光景に、身を固める。直感が告げる、違和感。その理由に気付いたとき、見藤が抱いたのは憐憫の情。
「……あぁ」
力なく溢した言葉。だらりと、垂れ下がる腕。手にしていた楔が地面に落ちた。封印を完成させようと、悪神に追い打ちをかけるための道具。それは不要だと、見藤自ら手放したのだ。
(あぁ……、そうか。お前も同じだったんだな)
――望んでもいない生贄。見藤家による認知が、この怪異を山神へと昇華させた。さらに、栄えた村ひとつの認知は、この怪異に望まない力を蓄えさせたのだろう。
私利私欲のために呪いを用いた。その呪いを確実なものとするために、この怪異の力を借り受け続け――。
(行き着いた先は、悪神。堕ちるところまで、堕ちて――。こんなこと、お前も望んでいなかったよな……)
だからか――、少年の時に相まみえた、かの存在は何もすることなく、ただことの成り行きを見守っていた。既にあのとき、澱みが周囲に蔓延し、悪神と堕ちる一歩手前だったはずだ。
「神は傍観者……、何も求めず、何者にも手を差し伸べない。――はずだったのに」
怪異に心を砕く、見藤だからこそ抱く感情があった。
吹きすさぶ風を体に受けながら、思考に浸る。――人と神と呼ばれた怪異との間に、制約があるのだろうか。
「――代償」
ぽつり、と呟いた。
少年だったあの日。山神に血を捧げた日だ。
(あの時、当主は何と言っていた――?)
脳裏に蘇る、かの姿は筆舌に尽くしがたく、惨憺たるもの。祠になだれかかる異形の姿。
その存在に捧げた己の血。――悪神に堕ちる直前、最後の贄だった。そこで、当主の口から放たれた呪詛にも似た言葉。
『本来なら、その眼を贄とした方が喜ばれるだろうが……まだ早い』
思い出した言葉。弾かれたように、目を見開く。
「ああ、そうか――」
見藤は納得したように、言葉を溢した。
見藤家の血筋を受け継ぎ、最後まで生き残った理由。だた単純に、怪異に関する豊富な知識を持ち、呪いに秀でていたから。どうやら、それだけが理由ではなかったようだ。
悪神の目的は対峙。見藤が自らの意思と足で、この祠まで辿り着くこと。――言霊を果たすことを求められている。
見藤は悪神を見上げる。依然として、封印の匣が完全に閉まることはない。それは封印が不完全であることの証。
肉塊、澱んだ気配が隙間から漏れ出している。さらには、腕のように模られた肉塊、人間の頭の形をした物がいくつも挟まり、封印を邪魔している。それは最後の抵抗のようにも視えるが――。
見藤にとっては少し違った。
――望まない力。人の醜悪さを凝縮させたような澱み。それらを孤独に抱え続けた山神。
山神が最後に見出だした救いは、人との間に約束された『大御神の落し物』。それを喰らえば、強大な力を手に入れる。所詮、その言い伝えは世迷言だったが、縋るには十分だったのだろう。
かの存在の心情を思う。見藤は憐れむように眉を下げた。
「こんなもので、お前の気が晴れるなら……、安いもんだな。……大丈夫だ、存在が消える訳じゃない。安らかな眠りにつくだけだ」
続きの言葉を発する前に、唇をきつく噛み締める。この言葉を口にしてしまえば、後戻りはできない。――これから起こる凶事への、ほんの僅かな迷い。
だが、不意に帰りを待つ、霧子の顔が脳裏に浮かんだ。危機に瀕したとしても、彼女への愛慕の情が尽きることはない。そんな己に自嘲する。――決意は変わらなかった。
見藤は鼻を鳴らし、言い放つ。
「くれてやるよ。残り滓でいいってんなら、持っていけ――」
言い終わると同時か――。
弾けるような音が耳に届き、顔を覆った熱で皮膚が焦がされるような激痛が襲う。
絶叫。
それは己が発した声だったのか、悪神が発したものか――。どちらとも分からなかった。理解できたのは顔の左側に感じる熱と、目の奥底の激痛。痛みという言葉でしか、苦しみを表現できないことに、苛立ちを感じるほど。目の奥が次第に熱を持ち、脈打つ。
膝から崩れ落ち、痛みに慄いた。
しばらくすれば、感じるのは強烈な熱だけになった。感覚が麻痺してきたのだろう。手が震え始め、体への負担が現れている。
粗く呼吸を繰り返し、どうにか意識を保つ。しかし、澱んだ空気が肺を突き刺し、痛みで咳き込んだ。
(なん、とか――。澱みの薄い場所へ――)
思考が戻る。ようやく、錯乱状態が落ち着いたようだ。見藤は震える足に力を込め、一歩踏み出した。
――そのとき、パタン……と匣が閉まる音。しかし、見藤の耳にその音が届くことはなく――、荒々しい風が吹きすさぶ。崩れた祠に残された、匣。
「はぁ……、クソっ……!」
思い切り、悪態をついた。それが最後に発した言葉。――朦朧とする意識に抗う術はなかった。




