84話目 帰郷、地獄の一丁目②
* * *
見藤は周囲を見渡す。ようやく踏み入れた、金木犀並木の内側。そこは、この世のものとは思えない色彩を放っていた。
昼間であるはずの空は赤黒く淀み、目の前には黒い靄が霞む。草木は枯れ果てているものの、筆舌に尽くし難く。土色というには似つかわしくない。木々の葉は落ち尽くしていて、幹は黒ずみ斑点模様を晒している。
山だというのに、命の息吹が感じられない光景――。それを目にした見藤は呆然と呟く。
「僅かな範囲だが、楔で澱みを中和したはずだ……。それなのに、こんな――」
その先を言い掛けたはいいものの、大きく咳き込んだ。肺を突き刺すような痛みが走る。ようやく咳が治まると、顔を上げて先を見据えた。きつく唇を結び、手にしていた呪い道具が入った木箱を、強く握り締める。
(……長居するのは無理そうだ)
そう結論付ける。早急に決着をつけるべく、足早に村へ向かった。
◇
見藤が目にしたのは廃村。記憶にある村の姿と似ても似つかない姿。木造の家々は骨組みを剥き出しに崩れ、残った屋根瓦は黒苔に覆われている。朽ち果てた、というだけでは説明のつかない建物が多く見受けられた。
足を進めれば、地面に無数の手形が刻まれ、澱みの泥が脈動く。それは澱みと祟りから逃げようと、もがいた村人が遺した痕跡なのだろうか――。
「村そのものが澱みに呑まれたんだな……」
小さな声でそう呟く。脳裏に蘇るのは、過去の村の姿。見藤自身、澱みに呑まれるよりも前に、霧子と村を脱したのだ。その後の村の混乱、村が迎えた末路を知ろうともしなかった。
澱みに吞まれるよりも以前。時代から取り残されていたものの、人や物、自然豊かな村だったはずだ。繁栄と衰退を体現するかのように、今現在は見る影もない。
だが、見藤の中に湧き上がるのは悔恨ではない。
(寧ろ、当然の報いだ――)
衰退の因果を納得させるには十分だった。
そうして――、沈黙の中。ただ足を進める。見えて来たのは、大きな建物。
(本家の屋敷も、崩れている)
それは荘厳な建物だったはずの本家の屋敷。荘厳な門は傾き、庭の木々は枯れ果て、枝が不気味に空を掻く。
思い出などと、綺麗な物は存在しない。抱く感情も、何もない。ただ、ひとつあるとすれば――。
(もし……悪神を鎮めることができれば、離れ座敷の裏庭へ立ち寄るのもいいかもしれない……)
そこは見藤が牛鬼と過ごした場所。貧しかったが、心は満たされていた。悔恨が晴れた今、胸に抱くのは懐かしさだ。
過去、澱みに呑まれた故郷を捨てるように去ったあの日。血溜まりとなってしまった師を弔うこともできなかった。澱んだ風を頬に感じながら、ふと思い立つ。
「墓参り、なんて立派なもんじゃないが……」
廃村を眺めた後、見藤は力強い足取りで参道へ向かった――。
村を抜け、山道に足を踏み入れる。山頂の鳥居へと繋がる参道――、石階段はすぐにその姿を現した。
少年であった頃、何度も駆け上がった参道。それは今や苔と澱みに覆われ、注意して進まねば足元が滑る。山頂へと続く、長い――とてつもなく長い石階段。
階段は果てしなく続き、澱みが肺を圧迫する。次第に息が上がり、冷や汗が額から噴き出した。
(この参道も……。今思えば、なんの因縁だろうな)
見藤は額の冷や汗を手の甲で乱暴に拭い、息を整える。
――最後に参道を歩いたのはかの存在と相まみえた、あの日だった。それを思い出すと、古傷がじん、と熱を持ったように錯覚した。
(澱みを撒き散らしている、悪神の御わす場所。大方、想像はつく……)
見藤の目的地。それは山頂にある祠。
頂上へ近付くにつれ、澱みが濃くなる。それは悪神の存在を確信するには十分だ。空は赤黒く脈動し、風は腐臭を運んだ。
すると――、背後の林の奥から微かな物音。見藤は振り返り、身構えた。澱みの霧の中、黒い影が揺れる。
【オ還リ】
不意に響く囁き声。見藤は振り返るが、誰もいない。しかし、この声を聞いたのは二度目だ。
その正体に気付いた見藤は、思い切り悪態をつく。
「あぁ、くそ……お出ましだ!」
声は執拗に繰り返す。
【オ還リ、オ還リ……オ還リ】
それが『神異』の物であると、知らせるには十分だった。呪詛のように繰り返すその言葉は地蔵の『神異』。ごとり、ごとりと石の体を動かす音がする。
さらに、石階段を上ってくる影があった。それは――顔に対して複眼、複数の口を持ち、形容し難い姿をしながらも人語を操り、首をもたげた。
「ヤッパリ、コイツダッタ」
「イヤ、チガウ」
「ソウニ違イナイ」
各々の口が独立した意識を持ち、会話をしている。口の『神異』だ。
それだけではなかった。口の『神異』と競い合うようにして、迫るのは肉塊に敷き詰められるようにした目の数々。恐らく、あれが斑鳩の報告にあった目の『神異』だろう。
見藤は咄嗟に、スラックスのポケットに手を突っ込む。不浄な存在を鎮めるための逸品――、清められた塩だ。
それを取り出すと、おおきく振りかぶる。清めの塩が入った紙包みを、二柱の『神異』に向かって投げつけた。
だが――、『神異』は怯みはしたものの。何ら変わらず、こちらに迫ってくる。
(澱みの影響か!? 効果が薄い――!!)
予期せぬ事態に、焦る。――いつも悪い事は重なるものだ。
直感がそう告げると同時に、見藤が施した楔の呪いが発動した。山麓一帯を囲うようにして紋様が繋がり、壁となる。
(紋様の壁が迫り上がり始めた……! 急げ――)
紋様の壁が山頂に到達するよりも前に、悪神の余剰を削がねば、封印は失敗に終わるだろう。優先すべきは、悪神との対峙だ。
見藤は焦る。
(三猿の『神異』をやり過ごすにしても……。こんな濃い澱みの中で立ち止まるのは自殺行為だ!)
そう結論付け、一気に駆け出した。上がる息、吹き出る汗。呼吸の度に、肺を刺す澱みは見藤の体力を削る。
石階段の果てに、山頂の鳥居が霞む姿で現れる。朱く荘厳だった鳥居は、澱みに侵され、柱に黒い亀裂が走っている。さらに、長い年月によって苔が覆っていた。
見藤は呪い道具箱を地面に置き、三猿の『神異』を迎え撃とうと、呪いの木札を取り出す。はたと視線を上げたとき――。
「なっ……!?」
目に飛び込んできた光景。古びた鳥居から姿を現したのは――、悪神だ。直感がそう告げる。
その存在は少年のとき、相まみえた存在。しかし、その姿はよりおぞましく、「神」と言う名には程遠い姿を晒していた。筆舌に尽くしがたく、惨憺たる姿。動物や人を模った姿とほど遠く、皮膚は裂け、爛ただれている。澱みによって悪臭を放ち、無いはずの目に視線で射抜かれているような感覚。
――板挟み。後ろを振り返れば、三猿の『神異』が迫っている。正面には得体の知れない、悪神。
にっちもさっちも行かない。見藤は一瞬でも、思考停止した己を呪った。
ただ、呼吸を繰り返すだけで精一杯。ようやく動かせたのは、震える手が道具を手放してしまわないよう、力を籠めることだけ。
(動け、動け! 何でもいい!!)
心の内に、自身を奮い立たせる。ようやく足が動いたとき――。
ずるり……。
鳥居から、這い出してきたのは悪神の体の一部なのだろう。泥のように粘性を持ち、しかし、意思を持って動いていると分かる。
一瞬の出来事。
腕のように模られた泥は、三猿の『神異』を泥の中に取り込み、一網打尽にしたのだ。それだけではない。泥の腕は、三猿の『神異』を取り込むと、鳥居の内側へ還っていった。
見藤は力なく呟くことしか出来ず――。
「喰った……のか? 『神異』を……」
目の前で起きた出来事に、ただ茫然と立ち尽くすだけだった。
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