84話目 帰郷、地獄の一丁目
見藤は帰郷する。手に呪い道具を携え、険しい山道をひとり行く。
身の回り品は悉く処分してしまったために、山を行くには不相応な格好だ。いつものように、使い古されたスーツを身に纏う。しかし、それはどこか平時であるような錯覚を覚え、心を落ち着かせていた。
不意に、足を止めた。少しだけ開けた場所に出たのだ。周囲を見回して、ぽつりと呟く。
「ここ……、覚えている」
過去、霧子と共に歩いた山道だ。
澱みと祟りに呑まれた故郷を背にして、霧子に手を引かれ、故郷を出た。目の前で師である牛鬼を失った哀しみ。それを押し殺して、進んだ記憶が蘇る。
そうして、二人で足を止め、束の間の休息を得た。そのとき、深紫色の眼――『大御神の落し物』の力を代償に「契りを交わして欲しい」と頼んだのだ。少年が抱いた恋心と呼ぶには、あまりに執着していて独占欲に塗れていた。
(今、思えば……あんなガキの戯言)
本来の契りを交わした今ならば、あのとき霧子が取り乱していた理由が分かる。
不意に思い出した出来事に、ひとりで気恥ずかしくなり頬を掻く。ただ、それはより一層、帰りを待つ霧子への想いと決意を強くした。
再び視線を山道に向ければ、現在その道は荒れ果てており、人の手が入っていないことは明白だ。
もう少し足を進める。すると、見藤が目にしたものは――。
「金木犀が植えられている……。あの時にはなかっただろうに」
秋を感じさせる、金木犀の花々が咲き誇る並木道。金木犀の花の香りが鼻を掠め、むず痒い。思わず、くしゃみをする。
視線を戻せば、金木犀の並木道はどこまでも続いているようだった。並木道、と言っても一列に並んでいる訳ではない。それはまるで、木々で壁を作るかのように幾重に重なっている。
じっと木々を注視し、考えを巡らせていたとき。不意に、風が頬を撫でた。それは腐臭を纏い、見藤に澱みを感じさせる。
「そうか。金木犀で、この山から澱みが溢れないようにしていたのか」
キヨの言葉が脳裏に蘇った。――斑鳩家と協力して金木犀を植えたのだろう。澱みを抑える結界として、二十年。その役目を全うしてきたのだ。
(だが、それも限界がある)
見上げた金木犀の木は枝や幹が黒ずみ、腐食しているようだった。これでは倒木の危険性もあるだろう。金木犀の樹齢を考えても、寿命とは考えにくい。これが澱みの影響であると推察するのは容易だった。
金木犀の木々の向こう側。それは現世から切り離され、澱みが充満した土地。
木々を境に、その内側に澱みが溢れていることは想像に容易い。――この期に及んで、キヨの手腕が活きていることに感謝の念を抱かずにいられない。
見藤は決意に満ちた視線で一瞥すると、きびすを返した。
少し離れた場所で足を止める。呪い道具箱を地面に置き、蓋を開く。そこから取り出したのは金属製の楔だ。長い柄には細やかな文字が刻まれ、呪いの基軸となることを予見させるものだった。
見藤は楔を手に、改めて周囲を見渡す。そよぐ風は湿っていて、不穏な空気を感じさせるには十分だ。そこで、地面に楔を打ち込んだ。
すると途端に、周囲一帯は澄んだ風がそよぎ始める。見藤が打ち込んだ楔を基軸に、澱みが祓われていく――。
楔の効力を確認した見藤は不敵に笑う。
(山一帯を覆う、封じの呪いの軸となるもの。はからずも、かぐや成る『神異』と対峙したとき。この手の呪いが有効手段であると、分かっている)
経験が生きるとは、まさにこのことだと力強く頷いた。――経験が生き、新たな着想と発想を得る。見藤はまさにそれを体現していた。
見藤は巡らせた計略を再確認する。
元凶となった山頂の祠へ、すぐさま赴く訳ではない。そのようなことをしても、悪神と刺し違えることも不可能だろう。必要なのは策略だ。
見藤は視線を打ち込んだ楔に向けた。
この楔を基軸にして、山麓周囲一帯に間隔をあけて楔を打ち込んでいく。全て終えるまで、数日は掛かることだろう。だが、そうすれば先程のように、楔が徐々に澱みを祓っていく。
(ある程度、澱みが晴れれば――。この先へ足を踏み入れることも可能だろう)
村に足を踏み入れた、その先は未知数だ。村の状態を確認した後、いよいよ山頂の祠に向かおうというのだ。
そうしている間に、楔による澱みの中和効果が切れれば、今度は封印の呪いを発動させるよう仕組んでいる。封印の呪いが発動すれば、紋様が壁となって山頂へせり上がっていく。
紋様の壁が山頂の祠に辿り着くまでが勝負だ。可能な限り澱みを祓い、力を蓄えた悪神の余剰を削いでおく。そうすれば、悪神といえども、質の悪い怪異と大差なくなるだろう。
そこでふと、思考を止めた。視界の端に視えたのは、体に纏わりつく澱み。それは再三にわたり澱みを祓っても、まるで見藤の所在を追うように、こうして纏わりついてくるのだ。
(三猿の『神異』の動向も気掛かりだが……。いずれ、俺を追って来るだろう。一網打尽にするには丁度いい)
見藤は砂埃をはたきながら、立ち上がった。視線を金木犀の木々が立ち並ぶ、その先に向ける。
木々の向こう側に見える空は、昼間だというのに暗く、赤黒い。それは澱みに呑まれたあの日から、時間の流れを忘れているかのようで――。
力強く頷くと、木箱を手に歩み始めた。
「ふっ……、入念な準備というのも性に合っている」
自嘲じみた笑みを浮かべると、険しい山道を行く。
すると、流石は禁足地とでも言うべきか。一般人が迷い込まないよう、あらゆる箇所に呪いが施されていた。
山奥へ足を踏み入れようとすれば、呪いによって幻惑して下山させるようなもの。また、他にも足を進める度に方向を狂わせ、下山させるものなど。その種は多様のようだ。これら全て、斑鳩家とキヨが施したものだろう。
仕掛けられた呪いに惑わされる見藤ではない。しかし、これから対峙する凶事を考え、それらを解呪する訳にいかない。
そうなると――、仕掛けられた呪いを回避しつつ、呪いの効力が反発し合わないよう計算し、作業を進めていく必要がある。
「骨が折れる……いや、最後なんだ。……気合を入れるとするか」
数か所、楔を打ち終えた見藤は仏頂面で、鼻を鳴らしたのだった。
◇
楔を打ち込んでは、陽が落ちる前に下山する。そうして、陽が昇れば再び山へ赴き、楔を打ち込む。三猿の『神異』の澱みが体に纏わりつけば適時、澱みを祓い一網打尽にすべく機会を虎視眈々と狙う。
そんな日々を繰り返すうち、ようやく――。
「これで最後の一本だな」
楔を打ち終えた瞬間。遠くの山頂から、不穏な唸り声のような音が響いた。
見藤は弾かれたように、視線を上げる。しかし、目に入るのは木々の梢と淀んだ空だけ。
金木犀の木々が立ち並ぶ、その向こう側へ視線を向けた。
「よし、行くか」
軽快な口調とは裏腹に――。その言葉は重く、覚悟を物語っていた。




