83話 出立のとき、死生命あり
事務所の閉業を告げ、翌日からというもの――。
見藤は身辺整理に追われていた。目まぐるしく変化した、事務所の状況を語るには十分だ。
(事務机も、壊れたままで都合がよかったな。処分するだけで済む。そもそも……、身の回り品は少ない)
徐々に閑散としていく事務所内を見渡しながら、思い出に浸る。
――怪異の相談事を請け負う事務所として立ち上げたのは、贖罪のためだった。
人と関わることを避けていた。斑鳩との関係も、歳を重ねるにつれて、次第に連絡を取り合わなくなり――。キヨから斡旋された依頼をこなす日々。
猫宮とは相棒として、よき関係を築いていた。霧子との関係も、ただ時間を共にするだけで満たされていた。
そこへやって来たのは、平凡な青年。不思議と――、彼との出会いに縁を感じた。
久保は、東雲との再会の縁を繋ぎ、事務所は賑やかさを増す。彼らと過ごす、充実した日々は何ものにも代えがたく――。
それを皮切りに。希薄となっていたはずの繋がりは、再び糸を紡ぎ始めたのだ。
見藤は、はたと手を止めた。呪い道具を保管してた、木目が美しい箱。
その隅に顔を覗かせているのは、久保と東雲に持たせた身代わり木札を掘り起こした木片だ。木が稀少なものだったが故に、残していたのだと思い出す。
(何があっても、あれが二人を守ってくれるだろう)
――それはさながら、生前整理のようだと。どこか他人事のように感じていた。
パチン、と呪い道具箱の蓋を閉めた音が響く。
猫宮のために整理整頓していた資料棚も、徐々に空になっていった。書類を段ボールに詰め終えると、伸びをひとつ。
(怪異事件の資料も、キヨさんの所へ送れば情報統括するには丁度いい)
後はこれらを送るだけだと、力強く頷いた。
すると、神棚の紙垂が揺れ、霧子の顕現を知らせる。降り立った霧子は、閑散とした事務所内を見渡すと、そっと声を掛ける。
「心は変わらない?」
「ああ」
見藤は力強く頷く。作業をしていた手を止め、霧子に向き直る。彼女は悲しみを隠そうとしていなかった。
霧子は揺れる瞳をしながら、ぽつりと言葉を溢す。
「……そう」
「俺の我儘に、付き合わせてしまうな」
自嘲じみた言葉と笑みを霧子へ向ける。しかし、彼女は首を横に振ってみせた。肩に掛かっていた、艷やかな髪がはらりと落ちる。
「別に、構わないわ。その時が来るまで、好きにしていいって言ったのは――私の方だもの」
見藤は思い出す。いつだったか、霧子とそんな会話をしたものだと笑みを溢す。
――人と怪異では、共に過ごす時間は同じでも、流れる時間は違う。彼女はそれを十分に理解しているのだろう。だからこそ、選択を尊重し、背中を見送ろうというのだ。
霧子は震える手で、使い古されたスーツの裾を引っ張る。一度、きつく唇を結ぶと、意を決したように言葉を重ねた。
「それに離れてしまっても、どんなに時間がかかっても――、また見つけるから」
「きっと大丈夫だ」
彼女の誓いにも似た言葉に、見藤は力強く答える。口ではそう語るが、力なく下ろされた手は虚空を掴む。いつもなら、霧子を引き寄せ、抱き締めていただろう――。だが、彼女を抱き締めることは叶わない。
そう言葉を口にして、目を伏せる。自身に視線を向ければ、あの日に祓ったはずの澱みが纏わりつくようにして、姿を現していた。
――霧子は澱みに怯えながらも、見藤に手を伸ばしたのだ。
彼女は自身を落ち着かせるように、深呼吸をする。そうして、力強い眼差しを見藤へ送る。
「私のことは心配しないで。東雲ちゃんに、キヨちゃんの所まで連れて行ってもらうから」
「そうか――。三猿の『神異』の澱みを受けた俺じゃ、霧子さんの神棚には触れられない――。悔しいが……」
「――仕方ないわ」
どうやら、霧子と東雲は密に連絡を取り合っているようだ。――半ば、喧嘩別れのようにして久保と離れてしまった後悔が、見藤の脳裏をよぎる。しかし、彼の身の安全を思えば致し方のないことだったと、己を無理やり納得させた。
すると、霧子は拗ねたように口を尖らせて語気を強める。
「ふん、最後まで強がるのね」
「ふはっ……! こんなときだからこそ、格好つけさせてくれ」
笑い飛ばした心情とは裏腹に、見藤は哀しみに満ちた表情を浮かべる。依然として、霧子の手は震え、徐々に顔色が悪くなっていた。
見藤は手を離すように、そっと伝える。すると、彼女は弾かれたように目を見開く。だが、拒否するように首を横に振った。
少しでも、時間を共にしたい――。それはお互いに抱く願い。それを想えば、霧子に抱く愛念を強く自覚する。
しかし――、見藤の方から彼女に触れることは叶わない。その事実に、項垂れるようにして視線を落とした。悔しさを滲ませながら、ぽつりと呟く。
「これじゃ……別れの抱擁もできないな」
「……意地悪、言わないでよ」
霧子から消え入る声で溢れた言葉は、互いに唇を噛み締めるには十分だった。
そうして、ようやく見藤が口にした言葉は――。
「大丈夫、きっと還るから――」
どんなカタチであれ、霧子との再会を誓うものだった。
* * *
スマートフォンの画面に映し出されたのは、珍しい名前。電話線も引き払っているため、連絡手段はスマートフォンだけだ。
見藤は気まずいと言わんばかりに、眉を寄せる。しかし、電話に出ない訳にもいかないだろう。
ようやく、電話に出たのは着信が鳴り始めてから、数秒後だった。
「もしもし、キヨさん?」
『煙谷さんから聞いたよ。……あの山へ――、お前さんの故郷へ行くそうだね』
電話に出るや否や、キヨはそう語った。
見藤は思い切り顔をしかめる。耳にした煙谷の名に、彼がことの流れを話したに違いないと思い至る。
(あいつ……、余計なことを――)
心の内に悪態をついた。――キヨに知られてしまえば、お小言を言われるのが関の山だろう。
しかし、見藤の予想に反して、キヨは言葉を詰まらせながら、話の先を続けたのだ。
『こんな日が来ようとは、思ってもみなかったさ』
「それは――、スミマセン」
『帰って来たら、次期当主としてみっちり心得を説く。いいね?』
「――はい」
強い言葉とは裏腹に、震える声音で彼女の胸中を察することができる。
見藤は申し訳なさで、胸が詰まる思いだった。力強く返事をすることしかできない己に、不甲斐なさから眉を寄せる。
すると、束の間の沈黙の後。時間を要しながらも、電話口から意を決したような声が聞こえて来た。
『お前さんに、知らせておくべき情報がある』
そうして――、見藤はキヨから告げられた言葉を反芻する。
「禁足地……」
『ああ。そうさ、あの山は立ち入り禁止にしてある。小野家の権限でね』
そうして、キヨは語った。
少年であった見藤との邂逅を終えた後。彼女は調査のため、件の山へ足を踏み入れようとした――が、それは叶わず。溢れ出る澱みに阻まれ、引き返すことを余儀なくされたそうだ。
周囲の草木は澱みに侵され、枯れ果てていた。それだけでなく、山の麓に流れる川の水も濁り、生き物は死滅していた。おおよそ、澱みだけが原因ではないだろう、と話すキヨに見藤の心臓が跳ねた。
(牛鬼の祟りも、未だ尽きることなく――。そうか)
それは二十年前。師である牛鬼が、本家の所業に怒り、死の間際に祟ったものだ。――その祟りは薄れることなく、当主の体に病を落とし、蝕んでいた。
キヨは語る。
『斑鳩家の協力もあって、今まであの山から澱みを抑えていたが――。それももう、限界のようだね』
それは初めて知った事実。見藤は目を見開く。それと同時に、自身がどれ程までに過去から逃げていたのか――思い知らされた。
電話口から聞こえてきたのは、小さく呟かれた言葉。
『なんの因果かねぇ……』
「それは――」
その先を噤む。キヨに伝えていない事実、真実が脳裏をよぎった。しかし、今更伝えるべきではないと、首を横に振る。
電話口から、呆れたような溜め息が聞こえる。
『その場所へ、行くというのなら――』
「問題ない。あの山なら、熟知しているからな」
悪戯に笑って見せる。電話越しではそれすらも伝わらないだろうが、キヨは何も語らず。電話越しに、短い笑い声が聞こえて来た。
そうして、旅立ちの時はすぐにやってくる――。




