81話目 決意の境界
見藤はただ呆然と、虚空を眺めることしか出来なかった。向けられる煙谷の視線。まるで責任を追及するかのような、地獄の使者の視線だ。煙谷の言葉が重く、胸にのしかかっていく――。
ようやく開いた口から出た声は小さく掠れていた。
「少し、考える時間をくれ……」
「いいよ、いいよ。この件は君が手を下し、引き起こした訳でもない。ましてや、僕が君の血族の責任を負え、とも言える立場でもない」
しかし、煙谷は間髪入れず、いつものように飄々とした態度で答えた。煙草を手に取り、見藤へ先端を向ける。
「好きにするといいさ。選択の自由ってやつ?」
その言葉とは裏腹に、煙谷の目が一瞬、鋭く光る。しかし、その次には悪戯に首を傾げてみせ、煙草に火を着ける。緩やかに立ち上る煙が、時の流れを告げていた。
見藤は沈黙したまま、じっと流れゆく煙を見つめる。すると、太ももに何か触れる感覚。はたと意識をそちらにやれば、黒猫が肉球を押し付けていた。
彼は軽く首を傾げ、口を開く。
「煙々羅は何を言ってるのだ?」
「あぁ……」
力なく相槌を打った見藤に、黒猫の耳が小刻みに動いた。金色の瞳がじっと、見藤を見守る。
しばらくの間を置いて、見藤が紡いだ言葉は僅かな諦めを滲ませていた――。
「俺が悪神を鎮める責任があるのか、どうかだ」
「ならん」
間髪入れず、黒猫は語気を強めてそう言った。まるで、見藤が抱いたであろう悔恨など、気に病む価値はないとでも言うようだ。そのまま、言葉を続けた。
「アレはお主のせいではなかろう」
「それは……、少し違う。俺もその片棒をかついでしまっている」
目を伏せながら、告げた事実。その言葉を発端に、見藤の脳裏に蘇ったもの――。牛鬼を引き合いに出され、意に沿わない呪いを行っていたこと。贄としてしまった、小さく力を持たない怪異のこと。
それらを贖罪とし、怪異の相談事を請け負う事務所を立ち上げた。しかし、結局はこうして、因果が巡ってきたのだ。
「俺の順番が来ただけだ……」
見藤の消え入るような声音。それはどこか、自分自身を納得させるかのように、呟いたもの。
すると、黒猫は呆れたように鼻を鳴らした。その次には、牙を剥き出しにして声を上げる。
「ならんと言っておるだろう!!」
「黒猫、お前は――」
「あの村で怪異や妖怪に、心を砕いていたのはお主だけであった。それは吾がよく知っている」
言いかけた見藤の言葉を遮り、黒猫は言葉を重ねた。
「だからこそ、残滓の中でも記憶を持って姿を成した吾はお主を守るのだ。その思いに報いるために」
「そう、だったのか……」
それは初めて明かされた、彼の心情。見藤は力なく呟き、黒猫の言葉を受け取った。僅かに、目元を綻ばせながら
しかし、徐々にその表情は暗いものになり――。
「だが、俺はそんな善い奴じゃない――」
力なく呟いた言葉と共に、見藤は項垂れた。
黒猫は小さく鼻を鳴らす。その次には、まるで慰めるかのように細い尻尾を見藤の体に巻き付けた。
その光景を、じっと眺めていた煙谷は――。
「辛気臭い話は他所でやってくれると、助かるなぁ〜……なんて」
頬杖を付きながら、ぼやいていた。
◇
見藤が事務所に帰り着く頃には、辺りはすっかり暗闇だった。まるで、心情を表すかのような薄暗い廊下を行く。老朽化で、点滅の激しい電灯が見藤を出迎えた。
事務所の扉があったはずの場所。今は応急処置として、ただのベニヤ板が張られているだけのもの。
そこに届けられていたのは一通の封筒。ご丁寧にも、目の付くところにテープで張られている。封筒には「ビルの老朽化に伴うお知らせ」と印字されていた。
「これは……?」
見藤は封筒を手に取り、開封する。入っていた書類に目を通していく。読み終えると、おもむろに折りたたみ事務所へと足を踏み入れた。
「……ただいま」
「あら、遅かったわね。久保君と東雲ちゃんは帰したわよ?」
「あぁ……」
見藤を出迎えたのは霧子だ。彼女は事務所に残っていた助手二人のことを告げると、出入口で佇む見藤の元まで足を進めた。
霧子は見藤の表情を目にするや、否や。拗ねたように口を尖らせながら、口を開く。
「むう。それにしても――出てくるな、なんて言っておいて……私以外の怪異に助けられるなんて」
「……面目ない」
霧子らしい追及に、見藤は気まずくなり、首の後ろをおもむろに掻く。
彼女のことだ。『神異』に襲われ、黒猫の姿を真似たドッペルゲンガーに助けられたことも、煙谷の事務所で告げられた事実に動揺したことも。全て伝わっていることだろう。――見藤自身の中に渦巻く答えの出ない問いすらも、彼女は感じとっているのかもしれない。
不安げに眉を下げた霧子は、見藤の顔を覗き込むように、首を傾げてみせた。
「どうしたのよ?」
「いや……」
視線を逸らしながら言いよどむ見藤を余所に、霧子は彼の迷いを察したのだろう。きつく唇を結ぶと、力強い視線を送った。避けないように、体を密着させる。見藤の頬を両手で包み込んで、視線を逸らさせない。
「駄目よ」
「まだ何も言っていない」
「駄目ったら! そんなことをしたら私が許さないわ」
感情を露わにし、大きく声を上げた霧子。心なしか、瞳が濡れているようだ。
見藤は彼女をなだめようと、背に手を添えようとしたとき――。霧子は弾かれたように、見藤から体を離して距離をとった。手が、震えている。
「っ……」
「霧子さん……?」
「この澱みは、駄目……! 私――」
霧子の怯えた表情、声音。それは裏路地で遭遇した、口の『神異』と応戦した後と同じ反応だ。
見藤は自身の体に視線を落とす。すると、そこには僅かな澱みが靄となり、体を這っていた。
(俺に纏わりついていたのか……。――いや、三猿の『神異』が俺を追って、ここまで迫って来たんだ。感心している場合じゃないが……獲物を追うには当然か)
じっと眺めていると、靄が僅かに動く。それに反応したのは霧子だ。怯えながらも、見藤を守ろうと手を伸ばそうとしたのだ。
しかし、見藤は手を掲げて霧子を制止した。首を横に振ると、彼女を安心させるように「問題ない」と声を掛ける。
(澱みが濃ければ、怪異にも影響を及ぼす……。霧子さんに何かあったら俺は――)
凶事を想像し、唇を噛み締める。
「大丈夫だ、いつも通りの怪異事件だ」
「強がるんじゃないわよ! それとは訳が違うじゃない! だって、だって……!」
その先の言葉は続かない。霧子の唇が震え、吐息だけが漏れている。
見藤は霧子が言わんとしていることを理解していた。――悪神と呼ぶに相応しい存在を、人が鎮めるなど到底、無理な話だ。万が一、鎮めることができたとしても、無事では済まないだろう。
だが、見藤は霧子を安心させるように、柔らかな声音で語り掛けた。
「寧ろ、この件に起因した原因は解ってるんだ。それなら、対処しやすい」
困ったように笑みを溢し、肩をすくませた。
そうして、見藤は体に纏わりついた澱みを祓おうと、給湯スペースに向かう。棚から塩を取り出すと、おもむろに胸元や背中、肩と足元に向けて塩を振りかけた。
床に散らばっていく塩を見つめながら、思考に浸る。
(とは、言ったものの――。『神異』の弱点も、悪神を鎮める方法も。何も思い浮かばないな……)
砂埃にまみれたジャケットを脱ぎ捨てたとき、瞳に力強い意志が宿る。
(それでも、何とかするしかない)
――揺れ動いていた決意は、形を成す。
ただ、それは利己的な理由だ。悪神がまき散らす、澱みを祓ってやろうという正義感でも、本家が引き起こした凶事に対する責任感でもない。
見藤はじっと、霧子を見つめる。会話の内容と不釣り合いな、柔らかな視線を送る。
――ただ、怪異である彼女がこの世に存在し続けられるように。澱みに怯えないように。霧子のために、悪神を鎮めようと決意したのだ。
口を閉ざしたままの見藤に、霧子は痺れを切らしたのか――控えめにワイシャツの裾を引っ張った。まだ、澱みを感じとっているのか、指先が震えている。それでも、彼女は見藤に触れたのだ。
「ここはどうするのよ? そんな、すぐに終わるようなことでもないじゃない!」
「ああ、それは――」
霧子の問いに答えた見藤。紡がれた言葉に、霧子は目を見開き、瞳を揺らす。
「ちょっと、それ……本気なの?」
「ああ、仕方がない。……潮時というやつだ」
見藤の口から溢れた声は掠れていた――。手にしていた封筒を霧子に見せる。
それを目にした彼女はきつく唇を結んだ。




