77話目 怪異ノ恋ウタ②
猫宮を見送った後。残された見藤はひとり、匣を見つめていた。深い呼吸を繰り返し、匣の中で眠る霧子を想う。
「さてと――」
疲労で軋む体に鞭打って、重たい腰を上げた。匣を大切に抱え、事務所の中を見渡す。
依然、事務所は壊された扉、ローテーブル、事務机が処分されることなく一箇所に集められている。匣を解放したとしても、八尺様としての姿を晒した霧子を横たえるだけの場所は確保できないだろう。
(自室の方が心休まるだろうか……)
そう思い至ると、自室へ移る。
見藤は深い息を吐くと、匣を床に置く。傍にあるベッドの位置を確認し、意気込むように頷いた。
「よし……」
匣から解放するのは簡単だ。しかし、その後が大掛かり。
ずるり、と匣から少しずつ解放されていく霧子の体。匣の一辺が開き、上半身から徐々に滑り出てくる。
大事に抱えてやりたいのは山々だが、体格に恵まれた見藤でさえ、八尺もの背丈を晒した霧子を運ぶのは到底、不可能で――。見藤は雪崩込むように霧子をベッドの上まで押しやる。
(流石に……、自分が脆弱な人間だとっ……! 思い知らされるなっ……!)
息を大きく切らしながら、なんとか霧子をベッドへ横たえた。――と、言っても長い手足はベッドからはみ出し、力なく垂れている。
見藤はそっと、彼女の手を取った。手首には痛々しい絞痕。その光景に眉を寄せながらも、介抱していく。力なく垂れた腕を霧子の胸元に寄せて負担を減らし、投げ出されていた足は楽な姿勢に。
そうして、ようやく霧子の体勢を整え終えた。見藤が最後に目にしたのは、霧子の首に残された絞痕。――悔しさと、不甲斐なさ。己の無力を突きつけられる。無意識に噛み締めた唇から滲んだ血の味に目を伏せた。
「霧子さん……」
見藤は項垂れるように彼女の名を口にした。霧子の顔にかかった長い髪をそっとよけてやる。
出来ることはただ、霧子の目覚めを待つばかりだった――。
◇
微かに布が擦れる音を、耳が拾う。――見藤の意識が一気に覚醒する。
どうやら、霧子を匣から解放した後。自身も疲労に負け、そのままベッド脇で意識を手放してしまったようだ。部屋の中に差し込む月明りが現在の時間を告げていた。
見藤は軋む体を起こし、立ち上がる。目にした霧子は僅かに瞼を震わせていた。じっと時の流れを待った。そうして――、ようやく開かれた花紺青の瞳は見藤の心に安堵をもたらす。
霧子のひび割れた唇が、そっと開かれる。
「ここは……?」
「事務所だ。帰ってきたんだ」
霧子の憔悴しきった表情、掠れた声。見藤は胸を痛めながらも、彼女の問いに答えた。
すると、霧子は見藤の声と言葉に、安堵したのだろう。深い溜め息を吐いた。そして――、見藤の存在を確かめるように、長い腕の中へ抱き込んでしまった。見藤はその力に抗えず、倒れ込む。
見藤はひとつ、息を吸った。付着した土の匂い、それと混じった血の匂いを僅かに感じる。霧子は封印の紋様に抵抗し続け、他にも傷を負ったのだろうか――。それを考えれば、口から出たのは小さな溜め息と悪態。
「本当に、霧子さんは――」
「う……、怒ってる……?」
「半分。……傷は?」
おずおずと尋ねられた言葉に、見藤は間髪入れず答えた。すると、霧子は突然、身を固めて視線を逸らす。
途端に視界が回った。次に目にしたのは霧子ではなく、月明りが差し込む窓。どうやら、霧子の腕の中から解放されたようだ。
見藤は慌てて振り返る。横たわっていた霧子は八尺にも及ぶ体を起こし、ベッドに座り込んでいた。体を屈めて、自身の体に残る傷を手で覆い隠そうとしている。
霧子はしきりに視線を合わせようとしない。更には、取り乱したように壁際へ身を寄せた。――まるで、見藤から逃げるように。
ベッドの軋む音が大きく部屋に響く。音が静まると、霧子は戸惑いながらも、口を開いた。
「わ、私は怪異だから――」
「どうしたんだ、霧子さん……?」
俯きながら、呟かれた言葉は霧子の自己否定そのものだった。見藤は思わず、聞き返す。
しかし、霧子は口を閉ざしたままで、その先を語る気配はない。それどころか、肩が微かに震えている。
見藤は一歩、霧子へ近付く。彼女を怖がらせないように、落ち着かせるように――低く、柔らかな声音で尋ねる。
「お願いだ、教えてくれ。俺には霧子さんが何を恐れているのか……、分からない」
距離を縮め、そっと霧子の足に触れた。――拒絶はない。見藤はじっと待つ。
しばらくの沈黙の後。霧子は意を決したように、唇を一度きつく結ぶ。それが解かれるとき、そっと語り始めた。
「私は――、私であることに確証が持てなくなったの」
「何を、突然……言い出すんだ」
困惑を隠せない見藤を余所に、霧子は言葉を続ける。
「あんたを愛する気持ちも、全て――。人の認知による産物だったのよ……」
その告白に、見藤は息を呑む。――怪異は認知に存在を左右される。それは覆すことのできない世の理。
霧子は自嘲するような表情を浮かべ、首を軽く傾げてみせた。すると、体の輪郭が一瞬揺らぎ、八尺の影が縮むように姿を変えた。それは人の姿を模る。八尺様は白地のワンピースを纏うという、認知から一転。霧子が模る人の姿は一糸纏わぬ姿を見藤の目前に晒す。
八尺にも及ぶ背丈から屈んでいた姿勢を変えて、霧子は両膝を寝かせて座り込む。今の彼女の体は芸術品のように美しい。だが、それは模造品であるが故の産物――。
「こうして、人の姿を真似てまで……。あんたと愛し合ったとしても――」
そこで言葉を切る。その先を紡ごうとした言葉は喉を痞えて出て来ないのだろうか――。息を吐く音だけが、見藤の耳に届く。
震える唇をようやく開いた霧子の頬に――、涙が伝う。
「私は怪異でしかないのよ……」
力なく言葉を吐いた。恐らく、彼女の脳裏に浮かんでいるのは、集団認知の禍害に見舞われた出来事。――書き換えられていく、己の姿と人格。感情でさえも、霧子が抱くものと違ったのだろうか。
その出来事を境に、片鱗があった霧子の自己否定。それは本家に囚われてから、より顕著となったのだと、想像に容易い。
霧子は思い出すかのように目を伏せ、微かに肩を震わせている。
恐らく、彼女の脳裏に蘇ったのは、鏡花の冷たい笑み。――本家の座敷牢で封印の紋様に縛られ、浴せられた言葉があったに違いない。
見藤の中に渦巻くのは腹の底から沸き上がる怒りと、目の前で涙を流す霧子への愛情と庇護欲。様々な感情が混ざり合い、言葉が見つけられず――長い息を吐き出した。
「はぁ…………」
「なっ、何よ……? 私は真剣に――」
見藤の溜め息を呆れと捉えたのだろう、反論しようとする霧子。少しだけ、むくれた表情を浮かべていた。彼女は素肌を晒したままだと言うのに、見藤へ手を伸ばそうとする。
見藤はもう一度、小さな溜め息をついた。その次には、ベッドの端に放り出されていたシーツを霧子へ掛けてやり、彼女の白い素肌を覆い隠す。
思考を占めるのは、別れ際に放たれた鏡花の言葉。どうやら、鏡花と霧子は最悪な形で言葉を交わしていたようだ。
(成る程……。彼女があっさり引き下がったのは、これが目的か……。俺を足止めするのではなく、霧子さんの心を折る)
鏡花から掛けられた言葉。それは恐らく、霧子の自己否定に繋がったのだと考えられる。――鏡花の言葉は霧子の心をじわじわと侵食する呪いとも呼べるだろう。
見藤の脳裏に、鏡花の勝ち誇ったような笑みが蘇る。――彼女の言葉は、霧子の自己否定を増長させたようだ。
(霧子さんが自らの意思で俺から離れれば――。振られた俺は負け犬、か……)
見藤は目を伏せた。心ない言葉を浴びせられた霧子の心情を思うと、胸が痛む。それと同時に、自身の気持ちを偽ろうとする彼女の心情を慮る。
視線を上げると、シーツを肩に掛けている霧子の姿。どれ程までに、体を芸術品のように模したとしても――、痛んだ髪に割れた唇はそれに見劣りするだろう。さらに、目元は心労でくぼみ、涙で濡れている。それは酷く対照的で――。
(どんな姿でも、俺は――)
だが、見藤の想いは変わらない。それを伝えるために、そっと、霧子の手を取った。そこで目にする傷跡。彼女の体に残る絞痕は痛々しい。労るように、そのひとつ、ひとつに口付けを落とす。
途端、驚いた霧子が声を上げた。
「ちょ、ちょと!?」
「少し、黙ってくれ」
だが、見藤は言葉で制止する。語気には僅かな怒りを滲ませていた。その怒りを感じ取ったのか、霧子はされるがままだ。口付けの度に、霧子の口から漏れ出す吐息。
見藤はゆっくり体を離す。霧子の前に跪き、そっと両手をとった。じっと、紫黒色の瞳で霧子を見据えて口を開く。
「これは? どう感じた?」
「………………とても、恥ずかしい」
霧子は長い沈黙の末に、消え入りそうな声で答えた。その言葉通り、彼女は憂いに満ちた表情を浮かべながらも、頬は紅潮している。花紺青の瞳は涙を溜めたまま、月明りに照らされた水面のように揺れていた。
見藤は優しく、諭すように語り掛ける。
「それは今、霧子さんが感じている感情だ」
握った手に、僅かに力を籠めた。さらに言葉を重ねた。
「その感情は霧子さんのものであり、決して認知に植え付けられた感情じゃない」
霧子に掛けられた言葉の呪い。それを解くことができるのは――、同じく言葉だ。




