76話目 望まぬ愛逢月②
『お前たち、結婚しなさい』
当主の言葉に、見藤の眉が僅かに動く。――誰と誰が婚姻を結ぶというのだろうか?
答えは明白だ。彼の他に、この場にいるのは見藤と当主の娘である鏡花だ。
見藤は軽蔑の眼差しを送る。開いた口から出た声音は低く、呆れを滲ませていた。
「なにを言い出すかと思えば……、懲りないな」
「見藤家を再興するためには、不可欠だ」
「俺に憑いた怪異――、霧子さんを引き合いに出したのはその為か?」
対峙する当主はさも当然であるかのように問いに答えた。しかし、見藤がその言葉を受け取ることはなく――。軽蔑の眼差しを送り続ける。
「自分の娘まで道具にするのか。……悉く救いようがない」
「本家の娘だぞ? 身に余ることだろう!」
「話にならない。彼女の意思、俺の意思はないのか?」
反論にもならないような、当主の言葉。見藤は大きく溜め息をついた。呆れ果てた先にある感情は何もなく――、さらに言葉の先を続ける。
「俺に宿っていた『大御神の落とし物』とやらは消えた。もう、あの眼の力は失われている」
「そんな馬鹿なっ……。そのようなこと、できやしない!!」
当主の野望はついえたと言わんばかりに、鼻を鳴らす。見藤の思惑通り、当主は声を荒げて否定した。事実と現実を認める訳にはいかない、とでも言うようにやせ細った顔に怒りと焦り、様々な感情を滲ませている。
見藤は嘲笑する。彼の執着、野望、思惑。それら全てが無駄だと告げために、口を開いた。
「先に言っておくが『大御神の落とし物』は遺伝しない。正真正銘、神の落とし物という訳だ」
「……やってみないと、分からんだろう」
当主の唸るような言葉が響いた。見藤の口から溢れるのは、対話の諦めにも似た溜め息。
「はぁ……、話が通じないな。何故、そこまでして再興に執着するのか――、俺には分からない。分かりたくもないが」
ふと脳裏に蘇るのは、澱みに呑まれ離れた故郷。あの頃も、本家は金銭や名誉に執着し、その地位を維持しようと固執していた。少年であった時分には到底、理解できなかった。しかし、こうして齢を重ねたとしても、理解できなかった。
すると、当主はようやく認めたようだ。見藤は揺るがない意思を持って、この場に臨んだと――。当主は悔しそうに顔を歪め、最後の切り札を口にする。
「お前が傾倒している、女怪異だが――」
「彼女に何かしてみろ。お前らの首をひとつ残らず、体から切り離してやる。なにも、俺が直接手を下すだけがやり方じゃない」
当主が言い切る前に、見藤が言葉の先を遮った。紫黒色の瞳は怒りに燃え、ただならぬ気配を纏う。――呪いに長けた見藤であれば、言葉通りの凶事が可能だろう。
「方法はいくらでもある。もう、あの頃の……搾取されるだけだった、ガキじゃない」
低い声で告げた言葉。当主はどう受け取ったのだろうか。息を呑む音が微かに見藤の耳に届く。しかし、それすらも興味がないと鼻を鳴らした。
その時、突如として結界を揺るがすような、大きな振動が屋敷全体を襲う。当主と鏡花は慌てた様子で、窓の方へ視線を向けた。
そこには――、肉塊に数多の目を埋め込んだような異形の怪異。それに加えて、顔に対して複眼、複数の口を持つ怪異。形容し難い姿を晒し、首をもたげている。
見藤は嗤う。それらの怪異――、いや『神異』には覚えがあった。
「やっぱり、澱みが酷く濃いのは『神異』が一枚噛んでいたのか。ふはっ! 妙なことに、俺は悉く怪異に好かれるらしい」
自嘲するかのように、吐き捨てる。――屋敷を訪れたときに感じた濃い澱み。それは『神異』をも引き寄せたのだろう。
見藤は窓から顔と思しき部分を覗かせた『神異』を見やる。それらの『神異』は結界に阻まれ、屋敷に入り込むことはできないようだ。怪異を囲うことに長けた見藤家、その術がこうして彼らの身を護ることに繋がるとは――、皮肉なものだと溜め息をつく。
しかし、意外にも当主と鏡花は冷静だった。不穏に蠢く『神異』の存在を認識すると、すぐさま指示を出す。
「分家の者に伝えろ。あれらを退けろと」
「はい、お父さま」
鏡花は頷き、廊下に控えていた者に何かを伝えていた。当主はその様子を見届けると、見藤に視線を戻し、言い放つ。
「まあ、いい。そのような口を利けるのも、今のうちだ。鏡花、此奴を案内してやれ。答えはそれから聞く」
「分かりました」
鏡花は一礼し、見藤の元へ歩み寄る。彼女への嫌悪感を拭えず、見藤は一歩足を引いた。
「こちらへ、どうぞ。八尺様がお待ちです」
鏡花が口にした、霧子の怪異としての名。見藤は不快だと言わんばかりに眉を寄せる。霧子への想いを胸に抱き、鏡花の後に続いた――。
* * *
見藤は鏡花の案内の元、暗がりの階段を下っていた。木の軋む音は徐々に石を叩くような音に変わり、まるでそこは冷たい監獄のようだ。階段を行く足元を行燈が照らし始める。
すると、静まり返っていた空間に、鈴を鳴らすような声音が響く。
「わたくしは貴方が羨ましかった。何故、ひとりで逃げたのか」
見藤は弾かれたように、先を行く鏡花の背を見やる。背中からでは彼女の表情を窺い知ることはできない。ただ、酷く小さく見えた。
――彼女は語る。歩みを止めることなく、淡々と。
「何故、わたくしも一緒に連れて行って下さらなかったのか」
並べられた言葉に反して、声音に怨嗟は籠っていない。彼女の中にある疑問を口にしているだけのようだ。
見藤は困惑した表情を浮かべる。彼女の言葉から察するのは、本家の役目や呪縛から逃れた見藤を糾弾しようにも、その複雑な心持からできないでいる――、といった所だろうか。
(彼女は、誰だ……? 俺は知らない――)
少年の頃、過去の記憶をいくら掘り起こそうとしても、「鏡花」という少女は存在しない。困惑したまま、口を閉ざした。
すると、鏡花は懐古するような感情を声音に滲ませながら、そっと語る。
「故郷を離れた頃から、ずっと貴方の話を聞かされて育ちました。父から、家の者まで皆、口々に言うのです。貴方の類まれなる才能、身に宿した不思議な瞳。彼らは恨み言ばかりでしたが、わたくしには全て違うように聞こえていました。だから――、僅かに抱いた憧れは恋慕となったのです」
さらに言葉を重ねた。それは隠していた心情を吐露するかのように――。
「貴方との婚姻が成されなければ、わたくしは賀茂家に嫁ぐことになります。わたくしでさえ、父にとっては再興の道具なのです」
当主が強要しようとした、婚姻関係はそのような事情があったのかと、見藤の中に呆れた感情が蘇る。彼女の独白に、見藤は何も語らない。
二つの足音が、暗がりに響き続ける。周囲は徐々に地下牢のような造りへと変わっていく。もうすぐ、盛夏が近付くというのに、冷たい空気が流れている。
小さく息を吸うような音が反響し、鏡花は語る。
「貴方とであれば、とわたくしが切望したのです。初めて……、父に意見しました。会合のとき、あの場から救い出してくれた貴方はきっと――」
「俺が心から愛するのは霧子さんだけだ」
見藤は彼女が言い掛けていた先を遮り、堅固に言葉を紡いだ。低い声音が、周囲に反響する。――不意に、冷たい風が頬を撫でた。




