75話目 目覚める怒り③
* * *
まどろみの中、得も言われぬ不快が霧子を襲う。弾かれたように意識が覚醒し、次の瞬間――。
霧子の目に飛び込んで来たのは、見慣れない床。しかし、部屋というには語弊がある。視線を少し上げれば、そこは座敷牢のような造りをしていた。座敷牢は湿った土の匂いに満ち、空気の流れが悪い。
(どういうこと……? 私、匣に閉じ込められたはず……)
状況が分からず、茫然と時間が過ぎていく。すると、そこに掛けられたのは鈴が鳴るような声。
「お目覚めですか?」
「あんたっ……」
聞き覚えのある声に、霧子は語気を強め、声の主を探す。体を起こすと、途端に遠のく床。それは自身が怪異としての姿を晒していると認識するには十分だ。彼女の体は八尺にもなる影を床に落としていた。
しかし――、自由を奪われていることに気付く。
霧子の視線の先にあるもの。それは意識が途切れる寸前まで目にしていた、封印の紋様だ。両腕、両足を拘束するために皮膚を這い、さらには首にも紋様が束になり、巻き付いている。それらは全て床に繋がっていた。
霧子は怒りを露わに、声を荒げる。
「ちょっと、何よ!? これ――」
紋様の拘束から逃れようと、ひと思いに腕をもたげた。怪異としての姿を晒しているのだ。怪力をも超える力をもってすれば、拘束など簡単に振り解けるだろうという目算だ。
しかし、声の主――、鏡花は呆れたように言葉を掛けた。
「あらら……。わたくしの話を聞いていなかったのですか? 血の呪いの話。そうやって逃れようとして、不用意に体を動かすと――」
「うぅっ……! かっ、は――」
抵抗も虚しく、霧子がもたげた腕は締め上げられ、首に巻き付いた紋様は拘束を強めた。首を締め上げられた苦しさで、霧子の視界は涙で滲む。床に繋がる紋様はその長さを短く変え、霧子は床に伏せるような姿勢を余儀なくされた。
すると、ようやく鏡花の姿を目に捉えた。滲む視界を少しでも明瞭にしようと眉を寄せ、彼女の顔を目視する。
鏡花は牢の向こう側から、こちらを覗いていた。霧子の神経を逆撫でする、あの悦に浸るような表情を浮かべている。
「封印の紋様がより一層、体を締め付けて――。貴女への加害となる」
「ふっ……、うぅっ……」
「まぁ、言うなれば――。怪異を従わせるための拷問道具のようなものですね。抵抗すればする程、徐々に封印が進行する」
こともなげに語る鏡花は周囲を見渡す素振りをして見せた。霧子はその視線の先を追う。目にしたのは、牢の向こう側に怪異封じらしき札が所狭しと張り巡らされている光景。
鏡花はしばらく霧子を注視したかと思うと、はたと声を上げた。
「しかし、こうして貴女様を視てみると……。その美しさも、慎さんへの感情も――」
もったいぶった様子で話す鏡花。彼女はそこで一度言葉を切ると――、得も言われぬ笑みを浮かべてみせた。
「全て偽物ですわね」
霧子は言葉の意味を理解できず、茫然とする。ようやく開いた口から出た声は、掠れていた。
「どう、いう意味……?」
「あら、お気付きでなかったのですか? 貴女様の愛は人々の認知が作り上げた、幻想なのです」
鏡花の言葉が重く、霧子の心に食い込んだ。――愛は幻想。
彼女はさらに言葉を続ける。
「所詮、怪異は人々の認知によって存在を左右される。八尺様は人間の男に恋をする――。貴女様はその認知に踊らされているだけなのです」
霧子は困惑し、言葉を失う。鏡花が発した一言一句が、脳裏にへばりつく。
「八尺様の美しさは人間の男を惑わす。人々の認知によって、八尺様は人間の男を愛することに存在価値を見出す」
鏡花は下卑た笑みを浮かべながら、言葉を次々と並べていく。――反論しようと口を開く。しかし、言葉が、声が出て来ない。霧子は震える唇を噛み締めるだけで精一杯だった。
牢の前に佇む鏡花は、霧子の動揺を視て楽しんでいるようだ。霧子はそれを理解し、更に強く唇を噛み締めた。ぽたり、と床に血が滴るほどに怒りの感情が湧き上がる。
鏡花は語る。
「しかし、皮肉なことに――八尺様は年頃の男を憑り殺してしまう。それを繰り返し、怪異として認知と力を得る」
その言葉を耳にした霧子は弾かれたように、鏡花を見やる。すると、彼女は考え込む仕草をし、挑発するように首を傾げてみせた。
「それがどういう訳か……。慎さんには通用しなかったようですね。まぁ、『大御神の落とし物』を宿していた彼ならば……当然でしょうか?」
霧子の脳裏に、封印から目覚めて間もない頃が思い出される。霧の中の逢瀬、少年だった見藤とのささやかな時間。――彼と共に在りたいと願った。不幸が襲い、悔恨を胸に抱き続けながら、荊の道を進む彼を守ろうと誓った。
彼と共に過ごした時間、抱く愛情。ようやく触れ合った体温は幸福で、限られた時間を噛み締めるかのように求め合った。
しかし――、鏡花の口から放たれたのは、残酷な言葉。
「ですので、貴女様が愛するのは――。彼でなくても良い、という訳です」
怪異は認知によって存在を左右される。見藤慎を愛し、想う心すら――、人々の認知に依存するのか。霧子の心を、灰色の疑念が侵す。
咄嗟に放った言葉は悲痛に満ちていた。
「嘘よっ……!! 私は、あいつを――」
はたと言い掛けた言葉を噤む。
――本当に? この感情はホンモノ?
頭で声が響く。答えることは出来なかった。
悲痛な表情を浮かべ、困惑する霧子に勝機をみたのだろうか。更に追い打ちを掛けるように、鏡花は言葉を重ねる。
「そこで、八尺様。わたくしに、慎さんを譲って下さいませんか?」
「あんた! 一体、何なのっ……!!」
霧子は叫んだ。怒りをぶつけるように、悲しみを露わにして――。体をもたげようと強く抵抗するが、紋様の拘束は強まるばかり。遂には床に突っ伏すような体勢になってしまう。
鏡花は膝を折り、牢の外側から霧子を覗き込んだ。
「そうですね。ご質問にお答えしましょう」
「…………?」
彼女の声音は遊びに誘う子どものようで――。霧子は到底、理解できないモノを見る目を向けた。
鏡花は遠い昔を思い出すかのように、目を細める。
「わたくしはただ、視ていただけなのです。故郷にいた頃から――」
「だから、それはっ――!」
霧子は咄嗟に声を上げた。見藤家が興した村――、彼女の故郷が澱みに呑まれた凶事は二十年にも遡ることだ。今現在、妙齢の彼女は幼子だったはずだ。それが何故、こうも見藤に執着するのだろうか。
鏡花は霧子の疑問に答えるかのように、笑みを溢す。
「幼子だったわたくしには、朧気ながらも記憶があります。本家に呼ばれる、綺麗な顔立ちをした男の子のこと」
「…………!?」
「ふふっ、不思議ですよね。あれ程、幼い頃の記憶だというのに……。慎さんのことだけは覚えているのですから。それに――、周囲の大人達の反応から察していました。彼には近付いてはいけないと」
霧子が知らない、見藤本家の内情。彼女が語ったものだけでは、見藤との繋がりを強固に求める動機として疑問が残る。しかし――、霧子にそれを追求する心の余裕はなく。ただ、語られた言葉を飲み込むだけだ。
鏡花はすっと表情を変え、冷たい視線を霧子に送る。
「だから――、ずっと視ていました」
「あんた、おかしいわよ……」
「えぇ、そうですわね」
霧子の言葉を受け流し、さも気にする素振りも見せず。鏡花は悪戯に首を傾げて見せた。
「まぁ、これで。わたくしの想いは理解して頂けたのではないかと」
「解る訳ないでしょっ!! ふざけないで……!!」
座敷牢に響き渡る、霧子の怒号。大きく空気が揺れる。周囲に張り巡らされた札が靡き、数枚は効力を失い、地に落ちた。
鏡花は、はたと揺れていた札を見やる。しかし、空気の揺れが収まると、興味を失ったようだ。平然とした態度で霧子に向き直る。そうして、再び口を開く――。
「それに――、会合の時。好機の目に晒されていた、わたくしを助けた彼が……。まさか、慎さんだったなんて」
恍惚とした表情を浮かべながら、紡がれた言葉。
――会合。見藤が助けた女。
霧子の記憶の中で、繋がるもの。呪い師達の会合が開かれたとき、霧子は見藤を見守っていた。彼の目にしたもの、感情をそこはかとなく感じ取れる。それは契りを交わした二人の特質だった。
(恩を仇で返すような真似を……)
霧子の凍てついた視線が鏡花を射抜く。しかし、彼女は臆することなく霧子を見下ろす。
そうして、そっと開いた口から出た言葉は――。
「運命だと思いませんか?」
――狂っている。それは狂愛と呼ぶに相応しい。
霧子が抱いた強烈な不快感。彼を守るためには、この女を憑り殺さねばならない――。怪異としての性分が警鐘を鳴らす。
じっと、霧子が睨む中、鏡花は独り言のように語る。
「それを教えて下さった、芦屋家ご当主には感謝せねばと思います。まぁ……、彼は今頃、自責の念に苛まれていることでしょう。自身が敬愛する存在を裏切ったも同然なのですから」
彼女の口から語られた芦屋の心情。
霧子はふっ、と目を伏せる。次に口を開けば、自身でも驚くほど低く、冷たい声音で呪詛を放つ。
「…………ここまで人を憎いと思ったことはないわ」
「あら、それは光栄ですわね」
にこりと微笑んだ鏡花は立ち上がる。霧子を見下ろしながら、悦に浸る表情を浮かべた。
「さて、慎さんが尋ねて来るまで。どうか、お休みになられて下さい」
「はっ……、うぅ……」
鏡花の言葉に呼応するように、紋様の拘束が強まる。――骨が軋み、痛みで呼吸が浅くなる。霧子は固く目を閉じた。
「そうでないと――。慎さんと会うときには、無残な姿を晒すことになりますよ?」
そう言い放ち、鏡花は立ち去った。
座敷牢に残された霧子は、ただ時が過ぎるのを待つ他なかった――。




