74話目 忍び寄る過去の虚像③
* * *
長雨が続く中、事務所では頭を悩ませている見藤がいた。
「う〜ん……」
「どうしたんです? 見藤さん」
「いや、ちょっとな……」
見藤は言葉を濁しながら、久保を見やった。
牛鬼の依頼を終えた後。久保はこうして偶然にも事務所を訪れていた。彼曰く「今日は来ないといけないような気がした」と言う。もちろん、東雲も一緒だ。
助手二人は半壊した事務所内を目にした途端、悲鳴を上げたものだ。見藤はそれとなく、事情を説明する羽目になった。
それから、見藤は壊れた扉やローテーブルを片付けようとしたのだが――。昨晩と異なる光景に首を傾げていた。
(芦屋から受け取った桐箱が粉々だ……。牛鬼に左手を返してから、桐箱は事務机に置きっぱなしになっていたはずだ)
そっと事務机に触れる。僅かな傾斜を感じ、よくよく見れば机上に敷いたデスクマットの下。亀裂が生じていることに気付く。
「机が……、割れている」
「えっ、本当ですね。これも牛鬼さんが暴れた跡なんですか?」
「いや……、違うはずだ」
久保の疑問を、見藤は否定する。牛鬼が破壊したのは、扉とローテーブルだけだ。頑丈な事務机に亀裂を生じさせるようなことができるのは怪異である霧子か、妖怪である猫宮が火車の姿をとった時か――。
しかし、猫宮は久保と東雲を手伝ってからというもの。いつものように酒をせびり、煙谷の所に入り浸っていたはずだ。そうだとすれば、事務机に亀裂を生じさせたのは霧子で、桐箱を破壊した際に力加減を誤ったのだと、簡単に予測できる。
霧子は何故、桐箱を破壊しなければならなかったのか――。見藤は答えを見つけられず、首を傾げるばかりだ。
(何だ、妙に引っ掛かる……)
『枯れない牛鬼の手』は無事に持ち主の元に返した。保管していた物がなくなれば、桐箱は不要な物となる。憂いは何もないはずだ。
ふと、見藤が視線を上げると目に入ったのは霧子の神棚。――胸がざわついた。
「霧子さんの神棚――」
得も言われぬ不安感を抱き、見藤は急いで神棚を確認しようと、脚立を構えた。神棚に手を伸ばし、お供え物をどかす。すると、目に飛び込んできたのは、霧子の神札。それは静かに異変を知らせていた――。
「名前が消えている……。どうして――」
「見藤さん。一体、何が――?」
「神札だ。ここに、霧子さんの名を書いていた……。そうすることで、この神棚は霧子さんの社として分霊されたはずなんだ」
脚立の足元から、久保の声がする。見藤は神棚から視線を逸らさず答えた。じっと、神棚を見つめ、思考する。
(前に、霧子さんとの縁を切られたときのように神棚が壊れるようなことは起きていない。名入れしていたはずの神札が白紙になった……)
答えの出ない異変。――そう言えば、今日はまだ霧子の気配を感じていないことに気付く。神棚の紙垂が揺れることもなければ、姿を現すこともない。昨晩、霧子と共に抱きしめ合って眠ったのだ。しかし、起きて見れば霧子の姿はそこになく。社である神棚に還ったのだと、思い込んでいた。
すると、そこで慌てたように声を上げたのは――、東雲だった。
「見藤さん! それって……」
「東雲さん……、何か分かるのか?」
「はい。うちの神社に寄せられた相談でも昔、同じようなことが起こって……。そのときは、消えるのではなくて、神札の文字が薄くなる怪奇だったんですけど……」
そこで言葉を切り、東雲は考え込む仕草をして見せた。
「その神棚から神さま――。要は霧子さんが居なくなった、ってことはないですか……?」
「…………心当たりがない」
そう呟いた見藤は視線を神棚に戻すと、祀っていた神札を大事そうに手に取る。
「もし、祀られていた神さま自体が、どこかに閉じ込められたら……? 土着信仰のある怪異だったら、その土地から引き離されるようなナニかが起こったのだとしたら……」
勘の鋭い東雲が言うことだ。特に彼女は神職に通じる知識を持つ。それは久保も理解しているようで、東雲の言葉に絶句している。
沈黙の後、口を開いたのは久保だ。彼の言葉は、その場にいた皆が考えたことだった――。
「一体、誰がそんなこと……」
「……………………」
ただ、見藤だけは違った。彼の中に、思い当たることがひとつだけあったのだ。険しい表情を浮かべ、項垂れるように視線を下に向けた。それから、ゆっくりとした動作で脚立から降りる。
「見藤ォ、何を警戒してるんだァ?」
「猫宮……」
「まァ、姐さんのことだ。大丈夫だろ」
不意に掛けられた言葉。猫宮はのそりとソファーの下から這い出て来た。どうやら今の今まで、そこにいたようだ。微かな酒の匂いを漂わせながら、寝ぼけまなこで見藤を見やっている。
しかし、見藤は表情を変えず――、堅固に言葉を発する。
「駄目だ」
「んァ?」
その言葉が何を意味するのか、誰も理解できず。久保と東雲、猫宮が怪訝な顔をしたときだ。
『カァァカァァ、ガァッ! ガァッ!』
「ンにゃっ!? 烏だ!」
唐突に響く、烏の不気味な鳴き声。猫宮は警戒心を露にし、毛を逆立たせた。
霧子と見藤の縁が切られたとき、事務所に度々届いていた贈り物があった。見藤の所在を突き止めようとする、何者か。それを思い出した久保と東雲は弾かれたように窓を見やる。
すると、声の主の烏は事務所の内側に姿を現した。窓は閉まっているはずだ、と久保と東雲は得体の知れないものに嫌悪感を抱き、眉を寄せる。しかし――、見藤はじっと、烏を見つめていた。
烏は不意に嘴をもたげ、口を開く。
『こんにちは。わたくし、見藤家の者にございます。つきましては、新たな地に構えた見藤本家。そこまで足を運んで頂くため、特別な招待状をご用意しました。お気に召されるとよいのですが――。それでは、お待ちしております故』
「…………」
見藤は沈黙していた。――この烏は見藤家の式であり、使いだ。
烏が発した内容、見藤は理解できる。これは「本家に戻れ」と遠回しに言っているのだ。さらに、見藤の足を本家に向かわせるため、何か策を講じているに違いない。
すると――、烏は悶え苦しむように身体を捻った後。一枚の紙と、束ねられたナニかに姿を変えた。それを目にした猫宮は、驚きの余り声を荒げる。
「ンにゃっ!? おい! 見藤っ!!」
「あぁ……。これは――、霧子さんの髪の毛だ。俺が見間違えるはずがない……」
「スンスン……。匂いも、大方そうだろうなァ。何だこりゃ、趣味が悪いぞ……」
猫宮の言う通りだ、陰惨極まりない。
見藤は束ねられた髪から、霧子の残滓を視た。そうでなくても、彼女の髪を愛しげに梳いた記憶がある。光に反射すると紫黒に輝く髪だった。
しかし今、目の前にあるのは無残にも痛み、切り口は疎らな髪だ。不揃いな毛先は抵抗したような素振りを窺わせる。
脳裏によぎる、霧子の悲痛な表情。見藤は唇を噛み締めた。口の中に広がる、僅かな血の味。悔しさと怒りで、我を忘れるような錯覚に陥る。
見藤と猫宮の言葉に、驚愕の声を上げたのは久保と東雲だった。
「えっ……、見藤さん!? どういうことですか!」
「そ、そうですよ! 一体、何がなんだか――」
彼らの言葉は見藤の耳には届かない。――予期せぬ凶事。それを目の当たりにした見藤が思うことはひとつ。
(逃げ回るのは終わりだ――)
それは過去の因縁との対峙。逃げ続けた過去と決別する時が来たのだ。
ここまでご覧頂き、誠にありがとうございました。
これにて7章「決別編」は幕引きとなります。活動報告にて、7章における自作語りをしています。7章に登場した昔話などの補足、小ネタがあります。興味のある方は是非^^
次回より、最終章となる8章が始まります。
ここまで見藤が歩んで来た軌跡。最後まで、ご覧いただけると幸いです。




