74話目 忍び寄る過去の虚像②
意味深な言葉を発した芦屋。彼は溜め息をつきながら、大広間に設けられた脇の通路を見やる。
「入って下さい。先程から、視ていたのでしょう?」
彼はじっとりとした眼差しで、呆れたように言い放った。
霧子は屈んでいた体を戻すと、芦屋の視線につられて同じ方向を見やる。すると――、そこに佇んでいたのは背格好から判別するに、女だろう。
燭台に置かれた蝋燭が放つ、僅かな光。雨が降り続く天候では、大広間に射す光は少ない。微光では彼女の顔を判別できず、霧子は眉を顰めた。彼女はゆったりとした足取りで大広間の中央まで歩み寄って来る。
霧子と芦屋が佇む、絵画があったと思しき場所。そこまでは来ずとも、彼女の顔が露になる。――どこかで見た、面影を宿している。そのことに気付いた霧子はさらに眉を寄せた。
彼女は艶やかな黒髪、黒真珠のような瞳に、綺麗な顔立ちをしている。彼女は霧子を見据え、笑みを浮かべながら口を開く。
「こんにちは」
「……」
霧子は不愉快と言わんばかりに、冷ややかな視線を送る。
しかし、彼女は臆することなく霧子と対峙した。ぴたりと足を止め、一礼して見せたのだ。姿勢を直すと、笑みを絶やさず言葉を続ける。
「申し遅れました。わたくし、見藤家の者にございます。鏡花とお呼びください」
「ふぅん……、私には関係ないわね」
見藤家、その言葉に霧子は僅かながら眉を動かした。しかし、見藤本家が見藤の所在を追っているのは百も承知。今更、動揺すべきことではないと、素っ気なく返す。
しかし、彼女――、鏡花は悪戯に首を傾げて見せる。
「そう、ですね。貴女様に関係ございません。ですが――、慎さんは如何でしょうか?」
「…………」
――何故、この女が彼の名を知っているのか?
腹の底から湧き上がる嫉妬と怒りに、霧子の瞳に浮かぶ瞳孔は蛇のように変化する。
霧子の纏う空気が変わったと察したのだろう。鏡花は悦に浸るような笑みを浮かべ、語り始めた。
「私も見藤家の者ですから知っていますよ、あなた達のこと。故郷にいるとき、ずっと視ていましたから」
霧子は大きく鼻を鳴らす。
「……ハッタリもいいとこね。いくつよ、あんた」
「ふふっ」
意味深な笑みを浮かべる鏡花は変わらず、挑発を続ける。しかし、霧子はその手に乗るまいと、彼女を睨みつける。
すると、彼女は霧子へ手を差し伸べ、用件を口にした。
「つきましては、わたくしめと一緒に来て頂きたいのです」
「お断りするわ」
答えは決まっている。霧子は怒りを滲ませながら、端的に言い放った。
しかし、鏡花の反応は予想外のもので――。笑みを浮かべたまま、懐から鈍色に光るものを取り出した。そうして、語り掛けるように話す。
「そう、仰ると思っていました。ですから――」
言葉を切ると、同時か。手にした鈍色の何か、それは剃刀だ。鏡花は刃を手のひらに充てがうと、躊躇なく手前に引いた。――次第に滲む、鮮血。ぽたり、と一滴垂らされた。床に染み込む血。
彼女はそれを見届けると、両手を広げた。
「見藤家が得意とする、怪異を囲う術をお見せしようかと思いまして」
その言葉を耳にした途端、霧子は得も言われぬ感覚を抱く。
――それは昔、人との争いに敗れたとき。屈辱とも呼べる扱いを受けた。死を迎えた最愛のヒトを見送ることすら許されず、化け物と罵られる。残る最後の記憶は寒くて、暗い、封印の祠。
脳裏に蘇る感覚に、霧子は血の気が引いた。
「何をするつもり……!?」
咄嗟に、鏡花の動きを妨害しようと手を伸ばした。しかし――。霧子の体はそれ以上、近付くことは出来なかった。くん、と体を引かれ、体中に異物が這うように巻き付いていることに気付く。
(拘束されている……!? あぁ、そう……。お坊ちゃんの仕業ね、ほんと隠すのが上手)
振り返り、芦屋を睨み付ける。すると、彼はわざとらしく肩をすくめて見せた。良く見れば、体を這うように拘束しているのは紋様だ。どうやら、怪異を拘束するための呪いを鏡花が発動させた。芦屋はそれを、時が来るまで隠匿していたようだ。
してやられた、と霧子は唇を噛む。挑発に乗らないことに意識を向けていたことが祟ったのだろうか。
すると、鏡花は芝居じみた所作で大袈裟にものを言う。
「八尺様。あぁ、どうか気を悪くなさらないで。これは必要なことなのです」
怪異としての名を呼ばれ、霧子は犬歯を剥き出しにする。このような小娘に名を呼ばれるなど不愉快極まりない、と怒りを露わにする。
紋様の拘束を振り解こうと、大きな体をもたげた。しかし――、拘束は強まるばかり。苦しさに奥歯を食いしばり、短い息を吐いた。
(どうして……、振り解けないの!? それに、こんな小娘。憑り殺すなんてこと造作もないはず……)
ふと湧き上がる疑問。霧子は見藤から『大御神の落とし物』である深紫色の瞳の力を手にしている。さらに、芦屋の言葉が正しければ、その存在は『神異』に近付いていることになる。そうなれば、人の娘ひとりに後れを取るはずもなく――。
しかし、目の前の鏡花は悠然と構えている。そうした態度も霧子の神経を逆撫でする。
鏡花は霧子を見据えながら、悪戯な仕草で首を傾げた。そして、言葉を続ける。
「さぞ、不思議に思っていらっしゃることでしょう。『神異』に近付いた怪異である貴女が、わたくしのような小娘に捕らえられるなんて……と」
――図星だ。
彼女の物言いから察するに、やはり何か理由があるようだと、霧子は少しだけ平静を取り戻す。しかし、無駄な抵抗だと言わんばかりに、鏡花は嗤って見せた。
「簡単です。慎さんとわたくしは遠縁と言えど、同じ血筋ですから。この呪いを発動させるまで、確証はありませんでしたが……。上手くいきましたね。――血で象られた封印の呪いの効力は言わずもがな」
霧子と見藤は契りを交わしている。より深くなった絆と愛情が、仇となったのだ――。鏡花の言葉に、霧子の表情は弾かれたように悲痛なものに変わる。
それを目にした鏡花は悦に浸る笑みを見せた。
「皮肉ですね。愛した男と同じ血で、囚われるなんて」
「よく、回る口だわ……!!」
その言葉は見藤に対する侮辱であり、霧子にとっては屈辱だ。霧子は怒りに目を見開き、拘束を振りほどこうと力を込める。
しかし、鏡花が手で握り潰す動きをすると――。それに呼応するように、紋様は霧子を地に沈めた。
霧子は床に縫いつけられるように拘束される。さらに強まる縛りに、呻き声を漏らした。
「うぅ、……」
「慎さんが見藤家にお帰り頂くためには――、こうする他ないのです」
さも残念そうに語るが、鏡花の表情や声音は惜しむ感情を微塵も感じさせない。
霧子はぐっと唇を噛む。怒りによるものなのか、喉が焼けるように熱い。だが、構っていられなかった。――怒りの限り、叫ぶ。
「ふざけないでっ……!! 散々、縛り付けて、踏みにじった! 外道が……!」
大広間に轟く、怒りの言葉。空気が揺らぎ、蝋燭の光は消え失せた。あまりの気迫に、芦屋は息を呑む。
だが――、鏡花は平然と霧子を見据えていた。少し間を置くと、彼女は不服と言わんばかりに鼻を鳴らし、口を開く。
「それは言い掛かりも甚だしいですわ。必要なこと、ただそれだけです。それに――、そちらの方が彼の才能と力を引き出せた。それだけです。一族の繁栄も、彼の立派なお役目でしたから」
「あんた……、考えが古いわよ?」
霧子は負けじと言葉を重ねた。――この女は敵だと、祟り殺さねばならないと。霧子の本能が告げている。しかし、成す術はなく――。
鏡花はゆっくりと地に伏した霧子の元へ歩みを進めた。
「そうですね、わたくしも……。そう思います。ですが、この生き方しか知らないものですから。それはきっと、慎さんも同じはず――」
「っ……!」
鏡花の言葉を皮切りに、霧子を拘束していた紋様は匣に形を変えようと蠢き出す。
霧子は絶望に顔を歪ませた。――己が封印されることに絶望したのではない。それは残していく見藤への悔恨。
その光景を眺めていた鏡花は、はたと思い付いたように口を開いた。
「あぁ、そうです。折角ですので――」
「い、あぁっ……!!」
「これが必要ですわね」
一瞬の出来事だった。
鏡花は悲鳴に構うことなく――。霧子の髪を手荒く掴む。その次には、手にしていた剃刀刃で、髪を切り裂いた。剃刀刃が霧子の艶やかな髪に傷を作り、無残にも切り落とす。
一度で切断できる髪の量では飽き足らず、何度も、何度も。――それは嫉妬に狂ったような女の行為。
霧子は抵抗する。紋様が蠢き、体を締め付けた。骨が軋む音を上げても抵抗をやめることはない――。
「こ、のっ……!!」
「もう十分でしょう」
「っ……!?」
鏡花の言葉に呼応するように、紋様の蠢きが速さを増す。そうして、紋様が霧子の体を覆い尽くすと、現れたのは――封印の匣。
――霧子は封印されたのだ。ごとり、と匣が床に落下した音が大広間に響く。
「それでは、しばしの眠りについて下さいね。目を覚ましたときには、きっと愉快なことが待っていますよ」
匣に囚われた霧子に、鏡花の言葉は届かない。意味深な言葉と共に、鏡花は目を細める。
一連の光景を、少し離れた場所で眺めていた芦屋は辟易とした表情を浮かべていた。ゆっくりとした足取りで、鏡花の元まで歩み寄ると口を開く。
「これまた……、随分と芝居じみたことをしましたね」
「貴殿に言われたくはありません」
心外だと言わんばかりに鼻を鳴らした彼女は封印の匣を拾い上げた。匣に添えたのは、霧子の髪束。
それを目にした芦屋は小さく溜め息をつくと、声を掛ける。
「まぁ、結果としては上々でしょう」
「えぇ、そうですわね。彼らのどちらか一方に接触できればよかったのですから。偶然にも、怪異の方で助かりました。怪異であれば封じる方が容易い」
笑みを溢しながら語る鏡花。そうして、言葉を続けた。
「慎さんはこの怪異にご執心なようですので、きっと本家に戻って下さいます」
「…………」
彼女は大事そうに匣をひと撫でした。それを目にした芦屋が抱いた感情は底知れぬ不快感だ。眉を寄せながら、吐き捨てるように言い放つ。
「これで手切れです。派閥離反の代償はこれにて精算しましたので」
「えぇ、承知しておりますわ。それでは、失礼いたします」
霧子を封じた匣を抱え、鏡花は大広間を後にした――。残された芦屋はきびすを返す。どうやら、早々に興味を失ったようだ。暗がりの廊下を闊歩する。そっと呟いた言葉は、疲労が滲んでいた。
「首の皮一枚繋がったか、否か。どうなることでしょうね……」
芦屋の独り言は雨音と共に消えた。




