74話目 忍び寄る過去の虚像
静けさに包まれた部屋。
霧子は長い睫毛を震わせ、目を覚ました。視界に入るのは、安らぎに満ちた見藤の寝顔。その顔を見れば、自ずと口元が綻ぶ。そっと体を起こし、カーテンから僅かに覗く光は薄暗い。耳を澄ませば、僅かな小雨の音。
再び、視線を見藤に戻す。彼は目を覚ます気配はなく、深い呼吸を繰り返している。
霧子は目を細めると、身を屈めた。見藤の額にそっと口付けを落とすと、名残惜しそうにしながらも離れる。彼は少しだけ体をたじろがせると、再び深い寝息を立て始めた。
「さてと……」
小さく言葉を溢し、ベッド脇から足を下ろす。床に足を着けると、霧子の体は人を模したものから一変。怪異として、長身の姿を晒す。霧が立ち込め、室温が僅かに下がった。
もぞり、と布団が擦れ、寝返りをうつ音が聞こえる。霧子は慌てて振り返った。しかし、見藤は眠ったまま。ほっと胸を撫で下ろし、顔を上げた。
(知られる訳にはいかないもの)
目を伏せ、心の内に呟く。意を決した表情を浮かべ、ドアノブに手を掛けた――。
体をもたげながら扉をくぐる。事務所に足を踏み入れると、昨晩の名残が目に入る。
怒りに呑まれかけた牛鬼が壊した、扉とローテーブル。端に寄せるといった具合に、片付けられているものの、目にすれば困ったと眉が下がる。さらに扉は応急処置として、ただのベニア板が簡易的に貼られているだけだ。
霧子は視線を事務机に向ける。そこには中身がない桐箱が置かれていた。無事に『枯れない牛鬼の手』を持ち主に返したのだ。ただの箱となった真新しい桐箱は役目を失った――、はずだ。
「ほんと、悪趣味」
桐箱を睨みつけながら、言葉を溢す。目に映るのは、呪いの痕跡。
(慎につけられた痕跡。私の目から隠す、呪い。さながら、神隠しを人の手でそう見せかけるような……。私達を引き離そうとするなんて、傲慢も甚だしいわ)
霧子は見藤に仕掛けられた呪いを思い出す。いくら見藤と言えど、隠匿を司る芦屋家――。それも当主ほどの実力となると、彼が術中に嵌るのは仕方ないことだろう。霧子が見藤の指に噛み付いたのは、仕掛けられた呪いを上書きし、消し去る為だった。
霧子は不愉快な気持ちまで思い返すことになり、大きな溜め息をつく。
事務机まで歩みを進めると、手を握り締めた。拳を桐箱目掛けて振り下す。容赦ない力加減で振り下ろされた拳は――、桐箱を木端微塵にした。ぱらぱらと木屑が落ちる。――事務机にまで、亀裂が入ったことは黙っておこうと、視線を逸らした。
「ふぅ……」
満足げに息を吐く。呪いを媒介したのは、この真新しい桐箱だったもの。それを破壊したのだ、これで見藤に害は及ばないだろう。霧子は手をはたきながら、桐箱の残骸を注視する。
(桐箱に仕掛けられた呪い、それに――。慎が気付かないよう、極限まで気配を意図的に消した、遅効性の呪術。その全て、例のお坊ちゃんの仕業……)
霧子の中に芦屋の顔が思い浮かんだ。彼と直接、対峙したことはない。だが、契りを交わしている見藤が目にしたものや、抱いた感情は手に取るように分かる。その中で印象に残っているのは、見藤と芦屋の大袈裟なやり取り。
(まさか、あれだけ慕う素振りを見せておいて、慎を欺くだなんて……。例のお坊ちゃん、いい性格してるわ)
呆れたように溜め息をつく。そっと目を伏せ、唇を固く結んだ。一時そうした後、ゆっくりと瞼を上げる。彼女の花紺青の瞳は淡い紫を混ぜたような色を宿していた。
「お灸を据えるくらい、いいわよね?」
低く、冷たい声音が事務所に響く。不快な気分を払拭するかのように、肩に掛かった艶やかな髪を振り払った。
「あいつは、ようやく自分の為に生きるのよ……。誰にも邪魔させないわ」
その言葉を残し、霧子は姿を消した。
◇
霧子が赴いたのは――、異国情緒に溢れる教会だった。
天候も相まって、薄暗い大広間らしき場所に佇む人影。青年が見上げているのは、おそらく絵画だったものだろう。それは不思議なことに何も描かれておらず、綺麗な白を晒している。彼の銀髪と白が同調し、絵の中に溶け込むような錯覚を起こす。
彼は霧子に気付いたのか、振り返る。すると、その美麗な顔を嫌悪感で歪ませた。しかし、その次には張り付けたような笑みを浮かべ、もったいぶった様子で口を開く。
「これはこれは……」
「少しの時間。お話、いいかしら?」
霧子は臆することなく、言葉を口にする。すると彼――、芦屋は小さく溜め息をつきながら霧子を見据えた。
「構いませんよ。こちらとしても、何故、怪異がこのような場所に姿を現したのか――、気になりますので」
彼の言葉通り、霧子は惜しげもなく怪異としての姿を晒していた。亭々たる長身は怪異である証。さらに、凍てついた瞳を一度でも目にすれば、畏怖の念を抱かざるを得ないだろう。
霧子は一歩、足を進める。――芦屋に忠告するために。
「君が執着してる奴のことよ」
「……どなたのことでしょう?」
「はぁ……、とぼけないで。見世物にしていた、牛鬼の左手を譲った相手がいるでしょ」
「あぁ、あなただったんですね――」
芦屋は納得したように頷くと、張り付けていた笑みを崩した。白緑色の瞳には憎悪を滲ませ、霧子を見据えながら、低い声で言葉を発する。
「彼が祀る怪異。人を惑わす姑息な怪異は」
酷い言われようだと、霧子は肩をすくませて見せる。すると、艷やかな黒髪が肩にはらりと掛かった。可愛らしく首を傾げるが、芦屋の憎悪に満ちた瞳は揺るがない。
霧子はもったいぶった様子で口を開く。
「あら。随分と嫌われてるのね、私。まぁ、いいわ。そんなことより――」
芦屋の歯に着せぬ物言いに、鼻を鳴らした。そこで言葉を切ると、鋭く睨みを利かせる。
「次にあいつを謀るような真似をしたら――、そのときは分かってるわよね?」
「それは――、ご安心下さい。私も彼には嫌われたくありませんから」
霧子の言葉に、芦屋は動じない。それどころか、笑って見せたのだ。――霧子は違和感を抱かずにはいられない。
見藤が芦屋から譲り受けた『枯れない牛鬼の手』を保管した桐箱に仕掛けられた、隠匿の呪い。それは芦屋が何らかの目的をもって施したのだ。見藤への加害を認めると同時に、彼を守護する霧子と言う怪異に知られてしまった。それにも関わらず、余裕綽々と笑みを浮かべながら佇むのは、何か裏があるのか――。
警戒心を抱いた霧子はじっと芦屋を注視する。すると、芦屋は霧子を見据えながら考える仕草をして見せた。それは些か、芝居じみた仕草だ。
「それにしても――。あなた、気付いていますか?」
唐突な芦屋の問い掛け。霧子は怪訝に思い、眉を寄せる。
「自身がただの怪異ではなく――、『神異』に近付いた存在であることに」
「どういう意味よ」
霧子は突き放すような物言いで、芦屋を問い詰める。すると、またも芦屋はこともなげな様子で、言葉を続けた。
「そのままの意味です。彼はあなたを祀っている。さらに、何か契約を交わしているでしょう? 故に、彼は『怪異憑き』として我々の目に映る」
大袈裟な仕草で芦屋は語る。見藤が事務所に設けた、霧子の神棚。そして、二人の契り。核心には至らないが、芦屋は確実に二人の秘密に迫っていた。
霧子は彼が何故、こうもその秘密を暴こうとしているのか――、理解できずにいた。
一方の芦屋は会話の主導権を得たとばかりに、言葉を続ける。
「それだけで特異な怪異ですよ。ましてや、怪異が取り憑いた人間のためにこうして……。呪い師の元に出向くなんて――」
そこで言葉を切ると、余裕に満ちていた表情から一変。またもや、憎悪と嫌悪感を滲ませた。
「異常だ」
低く、冷え切った声音が大広間に響く。
しかし、霧子はその程度のことかと、鼻を鳴らして見せた。ゆったりとした足取りで、芦屋の元まで歩み寄る。見下ろした青年のなんと小さなことか――。
「ふん、お坊ちゃんの知見が狭いだけよ」
亭々たる長身をもたげ、芦屋の視界に入り込むように顔を覗かせる。視線を合わせると、そっと口を開く。
「心配しないで。危害を加えるつもりはないわ。今回は許してあげる」
「その言葉を信じるとでも……?」
「だって、あいつが自分のテリトリーに入れた人間だもの。憑り殺しちゃうと、私が怒られるでしょ?」
「…………」
霧子は嘲笑するように、優しい声音で言い放つ。その言葉は力を有する者の絶対的な優位性を示すには十分だった。
見藤が辟易としながらも芦屋を認め、対話をする。霧子という怪異にとって優先するべきは見藤の意思であり、芦屋の意思ではない――、と示す。それは遠回しに「いつでも手を下すことができる」と言っているようなものだ。
芦屋はぐっと唇を噛む。少しの間を置いた後。悲痛な表情を浮かべ、眉を寄せた。片手で顔を覆い、天を仰ぐ。そっと開いた口から出たのは、諦めにも似た溜め息だった。
「はぁ……、申し訳ないのですが――。このまま、あなたを帰す訳にはいかないのです」
意味深な言葉と共に、覆っていた手を払う。彼の長い銀髪が大きく揺れ、大広間にあった燭台に置かれた蠟燭の光に反射する。
霧子が目にした芦屋の瞳。そこには揺るがない憎悪を滲ませていた。燻っていた火種は大きく育つ――。




