73話目 悔恨を晴らすは己が為③
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夜の帳が幕を下ろし、星々が輝き始めた頃。互いに知らない時間を埋めようと、見藤と牛鬼は語り合っていた。
見藤は師である牛鬼との生活、些細な喧嘩、満たされていた日々を語った。思い出話だが、今でも鮮明に蘇る光景。
ただ、これまでと違ったことがある。師のことを想うと、胸を占めるのは悔恨ではなくなっていた。あるのは、温かな感情。――見藤の表情は晴れやかだ。
牛鬼は見藤の思い出話に、静かに耳を傾けていた。時に頷き、時に笑みを溢す。それは、頭目であった牛鬼の軌跡を噛み締めているかのようで――。
牛鬼は満足するまで、話を聞き終えたのだろう。大きく鼻を鳴らすと、立ち上がった。右腕に『枯れない牛鬼の手』を抱え、見藤に視線を送る。
「さて、無事に左手も戻ってきたことだ。儂は帰ろう」
そろそろ、別れの時のようだ。ただ、違うのは――。この別れはあの時のような突然の別れではない。
見藤は残念そうに、これでもかと眉を下げる。そして、心配事を口にした。
「……これから、どうするんだ? 鎮魂の呪いは――」
牛鬼の中に湧き上がる怒りを鎮めるための特異な呪い。現状、それを知るのは見藤だけだ。また数百年もすれば、牛鬼は怒りに呑まれまいと苦しむことになることは想像に容易い。それに、人である見藤が寿命を迎える方が早いだろう。
牛鬼一族に、鎮魂の呪いを伝えるにしても、古き習わしを覆すことを彼らが受け入れるか否か。それは別の問題だ。
見藤の心配を他所に、牛鬼は緩やかに首を横に振った。なだめるように、穏やかな口調で語る。
「あぁ、よいよい。現世に残っている牛鬼は儂だけだ。随分前に、他の者は幽世に住処を移していてな。幽世であれば時の流れは不変、故に鎮魂の呪いも必要ない」
「それなら……どうして、現世に?」
牛鬼から語られた意外な事実。見藤は思いも寄らない答えに、疑問を口にする。――牛鬼一族を探しても、見つけられなかった理由。それを知り、何故この牛鬼は現世に留まったのか。
「なぁに、儂の左手と兄者が生きた跡を探していただけのことだ。よもや、両方とも叶うとは――」
牛鬼は朗らかに笑って見せた。そして、見藤をじっと見据える。その瞳は深い海のような瑠璃色。
「左手を取り戻せば、幽世に移ろうかと考えていたが……。儂はもう少し、現世にいる理由ができた」
「…………」
ふっと目元を綻ばせて語る牛鬼に、見藤が抱いた感情は言葉に出来なかった。見藤は牛鬼を見上げ、唇を固く結んだ。
牛鬼はゆったりとした足取りで、扉まで向かう。見送りのために、その背を追いかける見藤。
扉を前にすると、牛鬼は見藤を振り返る。彼は満ち足りた表情を浮かべていた。
「ではの」
「……困ったことがあれば、ここに寄るといい」
「あぁ、そうしよう。またの」
互いに別れの言葉を交わす。交わした言葉は再会を望むものだ。それだけで、見藤にとっては大きな意味を持つ。
すると――、背後から凍てついた声が掛かる。
「待ちなさいよ」
「……霧子さん?」
見藤は振り返り、どうしたのかと首を傾げた。ソファーに座ったままの霧子は少しだけ拗ねたような表情を浮かべている。彼女の怪異としての独占欲もあるのだろう。
呼び止められた牛鬼も、見藤と同じく怪訝な表情をしている。
「む、どうしたのだ? 現代の怪異よ」
「慎は芦屋の人間から、あんたの左手を収集物として見せられた時……、酷く怒っていたわ」
「よもや、人間の見世物にされていたとは――。そうか……。その怒り、感謝しよう」
霧子が語ったのは、先の呪い師が集った会合でのこと。余興の場で『枯れない牛鬼の手』を、見藤が初めて目にしたときのことだった。見藤は怒り、哀しみ、己の無力を恥じた。
牛鬼は見藤の方に向き直り、感謝の言葉と共に大きな角と共に頭を下げる。見藤は言葉にできない感情をどう昇華してよいのか分からず、唇をきつく結んだ。
すると、牛鬼は考え込むような仕草をする。霧子の言葉の中で、気に掛かることがあったようだ。
「それにしても、芦屋か……。その名は平安の時代、妖怪退治で名を馳せた者だ。無論、儂の左手を奪ったのも、芦屋だ。あの一族は狡猾で、計算高い――。お主も気を付けることだな」
どうやら、牛鬼は「芦屋」という名に悵恨の情を思い出したようだ。険しい表情を浮かべながら、真摯に忠告する。
告げられた内容に、見藤は困惑した表情を浮かべる他ない。見藤が知る「芦屋」は、現当主である彼だけなのだ。ある時は当主としての采配に悩み、時には年相応な笑みを浮かべる。斑鳩を義兄として慕う。そんな芦屋しか、知らないのだ。
そこでふと、見藤の中に疑問が浮かぶ。会合の時に抱いた怒りの感情、それを霧子の口から告げられるとは思ってもみなかった。戸惑いながらも、そっと口を開く。
「どうして、霧子さんが知って――」
「あんたと契りを交わしてるからよ」
小さく鼻を鳴らしながら、霧子は答えた。やけに強調した言葉があったのは気のせいではないだろう。そのまま言葉を続ける。
「同族の忘れ形見として、慎のことを気に入ったのは分かるわ。――でも、慎は私のものよ」
「ふはは、全く、女の嫉妬とは恐ろしいものよ。安心せい、稀に顔を見に来るだけにしよう」
独占欲と嫉妬を含んだ霧子の言葉。牛鬼は豪快に笑うと、見藤を見据えた。
突如として、間に挟まれた見藤は牛鬼と霧子の顔を交互に見やる。すると、牛鬼は柔らかな笑みを浮かべた。
「そうか、そうか。人と怪異であったとしても――、仲睦まじいのは良いことだ」
「っ……」
それは見藤と霧子の関係を察した口ぶりだ。見藤は恥ずかしさのあまり言葉が出ず――。突沸したように、顔へ熱が集まるのを感じる。ようやく口にした言葉は蚊の鳴くような声だった。
「霧子さん、その言い方は――」
「ふん!」
拗ねた態度を隠そうともせず、そっぽを向いた霧子。見藤は顔から火が出る思いだった。これではまともに牛鬼の顔を見られやしない、と顔を片手で覆う。途端、些か乱雑に頭を撫でられ、髪が乱れる。牛鬼の手が離れる頃、ようやく覆っていた手をどかした。
すると、ばちりと視線がかち合う。牛鬼は右手を軽快に振りながら、扉があった場所をくぐる。
「ふっはっは! ではの~」
「おいっ……!」
恥ずかしさから悪態をつく見藤。結局、散々な見送りとなってしまった――。
* * *
牛鬼を見送った後。見藤と霧子はしばらく二人の時間を過ごしていた。夜半となり、周囲は静まり返る。
ソファーに腰を下ろしていた見藤と霧子。霧子の様子を窺いながら、先に口を開いたのは見藤だ。
「その、今日は一緒に眠りたい。どうだろうか……?」
「えっ」
「いや、その……。ようやく、何の気負いもなく眠れそうで――」
気恥ずかしさから、頬を掻く。――思い返せば、怒涛の日々だった。予期せぬ来訪者――、左手を失った牛鬼。彼の依頼に奔走した。そのために、慣れない輪の中に身を置き、人との新たな繋がりを得た。
突如として出現した、新たな『神異』の詳細は未だ不明だ。調査を始めるには情報が足りず、斑鳩家とキヨの指示を待つ状況。だが、当初の目的は果たされた。ほっと息つく間を手に入れたのだと、肩の力を抜く。
見藤は泣き腫らした瞼を擦りながら、じわじわと睡魔がやって来るのを感じていた。牛鬼と交わした言葉の数々、流した涙。胸にあるものはじんわりとした温かさで、ようやく安堵に包まれながら眠れるのだと、目を伏せた。
ところが――、いつまで経っても霧子の返事がない。途端に、押し寄せるのは不安感だ。
(いい歳して、添い寝を頼むなんて……。不躾だったか……?)
見藤はそっと霧子へ視線をやる。目にした霧子の様子は予想だにしないものだった。
視線を逸らしながらも、頬を染めている。手元は心情を誤魔化すかのように、艷やかな髪をしきりにいじっている。
「そ、そうよね? やだ、私ったら……」
「……んん?」
霧子の不自然な慌てぶりに、見藤は怪訝に眉を寄せる。――途端、睡魔は弾かれたようにどこかへ去ってしまった。霧子の可愛らしい思い違いに気付いたのだ。
「いや! そのっ、妙な意味はなくてだな――」
「わ、分かってるわ!! むし返さないでよっ!」
「いだっ……! 肩が……」
見藤は慌てて言い直したが、後の祭りというもので――。霧子の容赦ない張り手の餌食となった。




