73話目 悔恨を晴らすは己が為
(頼む……! 効いてくれ――)
祈るように、そして、縋るような眼差しを送る。牛鬼は動きを止め、俯いたまま微動だにしない。
しばしの静寂――。
ゆっくりと瞼を上げた牛鬼の瞳は変化していた。怒りに燃えていた深紅の瞳は見る影もなく、青々とした深い海のようで――。しかし、その色とは対照的に、懐疑的な眼差しを向けている。
牛鬼はようやく口を開く。その声は低く、困惑の感情を含んでいた。
「何故、お前がその呪いを知っている……。何故、人であるお前が扱える?」
問い詰めるような視線。見藤は視線を逸らすことは出来なかった。――昔、師の顛末を同族に伝えようと、牛鬼一族を探したことがあった。結局、陳謝の念を伝えることは出来なかった。
だが、いざその時を目の前にすると、告げようとした事実の重さに喉が痞える。
ようやく開いた口は酷く渇き、声は掠れていた。
「俺の呪いの師は――、牛鬼だった……」
それを聞いた牛鬼は表情ひとつ変えない。すると、牛鬼は怒りに呑まれていた様相と打って変わり、小さく呟く。
「稀有な人の子か……」
その言葉が何を意味するのか――、見藤は理解が及ばず、困惑した表情を浮かべる。そのままに立ち尽くしていた。
すると、牛鬼は深い溜め息をつき、床に転げ落ちていた『枯れない牛鬼の手』を拾い上げた。彼の右腕に抱かれた手は動くことはなく、完全に沈黙したようだ。
「少し、話をしよう」
牛鬼の言葉に、見藤が既視感を覚えるには十分だった。おずおずと、ソファーにでも座ろうと声を掛ける。壊れたローテーブルをはさんで、向かい合うように腰を下ろした。
霧子は不服だと言わんばかりに鼻を鳴らした。だが、同席するらしい。彼女は怪異の姿から、人を模したものに変える。すとん、と見藤の隣に座った。
そうして、牛鬼は言葉の先を続けた。
「聞け。我ら牛鬼の説話だ」
見藤はじっと耳を傾ける。そうして、牛鬼は語り始めた。
「我らの役割は増えすぎた人を祟り、その数を減らす。怒りを力の根源とし、祟りを起こすのだ。故に我らは沸き上がる怒りに苦しめられるが、その対価として幾千万の知識と丈夫な体を与えられた」
そこで牛鬼は深い溜め息をついた。
「しかし、怒りの苦しみは数百年抱えるには耐え難い……」
苦しみを思い出すかのように語った牛鬼の表情は暗い。説話というだけあって、彼の口から語られたのは、牛鬼という妖怪が歩んできた古伝だ。
見藤には気掛かりな言葉があった。――役割。座敷童の一件で聞いた言葉だ。すぐさま疑問を口にする。
「与えられた、って誰に……」
「古のことだ、もう誰も覚えていない」
疑問に対する答えは得られなかった。しかし、牛鬼は大きく鼻を鳴らすと、再び口を開く。
「強いて言うなれば、元よりこの地に御座した大御神だろう。我らは所詮、大御神に創造されし箱庭の土人形に過ぎん」
「……胸糞の悪い話だ」
「はっはっは、確かに。まぁ、聞け」
間髪入れず、見藤は辟易とした表情で悪態をつく。――神の遺物と呼ぶべきものは証明されている。そうであれば、牛鬼の話がただのお伽話だと言うには早計だろう。
すると、牛鬼は意外にも豪快に笑って見せた。諭すような言葉と共に、その先を語る。
「故に、頭目は鎮魂の呪いを我らに数百年毎、施してきた。その呪いは頭目にしか扱えん。しかし、ある日突然。頭目は我らの元を去った。我らは同族との繋がりに重きを置く。我らの頭目は繋がりを自ら絶ちきり、人里へ降りた」
人里に降りた牛鬼。そのように稀有な存在はそう現れないだろう。人里に降りたという牛鬼が数百の時を経て辿り着いた場所が、見藤家が興した村であったというのならば――。
見藤がよく知る、翡翠の瞳をした牛鬼。呪いの師でもあり、突然の別れを余儀なくされた。今でも悔恨に胸を締め付けられる。――彼の存在が脳裏を占める。
牛鬼は目を伏せる。その瞳は深い哀しみの色を浮かべていた。
「頭目という導を失った我らの悲しみ。人には到底、理解できまいよ。怒りをその内に抱え、耐える他なかった我らの苦しみもな。……故に、役割より依然に我らは人を嫌い、祟るのだ」
ゆっくりとした口調で、しかし淡々と語る牛鬼の言葉は見藤の耳にへばりつく。
頭目のみが扱えるという鎮魂の呪い。それを今しがた、目の前の牛鬼に施した見藤。それは見藤が師である牛鬼から教わったものである。その呪いを知る師は牛鬼一族の頭目――。
示すものは、目の前にいる牛鬼も察している事だろう。
見藤は項垂れるように額に手を当て、深い溜め息をついた。意を決し、口を開く。
「その牛鬼の瞳は、何色だった……?」
「翡翠だ。頭目は大昔に『大御神の落し物』を食ったのだ。それ故にこの沸き上がる怒りから解放され、朱に燃える瞳も、穏やかな翡翠の色に変えた」
翡翠――、その言葉を聞いて確信した。だが、その次に語られた話は予想だにしないもので、見藤は目を見開き、瞬きを忘れる。
牛鬼はさらに言葉を続けた。
「故に『大御神の落し物』を食らった頭目のみ、鎮魂の呪いを知る。神の遺物と呼ぶに相応しい怪奇な眼を食らったとしても……。得たものは伝承でいう、強大な力などではなかったのだ」
記憶の奥底にある、不思議な眼の逸話。師である牛鬼から聞かされた昔話が脳裏に蘇る。――あれは、牛鬼自身が経験した出来事だったのだ。
見藤は震える唇をどうにか動かす。
「…………俺は、そいつを――」
「慎」
長い沈黙の末、見藤が言おうとした言葉の先を遮ったのは霧子だ。――見藤のことだ。師である、翡翠の瞳を持つ牛鬼を死なせてしまった、自分が殺したようなものだ、と目の前の牛鬼に告げようとしたのだ。
――それを口にしてしまえば、より一層。見藤は自責の念に苛まれる。
そうはさせたくないという霧子の思い。そして、見藤が言おうとしたことを理解していたのは牛鬼も同様だったようだ。
牛鬼は静かに、首を横に振った。
「もうよい。人里に降りたということは、掟を破る覚悟であったと……。我らも理解していた。大方……、結末は決まっていたのだ」
「…………」
「気に病むな、とは言わん。寧ろ、寿命が尽きるまで共に過ごした頭目との記憶を抱えて生きろ。その傷は我らが欲しかったものだ」
「……分かってる」
牛鬼はそう言うと、どこか懐かしむような目をして見せる。そして、見藤はその言葉の重みを理解していた。ぐっと唇を噛み締め、両手を強く握る。
牛鬼はどこか遠くを見やり、語り始めた。
「大方、役割のため抱えざるを得なかった、沸き上がるこの怒りを鎮めるためにと……。人から差し出された『大御神の落し物』に頭目は、それは大層な恩義を感じたのだろう。そうして、恩義を返そうと……。頭目は見つけたのだな――、その眼を持つ者を」
牛鬼は見藤をじっと、見つめる。
――彼の瞳。色は違うが、僅かに紫がかっている。それは『大御神の落し物』を宿していた痕跡とも呼べるだろう。高位の妖怪でなければ気付かないほど、神異な力は失われたに等しい。
先代の『大御神の落し物』の所有者から受けた恩義。それを次代の子に返そうと一族を捨ててまで、人里にて数百年待ち続けた頭目は何を思っていたのか。――牛鬼一族の誰も、知る術はない。
『大御神の落し物』の眼を宿した次代の子。待ち人を得た頭目の喜びは、何ものにも代え難いものだったのだろう。だが、掟を破れば待つのは死だ。
人を助けると、身代わりに牛鬼は死を迎える。それは覆すことのできない掟。
死を迎えるその日まで、少年だった次代の子と頭目はささやかな幸せと、深い優しさに溢れた日々を過ごしていたのだと想像できる。
それは頭目にとって、幼い次代の子の成長を見守る事が酷く幸せな時間だったと、そう願わずにはいられない――。
牛鬼は目を伏せ、物思いにふけっていた。




