72話目 隠匿されし詭計と憂いごと③
* * *
芦屋との会食を終えた見藤は事務所に帰り着いていた。その頃になると、すっかり陽は落ち、橙の光が事務所を照らす。
ローテーブルに置かれた真新しい桐箱。芦屋から譲り受けた『枯れない牛鬼の手』だ。見藤は疲労の色を隠しもせず、ソファーに腰かける。ようやく開いた口から出た言葉は掠れていた。
「これで、あの牛鬼の依頼は完遂できそうだ。やっと……」
「ねぇ、どうやって知らせるのよ?」
突如として、事務所に響く霧子の声。どうやら、見藤の帰宅に合わせて社から降りて来たようだ。彼女はいつものように、隣に座る。
霧子の疑問はもっともだ。しかし、見藤はこともなげに答える。
「芦屋家に保管されていたんだ。『枯れない牛鬼の手』の所在も、隠匿の呪いによって隠されていた」
それは芦屋邸を覆っていた結界、さらには姿を偽り隠してしまう稀有な呪いのこと。見藤は言葉を続ける。
「こうして芦屋の手を離れたんだ。隠匿の呪いは効果がないだろう」
「ふーん」
「妖怪の肉体の一部だからな。気配を察すれば、自ずと事務所を訪ねて来る」
「そういうものなのね」
霧子は納得したように頷いた。そんな彼女の様子に、見藤は目を細める。しかし、それはすぐに真剣なものに変わった。表情が分かったことに気付いた霧子は、様子を窺うように首を傾げる。
「どうしたの?」
「…………いや」
じっと、真新しい桐箱を見つめていた見藤は小さく溜め息をつく。思い出すのは、怒れる牛鬼との邂逅。そして、彼の行動。何かを払拭するように首をしきりに振っていた仕草だ。――過去、師より言い伝えられた言葉が不意に蘇る。
見藤は思い詰めるような表情を浮かべ、顔を上げた。
「いや、もうひとつ気掛かりなことがある。準備を、しておかないと――」
「慎、ちょっといいかしら?」
「う、ん?」
珍しく名を呼ばれ、気恥ずかしさから返事をした声が裏返ってしまった。何事かと、霧子を注視する。すると、彼女は見藤の手を取り、じっと睨み付けている。
どうしたのか、と声を掛けようとした瞬間――。霧子が口を文字通り、開いた。彼女の形の良い唇と、怪異らしく鋭利な犬歯に目を奪われる。途端、指先を襲う痛み。――噛まれた。
驚きと痛みで、思わず大きな声を上げる。
「いっ――!? 霧子さん!? なに、を」
「ふぅん、これで少しはマシね」
「はぁ!? 何を言っているんだ……。痛いだろう……」
見藤は慌てて指先を見る。そこには噛み痕がくっきりと残っていた。呆れたように溜め息をつくと、じっとりとした視線を霧子に送る。噛まれたのは初めてではないが、一度や二度でもない。痛いものは痛い。
「その噛み癖、なんとかしてくれないか……」
「嫌よ」
「全く……」
ぷん、と拗ねるように顔を逸らした霧子に、見藤は何も言えなくなるのだった――。
◇
その日は突然、訪れる。
事務所の扉の向こうからでも分かる程に、漂って来る威圧感。それは霧子であっても違和感を覚えるには十分だったようで――。
「……な、なによ!? この気配……」
「来た――」
見藤は小さく呟いた。霧子は扉の方を見やり、ソファーから立ち上がる。はらりと、艶やかな髪が肩から流れ落ちた。
隣に座っていた見藤は真剣な眼差しで扉の向こうを注視する。――途端、威圧感が増した。見藤は咄嗟に、霧子の手を引いて庇うような位置に立たせる。
瞬間、扉が勢いよく吹き飛ばされ――。大きな物音を立て床に落ち、勢いそのままに直進する。二人が座るソファーの寸前で吹き飛ばされた扉の勢いはようやく止まった。外れた扉はひしゃげ、端々は粉々だ。
見藤は安堵の溜め息をつく。危うく霧子に扉の破片が降りかかる所だったと、後方にいる彼女を見やる。霧子は何が起きたのか、一時的に理解できていない様子だ。視線を戻すと、哀れにも無残な姿となった扉が嫌でも目に入る。
(あぁ、事務所の扉が……。修理を依頼しないとな……。突然の出費が痛い)
もうひとつ、溜め息をついた。――すると、そこに現れたのは待ち人でもある、怒れる牛鬼だ。大きく立派な角をもたげながら、扉があった場所をくぐる。彼は酷く苛ついた様子で声を上げた。
「して、小僧。儂の左手の気配がするが、これ如何に」
「依頼の品だ」
「儂の左手か。何奴が持っていた、何奴が隠していたっ!?」
「少し、落ち着いてくれ――」
怒れる牛鬼は矢継ぎ早に問い立てた。見藤の言葉に耳も貸さず、視線を動かすと真新しい桐箱に目を留める。牛鬼は漏れ出す気配で桐箱の中に、彼の左手が保管されていると理解したのだろう。
弾かれたように足を進める。見藤と霧子がいる、ソファーの前に置かれたローテーブル。そこに桐箱はある。見藤は桐箱を牛鬼に手渡そうと、手を伸ばす――。
「ならん!」
声をこれでもかと荒げた牛鬼は腕を振り下ろし、ローテーブルを――真っ二つに割った。桐箱は床に転げ落ちる。朱赤の絹糸が破片に絡み、解ける。中に保管されていた『枯れない牛鬼の手』が露になった。
見藤は呆気に取られ、割られたローテーブルを見つめていた。しかし、はっとして牛鬼を見やる。
「あぁ、もう……! いちいち物を壊すな! 依頼の通り、こうして――」
そこで言葉を切った。はたと異変に気付いたのだ。牛鬼はしきりに大きな角をもたげ、首を振る。異変に気付いたのは霧子も同じだったようで――、身を乗り出して牛鬼に声を掛けた。
「ちょっと!」
「おい! しっかりしろ!」
霧子に続き、見藤も声を荒げた。視線を逸らし、壊された扉、ローテーブルの残骸を見やる。見藤が知る「牛鬼」とは似ても似つかない行動。
(これは怒りによる破壊衝動のようなものなのか――? 気性が荒過ぎる――)
じっと牛鬼を注視する。
牛鬼は何かを振り払うように、しきりに頭を左右に振る。それが止めば、喉の渇きを嘆くかのように、右手で自身の首を掻きむしり始めたのだ。――明らかな、異変。苦悶の表情を浮かべ、呻く牛鬼。
「グ、ゥググ………………!」
「準備をしておいて、正解だったってことか……!」
彼の様子を目にした見藤は急いで事務机まで移動する。机上にあるのは呪い道具。もしもの時に備えて、着々と用意していたのだ。
机上に置いていた香炉の蓋を開ける。すると、そこに渦巻くのは不思議な煙。徐々に煙が立ち上り、蓬の香りが事務所を満たす。見藤はそれを確認すると、急ぎ早に牛鬼の足元を見やった。そこには、朱赤で描かれた不思議な図式。
怒れる牛鬼と邂逅した日、見藤の脳裏に蘇ったのは幼き日のことだった。
それからというもの。怒れる牛鬼の言動がやけに引っ掛かり、頭の片隅にしまい込んだ師との記憶の中を探していたのだ。そこには師から教えられた言葉があった。
『今後、儂の同族に出会うことがあるやもしれん。もし、儂の同族が怒りによって我を失うようなことがれば――。そのときは、この呪いを使いなさい』
穏やかな翡翠の瞳を思い出す。しかし、目の前の牛鬼の瞳は怒りに燃える赤だ。今がその時だと確信する。
見藤は祝詞を矢継ぎ早に唱える。
(この呪いを使う日が来るとは――。なんせ初めて使う……、上手くいってくれよっ……!)
その間にも、牛鬼は攻撃的な衝動を抑え込めようとしているのだろう。喉を掻き切る勢いで自身の喉元を掻き毟る。それを目にした霧子は慌てて止めようと、牛鬼に近付こうと足を進めたが――。
「儂に近寄るなっ……! グゥウ……、危険だ!」
「そうは言うけどねっ――、あいつとの住まいで好き勝手暴れられると困るのよ!!」
霧子を止めたのは牛鬼自身だった。目の前の光景にどうすることもできず、霧子は唇を噛む。意を決したように、八尺様として怪異の姿を晒した。そうすれば、牛鬼の巨体にも負けず劣らずの体躯となる。
霧子は大きな体躯を活かし、牛鬼の右手を鷲掴みにした。抵抗しようと暴れる体を抑え込む。
「―― ゥヲォオオオォォォオォ!!!!」
怒りにまみれた咆哮。見藤は弾かれたように顔を上げる。
「駄目だっ! 怒りに呑まれるな!」
「ウグゥッ――!!」
途端、暴れる牛鬼を抑え込んでいた霧子の拘束は振り払われる。霧子は体勢を大きく崩し、床に手を着く。
拘束を振り払った牛鬼の鋭利な角の矛先は――、見藤だ。
だが、もたげられた角は届くことはなく、牛鬼の体躯が僅かに揺らいだ。蓬の香りが牛鬼に届いたようだ。途端、足元に描かれた紋様が光を放つ。
見藤は奥歯を噛みしめて、成り行きを見守る他なく――。
「一か八かだっ……!」
「慎!」
「頼む、効いてくれっ!」
見藤と霧子の、悲痛にも似た叫びが木霊した。




