72話目 隠匿されし詭計と憂いごと②
◇
見藤が案内されたのは応接室だった。畳に陽の光が当たらず、暗い。それが返って息が詰まるような空気を醸し出す。
互いに、用意されていた座椅子に腰を下ろす。見藤が視線を上げると、机上には桐箱が置かれていた。恐らく、これが『枯れない牛鬼の手』だろう。しかし、見藤ははたと気付く。
(会合の時に見た桐箱と違うな……。保管していた箱を変えたのか)
目の前にあるのは古めかしい桐箱ではなく、真新しいものに変わっていた。譲り渡すとなった『枯れない牛鬼の手』、これもまた芦屋の心遣いなのだろうか――。見藤はじっと桐箱を見つめる。
すると、見藤の視線に気付いた芦屋は桐箱に触れ、そっと蓋を開ける。
「こちら、依頼の報酬となります。ご確認を」
そこに鎮座しているのは紛れもなく『枯れない牛鬼の手』だ。張りのある艶やかな黒い皮膚、浮き出た血管は脈打ち、生を示す。
見藤はそれを目にした途端、湧き上がる感情の名前が分からず。ようやく開いた唇は僅かに震えていた――。
「はい、確かに」
そう言葉を口にして、軽く頭を下げる。すると、芦屋は困ったように肩をすくめて見せた。
得も言われぬ空気が流れる。そこで僅かに空気が揺らいだ。何事かと、互いに桐箱を覗き込めば、微かに動く『枯れない牛鬼の手』。特徴的な指は方角を定めるように左右に動き、手首は狭い箱の中で位置をずらそうと這う。
静けさの中、息を呑む音が見藤の耳に届く。芦屋は険しい表情を浮かべ、注視していた。
「……やはり、動きますね」
「そうですね」
芦屋の言葉に頷く見藤。だが、彼の様に困惑した感情もなければ、畏怖の念を抱くこともない。ただ、目の前の事実に対し、端的に答えたのだ。
すると、芦屋は早々に桐箱の蓋を戻してしまった。朱赤の絹糸を結び、封をする。見藤の手元まで桐箱をやると、重苦しく口を開く。
「こちらはこのままお渡し致しますので」
「あり、がとうございます……」
怒れる牛鬼の存在を知る見藤は複雑な心持のまま、礼を伝えた。その際、思わず言葉に詰まってしまった。
芦屋は軽く首を横に振る。そこで、はたと思い出したかのような仕草をして見せ、おもむろに問い掛けた。
「これは好奇心が故の質問なのですが――」
「はい……?」
「怪異に心を砕き過ぎると、人としての何かを失うのでは――?」
「あり得ません」
これだけは断言できる、と力強く言い放つ。一体なぜ、彼は突然そのようなことを口にしたのだ、と怪訝に眉を寄せた。それに、どうして怪異に心を砕くという言葉を口にしたのか。芦屋には一切、その片鱗を見せていないはずだ。
見藤は目を伏せて、そっと口を開く。
「それに――、キヨさんも鬼との縁を大切にしている」
「そう、ですね」
「それでは、頂戴します」
言いよどむ芦屋に対して、見藤は颯爽と言ってのけた。キヨの名を出された手前、反論するには難しいのだろう。
見藤は『枯れない牛鬼の手』を譲り受けようと、桐箱に触れた。途端――、指先に走る僅かな痛み。
(ん……? 今、指に――)
違和感に眉を顰めたが、これといって変化はない。見藤の目に視えるものは何もなく――。
(気のせいか……)
もう一度、手元の桐箱を見据える。ひと呼吸置くと、持参した風呂敷で優しく包み込んだ。――後は帰路につくだけだ。ようやく達成される切願にふっと目元が緩む。
すると、芦屋は先程と打って変わった様子で、年相応の笑みを浮かべた。
「ところで――。折角ここまでおいで下さったのですから、お食事でも如何でしょう?」
「はい? いえ、私はこれで失礼しま――」
「えぇ……!?」
「………………」
早々にお暇しようと考えていた見藤。しかし、芦屋にこの手の反応をされると、どうにも苦手意識が先を行く。口にする答えは意図しないものに変わった。
「ご相伴にあずかりマス……」
「あぁ、それは嬉しいです!」
「……はぁ」
嬉しそうに声を弾ませた芦屋。見藤は小さく溜め息をつく他なかった――。
そうして、芦屋邸にて振る舞われた食事。芦屋と共に、食事の席に着いた見藤。
途中、彼と色々な会話をした。しかし、そのどれもが記憶が曖昧だ。更には――。
(……居心地が悪すぎて味がしない)
固形物を咀嚼し、無理やり胃に送り込む。その繰り返し。食事を終える頃には、疲労が色濃く浮かぶことになってしまった。
互いに食事を終え、出立の時。門前には芦屋と付き人の姿があった。
見藤は一礼し、別れの言葉を口にする。
「それでは、失礼します」
「はい。此度の依頼、ありがとうございました」
「い、え……。そんなことは……」
芦屋は深々と頭を下げたのだった――。見藤は慌てて、姿勢を直すように身振り手振りで伝える。
いつものやり取りを繰り広げる光景。付き人はじっとその様子を眺めていた。
◇
見藤を見送った芦屋は依然、門前に佇んでいた――。背が見えなくなるまで見送った名残で、そのままじっと。
すると、付き人は不安げに揺れる瞳を芦屋へ向けた。様子を窺うように、そっと声を掛ける。
「坊ちゃん、これでよかったのでしょうか……?」
「えぇ。そうでもしなければ、我々が賀茂家からの糾弾から逃れる術はありませんでしたからね。見藤家の言いなり、というのは些か不本意ですが」
不満げに鼻を鳴らしながら、そう答えた芦屋。――それは、見藤家の令嬢からの要求。しかし、本当の思惑は別にある。
付き人はおずおずと、言葉を口にする。
「私めには、それだけではないように思えるのですが――」
「余計な詮索は身を滅ぼしますよ?」
「…………はい」
芦屋の思惑を知ってか知らずか、詮索するような付き人の言葉に芦屋は睨みを利かせる。彼の冷酷な一面を知る付き人は、小さく返事をする他なく――。口を閉ざし、一歩後ろに下がった。
芦屋は未だ、道を見つめていた。
(こうでもしないと、あの方は救われない――。怪異は人に非ず、祓ってしかるべきなのですから)
胸に秘めた思いは、決して理解されないだろう。しかし、これは善行だと信じて疑わない。
(芦屋家に代々伝わる、当主のみが知る隠匿の術。掛けた呪いそのものを隠す、特異。それに気付く眼は失われつつあった……好都合でしたね)
しかし、懸念すべき点がひとつ。彼が事務所の神棚に祀っている怪異だ。芦屋は思考する。
(恐らく、彼と何か誓約を交わしていると見ていいでしょう。そうすると、彼らは持ちつ持たれつの関係。私を仇成す者として、認知したならば――)
思い至った結末に、溢した言葉は諦めにもにた心情。
「気付かれたときには――。私の首を差し出しましょう」
「っ……、それは!? 坊ちゃん!」
芦屋の言葉を耳にした付き人は咎めるように声を荒げた。しかし、芦屋の目に宿った火種は燻り続けている。
「あぁ、もちろん。タダでとは言いませんよ」
そっと呟いた言葉は冷え切っていた。




